« a hard day's nightmare | メイン | 六月病 »

「吸いません。灰皿ください」

5月31日(火)

関西フィルハーモニー管弦楽団による、ハイドン:チェロ協奏曲第1番 ハ長調 Hob.VⅡb.1とチャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調作品74『悲愴』を聴きに行く。
タカモトさんにチケットをいただいたのである。
ご同行は、チームSNKのお三方。

ハイドンのチェロを指揮するのは、ハインリヒ・シフ。
指揮だけでなく、チェロ独奏もする。管弦楽による演奏。
指揮台にいながらチェロを奏でる。
そんな二刀流のような姿を見るのも初めてなら、それをまたかなり愉快にされるのも方を拝見するのも初めてである。
すごくいいモノを見せていただいた。
楽器か身体かその境目がないくらいに一緒になっている。

『悲愴』は、かなり哀しい曲である。
思い切った曲調の変化があって、テンポが交互にやってくる。
『悲愴』と聞いて、ベートーヴェンの『悲愴』だと思っていた。
同じ悲愴でもこうも印象が違うものか。

それにしても。
舞台はやっぱりナマがいい。


5月30日(月)

あまりものごとをうまく考えることができない。
瓶のそこに溜まった澱のように、わかるようでわからないくらいの疲労が身体のどこかにあるのだろうか。
睡眠時間が少ないことが原因かもしれないけれど、精神的な安らぎが欲しいところでもある。


5月29日(日)

一夜明けて、下川正謡会大会。
ほぼ朝一の出番なので、8時半には会場となる湊川神社神能殿へと向かう。
昨日、西宮に戻ってきたのは針が変わる直前だったから、睡眠時間はわずかである。
しかし緊張のせいか、思ったほど欠伸も出ず、身体がぴりっと張り詰めている。

素謡の『小袖曾我』のワキ(五郎時経)、仕舞『吉野天人』で、舞台を踏ませていただく。
謡は声を大きく、充分に出すことができる気持ちのよい舞台だった。うまくできたのかどうかは、別として。
仕舞は、またしても課題が残る。
それでも、下川先生からさまざまなアドバイスをいただけた。次に向けてまた精進したい。
 
番組の最後にある下川先生の番外舞囃子『高砂』にしびれ、感動しまくってしまった。
これだけは観続けて何年になるだろう。
そのすごさは年々増していく。今日はこれまで拝見した中で、一途な感じで、身体がびしっと、しびれてしまった。
初めての舞台から何度か能楽堂に足を運ぶなど、見ている側の問題もあるかもしれない。
しかし歳月を経るほどに、下川先生の偉大さを感じる。

この日は、たくさんの方にご観覧にいただき、ほんとうにありがたかった。
朝早くからだというのに、遠方からもお越しいただいて、また心温まる楽屋見舞もいただきました。ほんとうにありがとうございます。
この場を借りて、お礼申し上げます。
社中のみなさま、ご観覧に来てくださいましたみなさま、そして何より下川先生のご高配により、ことしも無事に舞台に立たせていただく機会をいただけました。
ほんとうにどうもありがとうございました。
 
打ち上げまでの一連の事柄が終わる頃、わたしは、いつになくよく笑っていた。
どっと疲れることはもう時間の問題だった。


5月28日(土)
 
第43回全日本合気道演武大会が九段下の日本武道館にて行われる。
思えば初めてひとりで降り立った九段下。
あの日から幾数年。
ことしは多田塾甲南合気会として演武に参加する。
数年の歴史は、さまざまな人とのご縁をもたらしてくれる。
先日、稽古のあとに後輩から、「先輩、いったいどれくらい演武会に出場してるんですか?」と、まるで生きた化石でも見るかのように尋ねられた。わたし程度で化石なら、内田先生は、地球の大地そのものとなるだろう。

今回も多田先生の演武を拝見する。
毎年拝見しているのに、毎年違った感動がある。
当たり前だがこういう当たり前のことに気づけるのがうれしい。

同じ場所で同じひとたちと交わす挨拶もとてもいい。独特のノリがある。
今回とても愉快だったのは、最近ご結婚されたミヤウチさん。
直接「おめでとうございます」の声を掛けることができた。
奥様のご出身は、なんとわたしの実家と近そうなのである(帰郷の際はぜひ魚を!)。
坪井さんのツボを抑えた絶妙なお声掛けもたいへんに愉快だった。(名刺切らしてスミマセン!)
気錬会の歴代幹部のみなさま方も益々お元気でご活躍の様子である。
こうして顔を合わせてご挨拶させていただける悦びは結構いいものである。
名前を挙げていたらきりがないくらい、年々知り合う方が増えていく。それがまた楽しいことでもある。

また今回は、合気道を観に来られた(?)N大学のY地さんにもお会いすることができた。
なぜだかよくわからないが、この方とは、たぶん、いつかどこかでお会いするような気がしていた。
とても心地のいいひとで、わたしは一気に和んでしまった。
またお会いしましょう。できましょう。

こうして、恒例の行事をゆるやかに終える週末。


5月27日(金)
 
たいがーたいがーじれったいがー。
どらごんどらごんせいしょうなごん。
とくれば。
ごろーごろーつねひごろー。
なんてどうでしょう!


5月26日(木)

とりたてて記録するような事柄が思い出せないので、思い出し的日録。
半襟を付けるつもりで夜が過ぎ。


5月25日(水)

「煙草吸うかい?」「吸いません」。
「ヒナはいるかい?」「巣、いません」。
「すごく眠いよ」「睡魔1000」。
「意味がわからんっ!」「スイマセン」。


5月24日(火)

昨日付の内田先生の日記に、「隣のオフィスで働いているふりをしているウッキーも呼んでエスプレッソをご馳走する」という件がある。これは「を」より「も」がふさわしいと思う。どちらの「を」であるかは、読者のご想像におまかせするとして。

本日付の内田先生の日記を見ていたら、ブログというものもいいなあと思う。
なにやらオツなものである。
しかし、その前に、わたしがしなければならないことがある。
それは「物事はシンプルに書くこと」である。

いつだったか、内田先生に、とある話を伺った。
それはこんな話しである。

あるところに、ひとりの先生がおられた。
この先生を仮に「K先生」と呼ぶことにしよう。

K先生は若かりし頃、溢れんばかりの愛を並べ、感情を露にして論文を書かれていたそうだ。
しかし、その愛(のようなもの)には、かなり偏りがあった。言うなれば、自己愛的なものだった。
よって、書くものは、あたりかわまずの愛(のようなもの)であった。何かを無闇矢鱈に撒き散らしたような体裁になっていた。感情を強く表現することこそがよきことといった信念がK先生にあられたからである。
そんなあるとき、K先生は、指導教官(あるいはどなたか指導者に当たる方)に、論文での感情を抑えるよう指導される。
以後、K先生は悔い改めるかのように、努めて感情を抑制してモノを書かれるようになる。
ことばでは簡単だが、K先生にとって、それは、本当に苦しい日々だったそうだ。
感情を抑えることがである。それでもK先生は、数年以上にわたり、感情を抑えた書き方をされたのだそうだ。
そうして随分してから、K先生は、「愛に溢れる」ということの意味を考え直されることになったのだという。この日々があったからこそ、「愛が溢れる」ことの意味がいったいどういうことかわかったのだという。

伺った話しはここまでである。
その後のK先生がどうなられたのかは、想像に難くない。

先日わたしは、偶然にもこれと同じような事柄の話をお聞きした。

物事はシンプルに書くこと。
無色透明であってもそこから滲み出る、その人の個性というものがあるということ。

「それだけのこと」かもしれないが、「それだけのこと」に、わたしは、これまでずっと、きちんと気づかずにいた。あるいはずっと見過ごしてきた。

それに気づいた途端、また何十回目かの目が開いた。
心臓がどきんっとした。
開いた目から、涙が溢れ出そうになった。

的確なことばでアドバイスしてくださる人物がいることに気づいたからである。
あまりによく似た喩えは、あまりに不出来な弟子にとって、いつも強く心に響く。
改めて師を持つことの意味に深く感謝した。

About

2005年6月 1日 09:51に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「a hard day's nightmare」です。

次の投稿は「六月病」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。