学校を責めるメディアと親たち

2月16日(水)

“「ありきたりの方策だ」「管理責任は」—。教職員殺傷事件を受けて15日夜、大阪府寝屋川市立中央小の体育館で開かれた緊急の保護者集会。市教委や学校からは事件を防げなかったことへの謝罪はなく、保護者らは終了後、怒りと不信感をぶつけた。保護者の1人によると、集会では殺害された同小教諭鴨崎満明さん(52)に出席者全員で黙とうをささげた後、市教委幹部らが事件の概要や今後の対策を説明し、18日からの授業再開方針を示した。
校門の施錠徹底、心のカウンセリング、家庭訪問…。1つ1つ挙げられた対策。約1時間の集会後、ある父親は「ありきたりなものばかり」と吐き捨てた。別の父親は「学校も教育委員会も一言も謝罪しない。悪いのは犯人だが、管理責任だってある。腹が立つ」と話した。(2月15日 共同通信)”

「死者に鞭打つ」とはこのことか。

非命に倒れた鴨崎先生は、幽界からこの保護者集会をどんな思いで見守っていたのだろう。

この「別の父親」は、何を謝罪してほしいのだろう。「学校の管理責任」か?「今回は、不幸中の幸いというべきか、児童には傷害が及びませんでしたが、かような不審者が校内に侵入したことが、そもそも学校の管理不行き届きと言わざるを得ません。保護者の皆様にはたいへんなご心配をおかけしたことを、まずもって心からお詫び申し上げます。」とでも釈明すれば溜飲が下がったのだろうか。

メディアの報道から事の顛末を子細に辿ってみれば、中央小児童にいっさい危害が及ばなかったのは、犯人の殺意が子どもには向けられていなかったということもあるが、明らかに先生方の咄嗟の対応(緊急を報じる非常ベルのスイッチを押したのは、職員室で刺傷を受けた2人の先生だったと聞く)が、子どもたちを無事に避難させたということの最大の契機となったのではなかったか。

中央小の先生方は、まさに身を挺して子どもを守ろうとしたではないか。称賛されこそすれ、非難を受ける所以などないではないか。

大阪池田小の事件以来、全国の小中学校では不審者の校内侵入に備えて、文科省や所管教育委員会からの指導を受けつつ、「防犯訓練」などを実施してその対応策を実施してきたはずだ(手前の学校で実施した様子については、昨年1/27付けの「うなとろ日記」に書いたので参照してください)。

だけど、どんなマニュアルを作成しようとも、「100%のセキュリティ」を保証することなど夢物語に等しい。

これは、こと学校現場に限らず、あらゆる現場においても同様ではなかろうか(これはちょっと想像力をはたらかせれば気づくと思うのだが。そうすれば、対策が「ありきたりなものばかり」と「吐き捨て」ることもなかったであろう)。

今回の事件でも、来訪者が高校生くらいの年代でましてやその学校の卒業生とあらば、日本全国どこの小中学校の先生だって、まずは用件を聞こうとする(これは対応マニュアルの一つとして文科省からも指示されている)だろう。そのとき、「刃物を忍ばせているかもしれない」などと考える教員などまずいない。ましてや「背後から刺殺されるかもしれない」などとは想像することすら困難だ(そんなふうに考える教員こそ、その資質を疑われるであろう)。

このこと一つをとってみても、いくらマニュアルを作成しようが、それは事件の未然防止にはつながらず、事件の後追いにしかならないことが明らかであろう。

さらに、学校現場では地域や保護者に「開かれた学校」となるよう求められている。「学校を開きつつ、不審者の侵入を防ぐ」のは、いかにも「学校のセキュリティというアポリア」なのである。

あらためて言う。

「別の父親」さん、あなたが言っていることは、今回の犯人が供述していることと通底しているということに気づいてほしい。伏流しているのは、常に他罰的に思考する「被害者意識」である。

そうではなくて、「私たち保護者にもできることがあるとすれば、具体的にどんな協力をしていけばよいのでしょうか」と、学校と手を携えながらこれからのことを考えていく姿勢を示してほしい。

そうしなければ、無念の横死を遂げられた先生も瞑目されまい。

それにしても、今回の事件は、殺意の対象が子どもではなく教員であったということで、従来の学校侵入事件とはややその性格を異にしている。

教員も、自分で自分の身を守ることができなければならないということである。

しかし、「護身術」の心得のある先生など、いったい学校に何人いよう。たとえ心得があるにしても、実際に刃物を前にしたときにその術が発揮できるかどうかは覚束ないであろう。

これからは、現場の教員には、実技を主とした「護身術講座」を「研修」の一環として取り入れ、不測の事態に備えるようにするしかないのであろうか。

また、これから教員になろうとする大学生には、教員免許状取得の際に「護身術」を必修単位として位置づけ、採用試験の際にも護身術の「実技」を課すほかないのであろうか。

まことに、教員には受難の時代となったものである。

もう一つ、別件でアタマにくることもあったのだが、それはまた後日。