スーさん、教育政策についてクリティカルになる

11月18日(木)

昨日は、県教育委員会主催による「教育課程編成説明会」出席のため、県総合教育センター「あすなろ」へと終日出張。

これは、来年度の教育課程を編成する際の基本的なコンセプトと留意事項について、国の方針を受け、県が各小中学校に周知徹底を図るため、毎年開催されているものである。

基本的に、各学校における教育計画の立案は、『学校教育法施行規則』にもあるとおり、「校長の監督を受け」教務主任が行うよう定められている。

だから、今回の会合には、県西部地区小中学校の全ての教務主任に招集がかけられていた。

朝9時開会ということで、学校へは寄らず直接「あすなろ」へと向かう。「あすなろ」は掛川市にある。自宅からは車でおよそ1時間。

はじめに、教育課程編成全般に関して、県教育委員会義務教育課指導主事の説明を、続いて編成実施上の配慮事項についての説明を聞く。

気になったことが一つ。

実施要項中には、“学びの充実を図るため(…)学校においては「学校・授業の主役としての子供が生きる学校教育を創造すること」(子供中心主義)を軸として…”という一文があった。

どういう文脈で「子供中心主義」という言葉を使用しているのか、十分な説明はなかったが、少なくとも手前が承知している「子供中心主義」というのは、あまりよきものとは記憶していない。

「子ども中心主義」教育については、東大の苅谷剛彦氏による『教育改革の幻想』(ちくま新書)に詳しい。

“教育史の研究によれば、こうした子ども中心主義の教育の思想が、実践とともに最も幅広く展開したのは、アメリカにおいてであった。二十世紀初頭のデューイやキルパトリックといった、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジとその付属校、リンカーン・スクールなどを舞台に「進歩主義教育」と呼ばれる教育の改良運動が展開した。”

「子ども中心主義」教育の原点はアメリカにあったのである。

そうして、実際に1980年代後半から90年代まで、「子ども中心主義」に導かれて教育改革を実践した結果、1995年に全米教育評価委員会のテスト結果で、読み書きにおいても算数(数学)においても、全米で底辺に位置するような惨憺たる結果に終わったカリフォルニア州における失敗ケースを、

①州全体、あるいは国全体で、教授法についての考え方を一挙にドラスティックに変更することは、失敗した場合に、そのリスクがあまりに大きいこと。②改革のめざす改善の方法が十分明確に定義されなかったり、よほどの経験と専門性を有する教師でなければ十分な成果があげられないような教授法においては、広範な「実験」が失敗する可能性が高いこと。③不利な社会経済的環境におかれた社会階層やマイノリティの子どもたちにとって、「子ども中心主義」の教育がふさわしいのかどうかについても検討する必要があること。

の3点にまとめながら、「子ども中心主義」について以下のように総括されている。

“「子ども中心主義」教育の歴史研究から浮かび上がってくるのは、特別な条件のもとで成立可能であった学校での「実験」の成果が、理想の教育の実行可能性を保証するものと考えられていたという点である。教師たちの意欲も高く、そこで学ぶ生徒たちも恵まれた家庭出身であった。しかも教師-生徒比をはじめ、学校に備わった資源においても、通常の学校とは比べられないほどの恵まれた環境のもとで、カリスマ的な性格を持った指導者に導かれて実践されていたのが「子ども中心主義」教育の原形だったのである。(…)一つひとつの教室の授業実践の問題、一人ひとりの子どもの学習の問題と、州や国といったより大きな単位の教育制度の問題とを混同してしまうと、ますます私たちは、子ども中心主義教育のロマンに幻惑される。その理想の輝きの前に、制度全体が動いたときにどうなるかという足下の現実が見えなくなるのである。”

単に、「子どものことを第一に考えて教育課程を編成してくださいね」という意味で「子供中心主義」と言われるのであれば別だが、そこに「教授法」までも含めたアメリカナイズされた意図が含まれているとするなら、これについては精密な議論を行う必要があるのではないだろうか。

昼食後は、「特別支援教育」に関しての説明を聞いた後、グループ別協議。

ここでも、気になることがあった。

今回、一部改正された学習指導要領では、「個に応じた指導」のいっそうの充実が求められている。

もちろん、これはこれでいいのであるが、問題は「個に応じた指導」を展開するために実施する「少人数指導」が、「習熟度別学習」とセットになって語られているというところである(先日行われた「指導方法工夫改善」説明会の折りにも、「文科省では習熟の程度に応じた指導の拡充を目指している」との説明があった)。

「少人数指導を行う」という学校には、それに応じた教員が「加配」される。つまり、学級編成上必要な教員以外にプラスして教員を配置してくれるのである。

教育現場では、教員の数は多い方が何かと都合がよい。

どこの学校でも一人でも多くの教員を配置してほしいということから、県教育委員会には「加配」のお願いをするようになる。

もちろん、「お願い」というのは文書である。「指導方法工夫改善実施計画書」という。

この「計画書」をもとに、どの学校にどれだけの教員を「加配」するのかが決定されるのである。

「加配」していただくためには、いきおい、「文科省が推奨している“習熟の程度に応じた指導”を実施します」という文言を入れた方がよいのではないかと揣摩憶測が働いてしまうのである。

実際に、「習熟の程度に応じた指導」を実施した学校ではどうであったのか。

それが、グループ別協議で話題になった。

実施した学校の先生からは、異口同音に「生徒の評判がよくない、授業がおもしろくないという生徒が多い」という話が出された。

どうも、文科省の考えていることと、実際の現場とでは、温度差があるのである。

もちろん、全国の学校の中には「習熟度別指導をやって、こんなにも成果があった!」という報告をされている学校もあるのであろう。

しかし、手前はそういう報告があったということを、いかにも不勉強のため知らない。

「習熟度別指導」のことについては、以前この日記でも触れたから、同様のことは繰り返さないが、「少人数指導」=「習熟度別指導」とは考えない方がいいような気がするのである。

そのへんの事情については、指導主事からも「個に応じた指導を、たとえば少人数指導というシステムを導入するということでとらえないようにしたい。あくまで、子ども一人ひとりにきめ細かな指導を行うことこそが肝要なのであって、そのために必要な指導を行っていくことが、個に応じた指導である」との御指導があった。

そうだよなあ、と思う。

そう言えば、はじめの教育事務所長の話の中にも、「国の揺らぎはあまり気に留めないようにしましょう」とのお話があった。

なるほど。そうなのだ。どうやら、義務教育費国庫負担金も削減されるようだし、これからは「地方分権」の時代なのだ。

とりあえず、手前は来年度の教育課程編成をじっくりと考えることにしようか。