帰国

7月21日
 
 七年前の七月、私は生まれて初めて、アメリカ合衆国、ウィスコンシン州はマディソンという小さな街に、夫である白井くんと二人で降り立った。何の準備もしてなかったので、着いてすぐに私はマディソンにある語学学校で必死に英語の勉強を始めた。それから子供も産まれ、二年後、私たちは予定通り日本に戻った。だけどその後ワケあって再びマディソンに舞い戻ると、今度は四年間という月日をこの美しい田舎町で暮らすことになり、気づけば何の因果か三十一歳から三十八歳のうち六年間という歳月を、私はここウィスコンシン州マディソンで過ごすこととなった。
 
 一度目の滞在とは打って変わり、二度目のマディソンでの生活は極貧から始まったので、血を売ろうとしたり、フードパントリーに通ってボランティアとして働いてみたりと、無茶苦茶なことが多かった。その上雪道をスリップして車を壊したことも、パンクしたまま車を走らせたり、はたまた警察に呼び止められたりと、怖い出来事も少なくなかった。高速道路でパニック発作を起こしたこともあった。パンデミックという未曾有の事態が起こり、さよならも言えずに会えなくなった人たちがいた。英語が上達するにつれ、友人たちと揉めることもあったし、ブラックライブズマター、マスクやワクチンを巡る攻防の折には、アメリカという社会が直面しつつある大きな分断を肌で感じることがあった。

 だけどどれだけハードな時を過ごそうと、この六年間、私のマディソンを愛する気持ちは一度も変わることがなかった。どれだけ辛い出来事が起ころうとも、私の目に映るマディソンは変わらず美しかったし、点在する湖を眺めれば、くよくよと悩んでいることがバカバカしく思えることがよくあった。
 モネの油絵のような湖の水面は、どんな時でも穏やかに光り輝いて、そこにいる人々の心を癒しているようだったし、冬になれば真っ白に凍りつくことも幻想的だった。湖が凍らない時はよくアヒルが泳いでいた。名前も知らない不思議な鳥が囀っていた。そして夏になるとそこらじゅうに蛍が飛び交って、やっぱり私たちの心を明るく照らすのだった。

 人との関わりもまた、私がマディソンを愛する理由の一つだった。
 ブラジル人のママ友のルアーナは、私を日本に帰国させないよう、白井くんと別れてアメリカ人と再婚することを最後まで強く勧めた(彼女はウィスコンシン州でゲイの結婚が認められていることから、自分が既婚でなければ結婚したのに...と何度も言った)。中国人のメンディは最後の日、「自分はこれからどうやって生きたらいいのか?」と言って泣きながら別れを惜しんでくれた。ロシア人のエフゲニアも、私が最後に手紙を書いて渡すと、「こういうのは大嫌いだからやめて欲しい」と言って怒ると、やっぱり唇を歪めて泣いた。私も泣いた。

 夏になると街のあちこちでよく無料のライブイベントが催され、人々はテラスで夜更けまで飲み集っていた。秋になれば誰もがフットボールに熱狂し、冬になれば湖はスケートリンク場になった。大学のキャンパスは多くの若者たちが行き交い、大学のキャラクターであるアナグマのバッキーは街のアイドルだった。そして春、学校の学期が終われば...、それは別れの季節だった。
 目を瞑れば今も、私はありありと、その光景を一つ一つ思い浮かべることができる。ダウンタウン、街のシンボルである真っ白な州議事堂、その奥にあるフランク・ロイド・ライトによって設計されたモノナテラス...。たくさんの思い出が「マディソン」という言葉のなかに詰まっていた。

 だけど、私にとっての「ウィスコンシン州マディソン」は、この地理上の、海をはるか遠く越えたアメリカ大陸だけに位置しているものだけではなかった。というのも、ここ長屋での『ウィスコンシン渾身日記』という場所もまた、ある意味では私のもう一つの六年間のマディソン生活だったからである。

 辛い時、苦しい時、あるいは楽しい時も、私の心を鼓舞したのは何よりも、恩師である内田樹先生にいただいたこのブログという「場所」であり、それは仕事もなく何の目的もなくアメリカに駐在することになった主婦である私にとって、大きな心の拠り所だった。
 今でも、先生があの時「日記を書いたら?」とお声がけくださったことは、私の人生において最も大きな幸運だったと思わずにはいられない。ここでの六年間なしに、私のマディソン生活は決して語り得ることはなかっただろう。
 先生がそこにいて、私のマディソンでのあれこれを聞いてくださっていたことで、私はこんなにもマディソンでの生活を愛することができたからである。

 6月13日をもって、残念ながら私たちのマディソンでの暮らしは終わった。
 日本帰国。新天地は東京である。