マディソンの冬

1月27日
 
 言うまでもなく、マディソンの冬は極寒である。だから、夏の終わりと共に人々の関心は日々の気候の変動へと移行し高まりを見せる。ここでは一年を通して本当によく天気の話をするし、去年、一昨年、あるいはもっと前の冬を引き合いに出して、その違いについて持論を展開したりもする。そして秋が深まると、人々は一年のうちの半分ほどを占めるであろう冬が、いったい今年はどのような形相を見せるのだろうかと不安そうに眉を顰めるのだった。
 もちろんその答えはその年の冬を越してみないとまるっきり分からなかった。10月半ばに初雪が降りその後春先までダラダラと雪の降る年もあれば、12月を過ぎてもうんともすんとも寒くならず、「おかしい、異常気象だ」と騒いでいるうちに突如、爆発的に大雪が降り続く年もあった。マイナス三十度を下回る極寒の年もあれば、ただただ雪深い年もあった。4月になってもまだ雪が降った年、寒すぎて学校が休校になる年もあった。そして私たちはそういう年ごとに違う冬の特徴をよくよく記憶に刻み込んでもいたので、誰もが「いついつの冬は寒かったね」「そうだね。でもその前の年はそんなに寒くなかったよね...」などという会話をして過去の冬を分かち合っては頷き合うのだった。

 だけど、寒さというのは慣れてしまえばそれほど私たちにとって大きな問題ではなかった。建物の中に入れば半袖で過ごす人も少なくなかったし、車さえ持っていれば(外で長時間過ごす予定さえなければ)、スノーブーツやらスノーパンツなど必要なく、普段は手袋さえ持ち歩くことはなかった。だいたい一旦寒さの深い底を知ってしまうと、私たちはその基準に沿って衣替えをするようになるので、マイナス一度くらいだと私はハーフの薄いダウンジャケットで十分だった。マイナスにならない日には、外で半袖短パンの人を見かけるくらいである。そういう日はママ友たちだって薄いニット一枚で子供を迎えに来て、「今日は暖かいわね」などと微笑み合っている。マイナス十度だと「寒い」、マイナス十五度以下から「かなり寒い」というのが、こちらの感覚のようだった。
 
 では極寒の何が一番私たちを悩ますのかというと、それは寒さそのものではなく、降り積もる真っ白な雪たちだった。雪が降ればそれが凍り道が滑りやすくなるので、あちらこちらで自動車事故が起こった。もちろん自動車だけではなく、歩いていて歩道で転倒することもあった。数年前、凍った路上に足を取られ、顔面を強打、歯を何本も折る大怪我をした友人もいた。そしてだからこそ、雪が降り始めると必ず路上という路上に凍結防止剤が撒かれ、どこもかしこも凍結防止剤と雪に埋め尽くされるようになるのだった。すると今度はそれが靴にこびりついて靴が汚くなるし、その靴で帰宅すれば家の中が泥だらけになった。路面の雪だって最初は美しい姿を見せるものの、日を追うごとに車の排気ガスによって黒く煤けてくるので、それがまた車やら靴に付いて、車は中も外も汚くなってしまう。凍結防止剤に含まれる塩化ナトリウムは金属を溶かすので、洗車を怠った車はその後、すべからく錆びて古くなるのも悩みの種だった。
 
 毎年一人か二人、凍った湖に落ちて死ぬこともあった。まだ凍り切っていない部分を誤って歩く人がいるからである。用事もなく、極寒の中、湖の上を歩いていて落っこちてしまうのである...だけどそれでもなお、凍った湖に行くと必ず誰かがその上を歩いていた。時々氷上で釣りをしている人も見かけた。自転車に乗って氷の上を向こう岸まで渡ろうとしている人も居た。小さい湖はスケートリンク場になり、週末には多くの人が集まって、アイススケートをしていた。そして白い息を吐きながら、人々は遊び、ホットチョコレートを飲むのだった。
 雪の降らない年がないように、マディソンの湖が凍らない年もなかった。気温が下がるにつれ、湖は少しずつシャーベット状になり、幾つもの平べったい氷塊が浮かぶようになる。そしてある日、何もない、完全に真っ白なだだっ広い雪の地面に変わるのである。神秘的な光景だった。

 常夏のパナマから来たアシェリーは、そんなマディソンの冬に畏敬の念を抱いていた。人生で一度も雪を見たことがなければ、分厚いコートなど着たことのない彼女だったので、私はそんなアシェリーにぜひ雪を見てほしいとずっと思っていた。だけど今年は12月の半ばになってもちっとも寒くならず、多くの人が暖冬だ、暖冬だと口にしていた。でもそれは私たちの感覚からそう思えることで、パナマ人のアシェリーからしたら11月頃からもう十分、耐え難く寒かったらしく、ある時外を歩いていると、突然「オーマイガー!」と彼女は叫び出したことがあった。
「痛い!」
 アシェリーは飛び跳ねながらそう言うと、手袋をはめていない剥き出しの両手を擦り合わせて走り出した。痛い痛いと言って泣き出しそうになりながら手をどうにか上着の中に突っ込むと、避難できる場所を探して走り出したのである。
 私は大笑いしたが、アシェリーは辛そうだった。彼女は寒いことがこんなに痛いことなのだということを、知らなかったのである。

 だけど結局、マディソンはアシェリーがパナマに戻る日まで暖冬のまま、一度も雪を降らせなかった。12月の終わりになりアシェリーがマディソンを去ると、やっと初雪が舞った。まるでアシェリーがパナマに帰るのを待っていたかのように降り出したので、私はその日のことをとてもよく覚えていた。その上ちょうど私はコロナウィルスに感染していて辛い隔離期間の真っ最中だったので、それも記憶に残る要因だった。

 その夜、ふと夜中に目が覚めて窓の外を見ると、一面が真っ白な世界に変わっていた。暗闇の中、しんしんと降り積もる雪と、忙しそうな除雪機の走り回る気配だけが不気味な存在感を放ち、すぐに、痛い痛いと寒がったアシェリーのことが心に浮かんだ。それからアシェリーはもうマディソンにはいないし、彼女はまだ雪を知らないのだなと思うと「ああ、この雪をアシェリーに見せてあげたかったな」という思いが強く込み上げて来た。コロナウィルスに感染したパナマ人のケイラはアシェリーと同じ飛行機で帰国できなかったので、この初雪を、人生初めての雪を見ることができたのだが、そのことを考えると、それはそれでなんだかおかしかった。

 常夏の国から来た友人たち、アシェリー、ケイラ、コロナウィルス、そして初雪...。

 マディソンに暮らすということはそういうことだった。マディソンでの記憶はいつも、その年に起こったことと、それがどのような冬だったかということが密接に、分かち難くつながっていたからである。