2月16日
友人のパトリシアは多趣味だった。乗馬にスキー、スケート、ピアノにバイオリン、太鼓に映画鑑賞、編み物と、それからドイツ語、フランス語、イタリア語にスペイン語、中国語と日本語を少々勉強するというマルチだった。月に一度か二度、オンラインのブッククラブにも参加しており、今は「ジェーン・エア」やら「罪と罰」やらを忙しそうに読みつつ、自身ではアートディスカッションのコミュニティも立ち上げて、月に一度、ズームを使った絵画のグループディスカッションに私を誘ってくれたりもした。その上私が最近コロナウィルスの影響で元気がないことも心配し、やれ「コーヒーを飲みに行こう」「美味しいものを食べに行こう」と私のためにさまざまなプランを立てては連れ出してくれた。
加えて先月の初めから、パトリシアは陶芸のクラスにも参加するようになった。もちろん彼女は私にも陶芸を始めるようにとメールをくれた。だけどノロマな私が申し込みをする頃にはそのクラスはすでに定員オーバーになり申し込みすることができなかった。特にすごくしたいと思ったわけではなかったけれどクラスに入れなかったことを少しだけ残念に思った私は、しばらくそのサイトを眺めながらなんとなく定員にまだ達していない"織物"のクラスに目が止まった。よく分からないけれど、機織りを使って、テーブルクロスやらブックカバーやら何やらを週一回、四ヶ月のレッスンで作れるようになるようである。履修料は130ドル。望めば機織りを自宅に持ち帰って夜な夜な家で自主練習をすることも可能なようだ。これもパトリシアと出会った縁による何かの導きだろう。ズームのクラスを取るよりもソーシャルディスタンスを取りつつも対人で行われるこの機織りのクラスが魅力的に思えた私は、マディソンで機織りができるようになるのもいいかもしれないと思い、陶芸クラスの代わりにこの謎のクラスを申し込むことにした。
「申込者が定員に達しなかったので、クラスはキャンセルされました」
クラスが不人気のために開講されないというこの案内のメールが届いたころ、私がすっかり機織りに対する熱を上げていて、このごろ「来週から機織りをするのだ」と周囲に漏らしては、自分が一体ちゃんと先生の指導通り織ることができるのか、どんな物を作るのが良いのか、などとあれこれ考えていたところだった。こんなに機織りのことを考えるだけ気持ちが上向きになったことに自分でもびっくりしたが、結局この「機織りのクラス」が突如自分の人生から消えたことにも少なからずショックを受けずにはいられなかった。
「残念だったわね。でもなにか他のことを始めたらいいわよ」
パトリシアは私を慰めながら、他の趣味を見つけるべきだと強く主張した。何か新しいものに挑戦すると、脳みその違う部分、違う回路が活性化され、とても体に良いのだという。また新しいことを始めることで、今までの趣味にも影響を与えて相乗効果が生まれることもあるのだとパトリシアは語った。友人のテリーもこのところ新しく油絵に挑戦し始めたところだった。彼もパトリシア同様多趣味であったが、特に絵を描いていると何時間も集中して楽しいと言い、私に今まで取り組んだことのない「完全に新しい何か」を始めるようにアドバイスをくれたところだった。
だから、私は色々と考えた結果、機織りではなく"デジタルペインティング"を始めることにした。始めたと言っても教室に通うわけではない。マディソンも英語も何も関係ない。自宅でひたすら空いた時間に黙々とiPadとApple Pencilを使って一人で絵を描くだけである。が、これが思いがけず楽しく、一つ、二つと絵を仕上げていくと、どんどんアイデアが湧き上がり、絵を描かない日がないほどのめり込んでいった。
「Instagramを駆使するのよ!今はinstagramの時代なのよ!」
そのうちかつて私にコロナ禍を生き抜く手段として熱くそう語ったボミの言葉が脳内で蘇り、その言葉に従うように、今度は私はInstagramの新しいアカウントを立ち上げて、仕上げた絵を公開するようになった。絵を描き始めて一週間もすると、毎日ひどい頭痛と肩こりに悩まされるようになった。絵に集中してやっぱりご飯を食べ忘れるので、体重が再びみるみる落ちてしまった。だけど、パトリシアの言うように脳みその今まで全く使わない部分が活性化されているような気分と達成感があり、心の中は不思議とずっと爽快だった。
Instagramを始めて二週間目には、アートキュレーターと名乗る女性から「あなたのような類い稀な才能を探していた。オンラインでの集まりに参加しないか?」というメールが届いた。もちろんスパムだったが、軽い躁状態の私は、半ばそのメールを信じ、友人の二人にそのメールを査定してもらい「胡散臭い」と言う二人からのダブルチェックをもらうまで、「もしかしたら私はすごい絵の才能があるのかもしれない」と心の中で密かに打ち震え、その後その自尊心をいたずらにくすぐられた羞恥心から傷つき、メールの送信者を軽く憎んだりもした。やつれ果てた私の顔をみて、「なぜそこまで...」と白井くんは首をかしげた。来る日も来る日も奇妙な絵をアップするので、「狂気を感じる」と言う友人もいた。Instagramのフォロワー二千人を26ドルで買わないか?と持ちかけられたこともあった。そしてやっぱり、体重は減る一方だった。
だけど取り憑かれたように絵を描き始めて三週間ほどした頃、私の元に友人のカイルから突然一通のメールが届いた。
「君の絵、素敵だよ。僕のブログに使っていい?」
メールには日本語でそう書かれていた。カイルもまた、パトリシアやテリーのようにたくさんの趣味を持つウィスコンシン大学のアメリカ人の学生だった。日本語、アラブ語、中国語、ギターにカリグラフィーにキックボクシング、銃収集が少しと、哲学の勉強...そして彼はブロガーでもあった。そのカイルの最新のブログの記事に、私の絵を使いたいと言うのである。もちろん一も二もなく快諾し、その後すぐに私の描いた「魂」と言う題の絵が、カイルの「死」に対する哲学的な記事のブログに添えられてネット上に上がった。
とても不思議な光景だった。
「魂」は、私が絵を描き始めたことで気持ちが明るくなってきた頃、人間の内面の美しさを表現したくて描いた花と心臓の絵だった。その自分のために描いた絵が、カイルの彼自身の「死」に対する思想の文章に添えられることで、今度はまた違った意味を帯び、広がりを得たよう見えたのである。
そこにはちょうどパトリシアが言うように、脳みその違う回路を使ったことで、また違う部分が活性化されたような、絵と文章が響き合ったような、不思議な輝きと奥行きがあった。あるいはそれはパトリシアがいて、機織りのクラスが無ければ到達しなかった偶然の産物のような、生命の神秘のような喜びがあり、私はしばらく何度も、そのページを見つめていたのだった。