ロックダウンの世界

4月29日。
 平和な街マディソンも、コロナウィルスによるロックダウンから、はや一カ月が経とうとしていた。もちろん、世界中のほとんどの街と同様、ウィスコンシン州はこのロックダウンのあとひと月の延長を発表し、必要不可欠な外出以外の自粛を人々に求めたが、これまたあらゆる他の都市同様、マディソンでもこのロックダウン延長日には、その決定を不服とし、「リオープン」を目指す人々による抗議デモが巻き起こっていた。
 このひと月の自宅隔離生活をなんとか耐えた多くの人の関心は今や、日々のウィルス感染者数、あるいは死者数の伸び率よりもむしろ、いつ経済が再稼働するのか?いつになれば元の生活に戻れるのか?という強い「終息」への期待へと移行しており、私もまた、昨日と区別のつかない日常の中で、長いトンネルの出口を探しているようだった。
 
 ところでロックダウンになってからのひと月、行くべき場所を失った私はというと、ここのところウィスコンシン大学の所有する樹木園に頻繁に通うようになっていた。広大な敷地を誇るこの樹木園には、様々な散歩コースや空き地があり、湖があり、森があり、それでいて人と接触する機会がほとんどない穴場だったので、私は雨の日以外はいつも、午後になると息子を連れてこの樹木園を訪れるようになった。ロックダウンが始まってすぐにこの森では殺人事件があったりもしたが、それでもその次の日の午後にはまた、私は樹木園に出向いていた。毎日、子供と森を散策し、枯れ木を拾い、移ろいゆく季節が目に見える形で果樹園に咲き乱れるのを観察するのがいつしか日課になっていた。
 そして夜になると、いつも一時間ほど自宅付近をランニングをするのもまた私のルーティンの一つだった。道ゆく人との距離感に注意しながら、夕陽の見える湖の近くまで走り、森の中を抜け、近所の公園を私は一人、ひたすら毎日黙々と走った。友人の住むアパートの近くに差し掛かる時にはいつも、ひょっこり友人が出てこないものかと想像を膨らませたりもしたけれど、結局そんなことは一度たりとも起こらなかった。
 それからこのひと月、信じられないほど長い時間眠るようにもなった。日中、買い出しと樹木園に行く以外、暇さえあれば、私は子供の目を盗んでうつらうつらと船を漕いだ。朝も昼も夕方も、こんなに眠れるのかと言うほど、ちょっとした時間があれば眠り、起きている時は樹木園でぼんやりし、ご飯を食べ、ランニングに出かける前には必ずお昼寝をした。時々友人達とビデオチャットをすることがあったので、その直前に世の中の動きをチェックすることはあったけれど、私はもうなんだか世界の果てに来たような、あまりにも多くの時間を眠り、夢と現実の区別のつかない世界に生きているような、そんなライフスタイルになりさがっていた。
あるいは、「これはもうコロナウィルスに感染しているからこれだけ眠いのではないか?」という妄想に取り憑かれる日もあった。だけど、それでも陽が沈むころ、むっくりと昼寝から起きだし、張り切ってランニングに出かけられるほどに私は健康だった。
 そして走りながら、いつも過去のことを考えていた。ロックダウンに入り、帰国を余儀なくされてしまった友人達。彼らと春になったらお花見に行こうと約束をした日々。カラオケ、バーベキューの計画、そしてその全てが幻となったこの一ヶ月。戻ってこないユーティン。公開されなかった映画。毎週集まっていた友人。美しいテラス。行きつけのバー...。頭の中をぐるぐるとよぎるのは、そうした過去の亡霊たちだった。

 もちろん、スラヴォイ・ジジェクが言うように、私たちは「誰もがおなじ船に乗り合わせていた」。誰もが人との接触を避け、マスクを着用し、手袋をつけていたし、スーパーに買い出しにいけば、6フィートの距離を保ちながら大量のまとめ買いをしていた。カートというカートは全て消毒されて、レジはプラスチックの壁でそれぞれ仕切られていた。人々は向こう側に人を見つけると、そそくさと道を変えるか、一旦立ち止まって安全にやり過ごすかのどちらかで、私も密かに、人とのすれ違い様には息を止めることさえあった。
 だけどこんな風に接触のない世界というのは、なんと味気ないことだろうか...。
 日々、引き起こされる謎の睡魔に身を委ねながら、私はただ、ロックダウンの世界をそんな風に感じながら生きていた。制限された距離の中で、その大切さに気付かされることは大いに意味のあることではあった。だけど一方でそれはただ、私にとって、夢か過去にしか行くことのできない、終わりのような世界の様相を呈していたのである。