3月13日
隣に住む中国人のユーティンが戻ってこなかった。
「二月中旬には戻ってくるから」と言って祖国に帰省していったユーティンを、アパートの廊下で笑顔で見送ったのは今年の初め、一月初旬の事だった。それから二か月、ユーティンはいまだにマディソンに、私の隣の部屋に戻ってきている気配はなかった。隣に住んでいるのだからいつでも会えると思っていたので、私は彼女の連絡先を何一つ知らなかった。(私は彼女の名前のスペルすら知らなかった)。だからいつも「ユーティンはいつ戻ってくるだろうか?」と駐車場に停めてある彼女の車に目をやっては、彼女の帰りを待ちわびていたけれど、結局いつまでも持ち主の帰らぬ彼女の車は、いつしかその車体の表面に白っぽい埃が積もっていくようになった。
なぜユーティンはいつまでたっても中国から戻って来ないのだろうか?三月に入ってから漠然と私の心に立ち現れるようになったこの小さな疑問は、だけど今になってはっきりと、その答えを日々のニュースから推測することが出来るようになっていった。
アメリカでの十二番目のケースとして、ここマディソンでコロナウィルスの最初の感染者が出たのは先月二月五日のことだった。だけどそのころ、マディソンに住む人々はそれほどこの騒ぎに注意を払っているようには見えなかった。中国や日本、その他の国々で日々拡大していく感染情報を友人達と話題にする機会はあれど、それはいつまでも遠い異国の出来事の域を出なかったのである。友人達と集まれば、私はハンドシェイクの代わりに足や腕を使った「ウーハン・シェイク」や「エルボー・バム」についてふざけ合い、トイレットペーパーが無くなる日に備えて日本製のウォシュレットを買えばいいのだと言う友人の冗談に笑い、誰かが持ち寄ったコロナビールを飲んではケラケラと笑っているだけだった。
ウィスコンシン大学に通う韓国人のハノルはコロナウィルスの流行に先立ち、彼女の韓国人の友人がクラスで咳をしたことでコロナウィルスに関係した「差別」を受けた話や、見知らぬ白人女性から「あなたの国の北京(中国ではなく北京!)は大丈夫?」という意味の分からないぶしつけな質問を公共の場所でされたという話をしたが、私たちはそんなハノルの話に、「マディソンでそんなことが起こるなんて信じられない」と驚きながら「だけどそんなケースは稀なことだろう」と結論付けただけだった。私にとってマディソンはいつだって平和な街だったし、それはいつ何が起ころうと永遠に変わらないと思っていたのだった。
だから、それは、あまりにも唐突だった。
WHOがパンデミック宣言をした三月十一日、その日中に近所のコストコやターゲットからトイレットペーパーがあっという間に消えたとき、私は軽いめまいを覚えていた。うろうろとトイレットペーパーを探す私の目の前には、トイレットペーパーの代わりにキッチンペーパーを購入する人々がレジに並び、それは遠く離れた日本でほん少し前に起ったと聞き知っていた馬鹿馬鹿しい集団心理の焼き直しだったからである。ウィスコンシン大学はこの日、すぐさま少なくとも四月十日までは人が集まるレクチャーをウェブ上に切り替えると発表すると、学生寮も閉鎖、全てのイベントをキャンセルすることを決定した。マスクや消毒液はもちろん少し前から手に入らなくなっていたのだと、私は遅ればせながらこの日初めて知ることになった。自分のためではなく、日本に住む家族のために購入しようと何年かぶりに良いことを(悠長に、)思い付いた矢先の出来事だった。
また、人気ポッドキャスターで有名なジョー・ローガンはこの日、看板番組「ジョー・ローガン・エクスペリエンス」で公衆衛生学の専門家マイケル・オスターホルムをゲストに招くと、このパンデミックに対する専門的かつ分かりやすい番組を展開し、このポッドキャストが一時YouTube上のトレンドランキング三位に浮上して人々の注目を集めた。夜になるとトランプ大統領はヨーロッパからアメリカへの緊急渡航規制を発表したので、この夜、あと数日に迫っていた全米の春休みがある一部の人々にとって辛く味気ないものになった瞬間でもあった。
そうして、そうこうしているうちに、もちろん次の日は食料品がスーパーからごっそりと消えた。友人は、アメリカで大量のレイオフが発生しているという記事をフェイスブックでシェアしていたし、その記事によれば多くのアメリカ人が今日はどこかで職を失いつつあるようだった。パンデミック宣言が発表されたわずか二日間の出来事だった。
韓国人のママ友であるボミは、この日最も厳しい面もちで「アジア人と関わらないことが一番!」と私ににこやかにアドバイスをした。
「だって、ウィルスはアジアから来たからね。」
ボミは大真面目にそう付け加えた。「セイコ、気を付けなさい」と。
私はショックでひっくり返りそうになった。彼女のような教育熱心で教養のある女性が、このパンデミック宣言の混乱の中、私のことを、そして彼女自身のことを"アジア人"だと認識できなくなってしまったことは悲しむべき出来事だったからである。
全ては、遠く日本で起った一連の騒動の、およそひと月遅れの出来事だった。