ボミ2

9月19日。
 昨今、近所に住む韓国人のボミとの関係は、すこぶる良好だった。ボミとの昨年から始まった子供を預け合う試みはこの夏の間も変わらず続いていたし、特にルールを決めたわけではないけれど、私達は極力お互いが望む時間を相手のために提供するように心掛けたので、ボミが「この日のこの時間に子供を預かって欲しい」と言えば、私は自分の予定を変更してボミの息子を預かるようにし、ボミもまた私が要求した日時を断ることがなかった。その上ボミと私は週に二度会っていたにもかかわらず、お互いに干渉し合うことも、気を使い合うこともなかったので、彼女は思っていた以上に私にとって今や「付き合いやすい」友人の一人になっていた。
 ボミが自身の自由時間に何をしているのかは知る由もなかったけれど、九月に入ってからの私はというと、再び新しく始まったイタリア映画の授業に週一で通う目的で息子をボミに預けることにしていた。
 授業が終わり、息子を迎えに行くとボミは時々「授業どうだった?」と私に声をかけ、「イタリア映画ってコミュニストのこと勉強するの?」と言っては、「コミュニストとキリスト教は分かり合えないんだよね」と相変わらずの政治談議に持ち込むこともあったが、基本的に私達は玄関口であっさり挨拶を交わし、そのままそそくさと子供を連れて帰る関係だった。

 ボミがあまりにも付き合いやすいので、私はときどき、「それは彼女がキリスト教徒であることと関係があるのだろうか?」と思うことがあった。その他の大勢の韓国人と同様に、ボミは相変わらず首からロザリオをかけ、週末は教会に行き、自分の息子にキリスト教の勉強をさせる熱心なクリスチャンだったし、同じように仲良くしている近所に住む韓国人のセオンもまた、夫婦そろってクリスチャンだったからだ。その上セオンは一緒にファーマーズマーケットに出かけた際、低所得者向けに配られていた自身の金券をその場に居たホームレスの女性に迷わず分け与えるという行動で、私を密かに感動させた人でもあった。だから、こんな風に親しくしている友人たちが自分とは全く違う哲学や信仰の中で生き、それを彼女たちの善良な振る舞いの中に見出す度に、私はその得体のしれない大きな力の存在に思いを馳せることがあった。

「セイコのために聖書を買ったの」
 そうボミから何の前触れもなく真新しい聖書を手渡されたのは、昨今の変わらぬ彼女との良好な関係を改めて喜ばしく思いつつ、こんな風にセオンやボミの持つ信仰心というものに思いを巡らせていた矢先のことだった。
「聖書って、高いのよ。でもまあ、それは気にしないで!」
 ボミは何だかこちらが気にしてしまうようなことを言うと、初心者はとりあえず、ヨハネによる福音書3:16を読むのがいいのだと言って、驚いている私にそのページを開いてみせた。ボミの提案では、私がまず聖書を読み、次の週、彼女がその箇所を解説するのが良いのだそうだ。
「後で読むべき個所を詳しくメールで送るから、質問があればそれも考えおいて」
 そう言うと、ボミは本当にその日の夜には私が読むべき個所をメールで送ってきた。そして次の週に会えば、聖書を読んだかどうかを尋ね、読んでないと正直に答えた私にどう読めばいいのかをまた解説した。さらにその次の週、彼女は私を教会に誘った...。

 いったいボミに何が起こったのか、私はすぐには理解できなかった。だけどその話をセオンにすると、セオンは困ったように笑いながらも「たぶん、ボミはセイコにクリスチャンになって欲しいんだと思う」と(私が薄々感じていたことを)きっぱりと口にした。
「どうやって神を信じるようになったの?」
 ボミによる突然の宗教勧誘に困り果てながら、私はセオンにそう尋ねた。
 セオンは結婚するまではクリスチャンではなかったそうだが、クリスチャンの夫と一緒になった今では、自宅のWi-Fiのパスワードは「ジーザスクライスト」に設定している信者だった。ボミのように家族がもともとクリスチャンという環境で育ったわけではないセオンが、いったい結婚後にどのように信仰心を持てるようになったのか、私はそこに自分の活路を見出そうとしたのである。

 うーん、とセオンは少しだけ考えると、穏やかに、「子供が出来たから...」と笑顔で答えた。
 というのも、結婚してからずっと、実は不妊に悩んでいたという彼女は、アメリカに来てからも誰にもその悩みを打ち明けることが出来なかったのだそうだ。だけど二年ほど前のことだった。夫婦でカリフォルニア旅行に行くことになった際、セオンはその旅行の直前、マディソンで通っていた教会の友人から「カリフォルニアでの子作り」を強く勧められたことがあったのだと言う。それまで誰にも不妊の悩みを語ることのなかったセオンは、この友人からの突然の申し出に驚いたそうだが、さらにその友人は、「セオンが旅行先で子作りをするなら、私はセオンのために祈る」とまで(いささか不躾にも思えるが...)発言したのだという。

「その晩、私達はすごく疲れていて、私も主人も体中がかゆかったの」
 セオンはカリフォルニアでの夜のことをそう回想した。
 その日はとてもじゃないけれど、子作りとしては良いコンディションではなかったのだとセオンは言った。それもセオンだけではなくセオンの夫もなぜかとても体中がかゆかったという。だけどセオンはその時、友人の「セオンのために祈る」という言葉を思い出した。そして謎の発疹に悩まされながらも子作りをする決意をし、そんな奇怪な夜に、彼女は待ち望んでいた子供を授かるという奇跡を体験したのだった。
「で、その発疹はなんだったの?」
 私が尋ねると、セオンは笑いながら「分からない」と言った。「虫さされかもしれない」...。だけど、その"謎の発疹"と"子供を授かった"という二つの忘れがたい経験が"友人がセオンのために神に祈った"というもう一つの宗教的概念と結びついたとき、それらが全て「奇跡体験」という言葉へと昇華され、結果的に彼女の中に生きた信仰心として生まれ変わったのだという。
 なるほど...。
 私は得心した。確かにセオンの話を聞いていると、腑に落ちない点は多かった。だけどそのちぐはぐな何かがすべて「奇跡」という言葉へ回収された時、そこに純粋で無垢な力が生まれるのだろう...。

 だけどいったいこの先、私のような人間が彼女たちのように信仰心を持つことが可能だろうか?私はセオンの話を聞いてもなお、限りなく不安だった。それにボミの期待に応えられなかった場合、私達の関係はどうなってしまうのだろう...。そう思うと私はただ、この秋緩やかに始まろうとしているバイブルスタディの勉強そのものに若干の胸騒ぎを感じずにはいられなかったのである。