5月21日。
フィミンさんは、中国人でありながら同時に朝鮮人という不思議な中国人だった。私と同じように去年の秋から夫の都合でマディソンに暮らすことになった彼女は、中国の吉林省にある延吉市という朝鮮族が大半を占める土地に生まれ育ったため、そのアイデンティティは中国よりも朝鮮にあるのだと、出会ってすぐに彼女は語った。
「英語はじぇんじぇん出来ないと言うと、中国人は不思議な顔しますよ」
そう流暢な日本語で話すフィミンさんは、幼いころから朝鮮学校に通っていたため、日常会話は韓国語、学校では"外国語として"中国語を習得し、高校を卒業ののちは日本の大学へ進学したそうで、これまでの人生で一度も英語を習得する機会がなかったのだと言った。
「どうしたら英語が話せるようになりますか?」
ある日、日本語も韓国語も中国語も話せるトリリンガルでありながら、アメリカで言葉の壁に苦しむ彼女から語学学校の相談をもちかけられたのが、私たちが仲良くなるきっかけだった。
日本が大好きだから住むなら日本が良かったと言って、アメリカに来てからは「毎日ノイローゼになりそうだった」と嘆くこの不思議なフィミンさんの相談に乗りながら、しかし私はいつの間にかすっかり彼女のことが大好きになってしまい、日本語で会話をしながらいつも、中国のこと、韓国のこと、日本のことを面白おかしく聞くことがあった。
とりわけ彼女の出身地である延吉市の話は面白く、北朝鮮に近く位置している故郷で、フィミンさんの親戚は遠い昔に脱北者をかくまったこともあるというなんとも衝撃的な話をしてくれたこともあり、「私達は中国人ではない。朝鮮族だから、彼らを応援してるんです」とフィミンさんは力強く語った。それから延吉市は満州国の一部でもあったため、フィミンさんはクスクスと笑いながら、「おじいさんに聞いた話なんですけど」と前置くと、「鼻歌も日本語じゃないとだめだったらしいですよ!」と言って、ぷーっと笑い転げることもあった。嘘か本当か分からないけれど、フィミンさんに言わせると、『韓国人にクリスチャンが多いのは、浮気っぽい韓国人の男が浮気をして反省して神に祈り、許されて"また浮気を繰り返すため"』だそうで、中国人の女性があまり化粧をしないのは『それだけ自信があるから』だった。フィミンさんがいつもそんなことばかり言っていたので、私達は会うとただひたすらケラケラと笑い合っていたし、私はいつもこのアジアの複雑な歴史的背景中にある、あっけらかんとした明るさを彼女からたくさん学ぶことがあった。
だけど時々、フィミンさんは、私がコミュニティセンターのボランティアやウィスコンシン大学の授業に聴講に行くと言うと寂しそうにすることがあった。『英語が出来ない』というコンプレックスをどうしても拭えずにいたフィミンさんは、付き合いを続ける中で、私の話を聞きながらしょんぼりとして「いいですね」と力なく笑うことが良くあった。そして「私も働きたい」と言っては悲しそうにすることが少なくなかったので、いつしか私は自分のボランティアの話や大学での聴講の話をフィミンさんにあまり話さないようになった。なぜなら英語が話せなくても、私にとってフィミンさんは十分賢くて魅力的な女性だったし、なるべく彼女にコンプレックスを感じて欲しくないと思ったからだった。そしてそれほどまでに、フィミンさんはいつの間にか私にとって、マディソンで出会ったかけがいのない稀有な友達の一人になっていたのだった。
そんな大好きなフィミンさんから突然、「離婚することになったから帰国する」と打ち明けられたのは、まだ肌寒い日が続く五月下旬のある日のことだった。昼寝をし始めた子供を車の後部座席に寝かせたまま近所の大型スーパーの駐車場に車を停めると、私はこの日、フィミンさんの突然の帰国話を泣きながら聞くことになった。
「アメリカで終わると思って居なかったけれど、アメリカに来なかったら気付かなかったかもしれない...」
フィミンさんはそう言うと私と同じように涙を流し、せわしない祖国を離れ、マディソンで生活をする中でこれまで見えなかったものが見えてきた結末だったのだと私に語った。帰国は二日後だという。
私はすぐにその夜、フィミンさんを思いながら手紙をしたため、ウィスコンシン州の形をしたオーナメントを奮発して購入すると、次の日に餞別としてフィミンさんにプレゼントした。それから残された二日間の時間、私達は可能な限り一緒に過ごすことになった。
フィミンさんは「中国に戻ったら近所の目もあるのでこれで変装する」と言って、ウィスコンシン大学のご当地キャラであるバッキー君の帽子を買い、それから親戚にお土産用に配るシャツも何枚か買った。時々「アメリカでの生活は辛かったけれど、中国に帰ったらまた戻りたくなるかもしれない...」と寂しそうに言ったが、中国で離婚が成立した暁には、韓国でエステをするのだと、また本気か冗談か分からないことを明るく言うこともあった。そして日本に戻ったらまた勉強したいと今後の展望を語り、もう結婚はこりごりだけど、これから恋愛を楽しみたい、とも言った。
そしていよいよ別れの時となると、フィミンさんは「泣かないで別れましょう」と言いながら、また車の中で涙を流した。私も寂しくてやるせなかった。同じ時期にアメリカに来た私達だったけれど、マディソンの七か月でフィミンさんが見つけたものが「離婚」という形だったことも、なんだかとても悲しかった。だけどフィミンさんは韓国語も中国語も日本語も話せるのだから、きっと大丈夫。ずっと仲良しで居よう。韓国か中国か日本で必ず再会しよう。私達はそう約束し、最後にハグをして泣きながらフィミンさんのアパートで別れた...。
「セイコさん、やっぱり夫を許すことにしました」
そんなメールをフィミンさんから受け取ったのは、この忘れがたい最後の別れの挨拶をした、数時間後のことだった。
「ごめんなさい。ありがとうございました」
メールで平謝りするフィミンさんに、「え?帰国しないの?した方がいいんじゃない?」と、私は返信していた。
帰国しないのであれば、もちろんこれは朗報に違いなかった。今後もフィミンさんと過ごせることは喜ばしいことだったし、二人が離婚しないと決めたのであれば、これほど建設的なことはなかった。だけど一方で、あれほど感傷的に二人で泣いたり笑ったり思い出を作ったことを思うと、なんとなく記憶のバランスが悪いような、どこか狐につままれたような気持ちがして、戸惑わずにはいられなかった。
だけど、思えばフィミンさんは自分たち朝鮮族の特徴として、「すごく怒るけど、根は優しいんです」と言ったことがあった。「とても怒るけど、それが終われば私達はすごくあっさりしてるんです」と。
そういうわけでフィミンさんは、帰国のために取った飛行機のチケットを9月に帰国する日へ変更し、シカゴ行きのバスの変更手続きや、親戚のためにデパートで買ったシャツを返品する作業に追われているようだった。韓国でのエステや日本での進学の夢の話は、ひとまずは無しとのことである。
飛行機のチケット変更代が100ドル、バッキー君の変装用帽子が20ドル、私からフィミンさんへの餞別のオーナメントが10ドルと、それから二人で流した涙が何リットルか...。果たしてこれが、この不思議な朝鮮族フィミンさんの「マディソン離婚騒動」の顛末だった。