悪いことをするには寒すぎる

2月4日。
 マディソンで過ごす三度目の冬は、穏やかに、異例の暖冬から始まったように思われた。この冬、マディソンの町はクリスマスを過ぎてもほとんど気温が下がることがなく、記憶に残っていた極寒の、凍てつくような白銀の世界はなかなか姿を見せることはなかった。大晦日の夜に一度雪が降り始め、新年の始まりと共に町中を白く染めた日はあったものの、年が明けてからは再び気温は上向きになったので、今年は誰もが「暖かすぎる」と首を傾げたものだった。
点在する湖は人々がスケートを楽しむほどにはなかなか凍らず、語学学校では放課後のアクティビティとして予定されていた「湖でのスケート遊び」が先延ばしにされて、引率のトム先生を毎週のようにヤキモキさせていた。マイケル先生は人一倍地球温暖化を懸念する心配性だったので、私が遊びに行くといつも緊迫した表情で「こんなに暖かいのはあり得ない...」とため息をついては、いよいよ地球温暖化は深刻化しているのだと語っていた。そしてそんなマイケル先生にいつも「心配しすぎじゃないですか?」と言いつつも、私もまた、この冬の湖が凍らないマディソンというのがなんだか冬らしくなく、物足りなさを感じていたのだった。

 だけど1月も終わりに近づいていた頃だった。ようやく、人々の期待を一身に背負ったかのように雪が降り始め、するとその日を境にあっという間にマディソンに本格的な冬が到来した。気温はぐんぐんと下がり、すぐに道路という道路に除雪車がせわしなく走り回るようになった。外にあるものは例外なく真っ白な雪に覆われ、家々の屋根やアパートの窓からは大小さまざまなつららがそこここにピカピカと肩を並べるようになった。もちろん湖という湖は完璧なまでに凍りついたし、町中が厳しい極寒の表情を見せるようになると、マディソンはついに、"例年の気温"を通り越して、マイナス三十度を下回るという私が今までの人生で経験したこともないような超極寒へと到達したのだった。
 
それは一月があと数日で終わろうとしている水曜日だった。南極や北極をしのぐ寒さにまで達すると、マディソン中の学校が前日から休校を発表し、公共機関も休むという異例の事態が起こった。道行くバスは何故か無料運賃での運行をしていたが、マディソン警察は「悪いことをするには寒すぎる」と言って「犯罪者たちよ、今日は家に居て、Netflixを見るなりマディソン地域犯罪防止サイトを読むなりしてください」という茶目っ気たっぷりのアナウンスをして話題になった。SNSでは「命の危険のある寒さ」に対して、責任感の強い面々が次々と役に立ちそうなリンクを引っ張ってきてはシェアしていたが、タイ人のパニカはなぜかトニと半袖で極寒の中に出る様子を撮影すると、「悪くないぜ!」と浮かれた投稿をしていた。
 またこの寒さを利用して、屋外で瞬時にアイスクリーム作りをする強者も居た。材料を入れたものを外で軽くシェイクするだけで、あっという間に自家製アイスクリームが出来るのである。屋外でお湯を撒いて「お湯花火」を作る遊びもこの短期間で大流行し、マディソンのいたるところでお湯を撒いて嬉しそうに叫んでいる人々を見かけることがあった。私も試しに撒いてみたところ、コップから飛び出したお湯は一瞬にして氷の粒となって空気中に拡散され、キラキラと光りながら見る人の目を楽しませてくれた。
そうして数日間、突然の超極寒にまつわるイレギュラーなことがいっぺんにマディソン中に沸き起こってしまうと、再び、気温は上昇を見せはじめ、降り積もった雪を溶かし、また何事もなかったかのように穏やかな冬が舞い戻ってきたように思われた。苦労して道のわきに積み上げた雪もあっという間に低くなり、真っ白だった雪は車の排気ガスで汚く煤けると、あちこちで雨上がりのような水たまりを作りながら隠れていた地面を露わにした。学校は再開し、外に出ても寒さで頬が痛むということが無くなった。誰もが戦々恐々とした非常時が過ぎ去って、街は静かにいつもの日常が戻ってきたようだった。

だけど一方で、あの爆発的な寒さで水道管が破裂したというケースもいくつかあった。私が利用している近所のスーパーも水道管の破裂のために二日ほど閉店していたし、iPhoneが寒さでシャットダウンしてしまった人もいた。車が壊れたという話もよく聞いた。私の乗っている車もあの寒波の日からどうも調子がおかしくなってしまい、修理に行くと「悪い所がありすぎるから来週に来い」と言われる始末だった。大流行していた「雪花火」はBoiling water challengeと称してネット上でも話題になったが、そうしたチャレンジのせいでうまく蒸発しなかったお湯を浴びて火傷を負いそうになった人が続出したというニュースもあり、寒波が及ぼした影響は楽しいことばかりではなかった。
この寒波を誰よりも喜んだだろうと思われたマイケル先生だって、喜ぶどころか、『温暖化によって極端に寒かったり極端に暑かったりする異常現象が起こっている』という記事をSNS上でわざわざシェアしては、「あの寒さは温暖化によるものだから、皆この記事をよく読むように」とますます地球温暖化への危機感を募らせたようだった(結局、暖かくても寒くてもマイケル先生はいつも温暖化を心配するのである)。

私はというと、一度だけ、超極寒の折にアパートの裏にあるゲレンデのようになった公園を一人で歩いてみたことがあったが、結局降り積もった雪に足を取られ、数分で引き返すという情けない結果に終わった。すねの少し下まで積もった雪をかき分けて行くと、真っ白な雪に囲まれて、聞こえてくるのはザクザクという自分の足音と息遣いだけだった。足をうまく抜くことが出来ずに一度だけ転び、時々むき出しになった皮膚がひどく痛んだ。だけど不思議と「寒い」とは感じなかった。ただそれは、立っているだけで自分の生命力がそがれていくような、そんな厳しい世界だった。