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2006年9月 アーカイブ

2006年9月 3日

ハワイ旅行記、完結

9月1日

波の形が良くてしかも人ができるだけ少ない場所を選び、海に入る。海水は拍子抜けするほどに温かい。

脇に抱えたボディーボードが風に煽られたりすると簡単に転んでしまいそうなので、ボディーボードの直線方向を風向きとあわせるようにして海の中を歩いた。

浅瀬で遊んでいる人たちよりも数メートルほど進んだところで、波乗りを試みる。でも、上手くいかない。できるだけ大きな波にタイミングを合わせて乗ろうとするのだが、体が波においていかれてしまうのだ。何度か試みてもやはり上手くいかなかったので、一旦砂浜に戻って休むことにした。

本を読んでいるイーダ先生の隣に座り、ボディーボーダーの動きを観察する。上手に乗れている人は少ないが、中に一人だけ、きれいに波に乗っている男の子を見つけた。地元の子供風の10歳くらいの男の子だった。

彼は、あまり沖まで出ることはなくて、浅瀬の小さな波をうまく捕まえて、砂浜まで体を運んでいた。波打ち際まで来たところで、気持ちよさそうに、くるっとターンする。

僕と入れ替わりで、イーダ先生がボディーボードを持って海に入っていった。しかし、あまり上手く乗れなかったようで、直ぐに戻ってきた。

しばらく男の子の動きを観察した後で、もう一度自分で試してみたが、やはり体が波に取り残されてしまう。その後しばらく粘ってみたのだが、結局この日はコツをつかむことができなかった。ボディーボードを楽しむチャンスはまだあるので、この日は無理をせず、退却することにした。

駐車場の手前にある屋外のシャワーで体の砂を落としていると、先ほどのボディーボードが上手な男の子がシャワーを浴びに来た。

男の子は、母親と小さな妹と一緒だった。彼は、母親が誰かと話しをしている間に、僕の隣でシャワーを浴び始めた。

「波に乗るの上手だね」

シャワーを浴びながら、男の子に話しかけた。すると彼は、体を擦りながら僕のほうを見上げて、照れくさそうに笑った。

帰りにスーパーマーケットで夕食の買い物をすませて、コンドミニアムに戻る。この日の夕食メニューは、夏野菜(ズッキーニ、パプリカ、トマト)のパスタ、茹でたジャガイモ、カプレーゼ。


6日目
午前3時に起きて、ハレアカラへ日の出を見に行く。

山頂は相当冷え込むということだったので、長袖Tシャツの上からボタンの長袖シャツを着込み、バッグに、防寒用のバスタオルと水と食料(バナナとバターローストピーナツを一袋)を入れて、車で出かけた。

未明のサウスキヘイロードは車の通りが少ないが、カフルイ空港の近くからハレアカラハイウェイに入ると、一台また一台と車が連なり始める。

一時間ほど山道を走り、ハレアカラ国立公園の入り口に付くと、料金所が渋滞を起こしていた。そこで20分くらいは並んだと思う。入り口で10ドルの入場料を払い、さらに山道を登る。

視界が広がるところで、車の窓から下を見おろすと、湾に沿って町の灯りが見えた。東の空は少しずつ明るくなっているが、夜明けまでにはまだ時間がありそうだった。

さらに、小一時間ほど山道を登り、標高3000メートルの山頂に到着する。

前を走る車に続いて駐車場へ入ろうとすると、入り口に交通整理のポールを持った人が立っていた。前の車が停められ、何か話をしている。駐車場が満車で、中に入れないようだった。

交通整理の人が、少し下にカラハク展望台があることを教えてくれたので、やむを得ずそちらに回ることにした。

山頂から数分ほど下ったところにあるカラハク展望台は、標高2842メートル。こちらの駐車場にはまだ余裕があった。車を停めて、バスタオルを羽織り、白みかけた空の方向へ歩いていく。

駐車場の車の数に比べると、随分多くの人が見物に集まっているように感じた。周囲は暗くて、展望台からの景色はまだわからない。

岩肌に腰かけて太陽の方向を見ると、雲海の直上の空がオレンジ色に染まり始めている。オレンジ色から藍色へのグラデーションの上には、金星が光っていた。

雲海は時間とともに色が変化した。ほんの僅かな時間、全体が淡い紫色になり、そしてすぐに普通の灰色になった。

空が明るくなっていくと、展望台の北側に広い皿底のような噴火口が見え始めた。やがて日が昇り、噴火口内のクレーターに太陽の光が影を作った。タコのような火星人が似合いそうな景色だった。

すっかり日が昇った後で、もう一度山頂に上がり、景色を確認してからキヘイに戻った。

往き道の運転はイーダ先生がしたので、帰りは僕が運転した。自転車のダウンヒルツアーの集団が10数台の列を作って、山道を降りていくのに何回か出会った。

帰り道は、二人とも死にそうなほど眠かった。車を運転しながら、眠気覚ましにピーナツをばりばり食べたり、俳句を作ったりした。

ハレアカラ バナナの紐も つづらおり

眠けが良く表れている句である。
イーダ先生も何句か作っていたが、あんまり良くなかったので、全部忘れてしまった。

なんとか無事に2時間のドライブを終えて、コンドミニアムまで戻る。

イーダ先生は、そのまま倒れ込むようにベッドで寝てしまった。僕は、宿まで戻ると急に目が冴えてしまい、ベランダに出て読書をする。

昼食後に昼寝をして、夕方からは再びビーチへ向かう。翌日の朝にはマウイを発つので、僕は、何とかこの日中に「カマオレ一号」を乗りこなさなければならなかった。

草地に荷物を置くのもそこそこに、早速海に入ることにする。昨日見た男の子が小さな波に乗っていたのを思い出し、いきなり沖に出るのは止めて、手前の小さな波から確実につかむことを試みる。

一度目。やっぱり、波に取り残されてしまう。波の勢いに対して体が重すぎるようだ。

そこで次は、波にタイミングを合わせて、地面を砂浜の方向に蹴るようにしてみた。すると、少しだけ波に乗れた。

その後、だんだんコツが解ってきて、少しずつ大きな波にも乗れるようになってきた。イーダ先生も、この日は乗れるようになった。

一旦波を掴めるようになると益々面白くなり、ずいぶん長い時間遊んだ。ボディーボードは、波のうねりがスキーとはまた味違う滑走感を生み出すようである。

2時間ほど遊んでから、スーパーでステーキ用の牛肉とワインを一本買い、宿に戻る。

マウイでの最後の夕食は、ビーフステーキ、キノコのソテー、ニンニクとパセリのパスタ、ブロッコリーとトマトである。

冷蔵庫がこれでほとんど空になった。ご飯を食べて少し休んでから荷造りをする。


7日目

朝。庭に出ると、この日も晴れていた。天気に恵まれた一週間だった。一度も雨には当たらなかったように思う。

庭で呼吸をしてから、いつものようにイーダ先生を起こし、牛乳とオレンジで簡単に朝ご飯を済ませる。

最後の荷造りをして、部屋を出る。清潔でキッチンも使いやすく、いい部屋だった。

カマオレ一号は部屋に置いていくことにした。誰かがまた、この板と一緒にマウイの海で遊んでくれるだろう。

チェックアウトを済ませて空港へ向かう。朝9時だった。飛行機の時間まで余裕があったので、途中で少しだけビーチに寄った。

海は風がほとんど無くて、波も穏やかだった。砂浜には、日光浴を楽しむ水着姿の老人や、雑談をしながらジョギングする人がいた。朝には朝の海の楽しみ方があるようだ。

車に戻って、再び空港へ向かった。サウスキヘイロードから、草原と山に囲まれたモクレレハイウェイに入る。

道の途中で、毎日庭から眺めた夕日や、ハレアカラの日の出を思い出した。

太陽は毎日一回昇り、一回沈む。そんな当たり前のことを感じた旅だった。少し情けない感想のような気もするし、それでいいような気もしている。

(おわり)

2006年9月21日

それは帰りの旅程でおこったことだった

 9月20日 
 いつも通りに大学に行き、いつもどおりに家で夕食を食べた夜にちょっと変わった夢を見た。
 僕は友人Iと旅行に行っていて、それはその帰りの旅程でおこったことだった。
 飛行機の出発時間は20時16分だったが、僕は少し早めにホテルを出ることにした。ホテルのロビーには、酒も飲める喫茶スペースがあり、僕の出発と入れ替わりに開催される学会の参加者が、そこに座って休んでいた。
 僕は空のコーヒーカップを手に持っていた。コーヒーカップの底はすっかり乾いていて、ごく僅かなコーヒーの飲み残しがカップの底にこびりついていた。出発前にカップを返そうと思い、僕はラウンジの奥の方にある従業員専用のスペースに歩いていった。衝立で仕切られたスペースの奥には、4人がけの座席が縦に二つ並んでいて、そこに飛行機の女性客室乗務員(スチュワーデス)が座っていた。スチュワーデスたちで席は全て埋まっており、全員が眠っていた。僕はスチュワーデスがぎっしりと詰まったその空間に圧倒されて、それ以上前に進むことができなかった。仕方がないので振り返ると、そこに小さな受付のような場所があり、おばさんが二人立っていた。右側のおばさんは、何処かで見たことのあるような人物だった。僕は、
 「これ、いいですかね」
 と言って、そのおばさんにコーヒーカップを返した。おばさんは、表情を全く変えずに頷き、カップを受け取った。ラウンジと外のスペースを区切る自動ドアの外に出るとき、「スチュワーデスの人たちは、これから夜のフライトなんだ」と思った。
 ホテルは、空港へ向かう電車かモノレールのような交通機関の駅と隣接していた。その乗り物の乗り場近くまで歩いていったところで、友人Iが僕を待っていた。僕は、今度は手に雪駄を持っていて、それを飛行機の中に持ち込むためにビニール袋が欲しくなっていた。ビニール袋は駅の切符売り場の手前に、傘を入れるビニール袋の様に、たくさん置いてあった。それは、飛行機に乗る前のセキュリティーチェックの際に、靴を脱いでそこに入れるためのビニール袋だった。僕はビニール袋を一枚取って中に雪駄を入れ、切符売り場の方へ歩いていった。しかし、そこに既に友人Iの姿はなく、彼は切符の自動販売機に向かって左側にあるエスカレーターに乗っていた。普段のIは、僕を残して先に行ったりするタイプの人間ではないので、少し不思議に感じた。僕も後に続いてエスカレーターに乗り、空港へ向かう乗り物の発車場に向かった。エスカレーターは混んでいて、すぐ前には数人の旅行者の集団があった。その先にIが居るはずだが、上の方を見上げてもIの姿は見あたらなかった。
 「次の発車は、何時の便に接続しているの?」
 と、エスカレーターに乗っている旅行者が尋ねた。
 「20時6分だよ」と、もう一人が答えた。
 僕が乗る飛行機の接続には、乗り物一本分の余裕があるようだった。トラブルなく飛行機に乗れそうなことが少し嬉しかった。
 エスカレーターを昇り終えると、ひとりの運転手が僕を待っていた。電車かモノレールに乗るはずだと思っていたのに、僕はいつの間にかタクシーに乗っていた。そこにはすでに、Iの姿は無かった。
 僕はタクシーの助手席に乗った。後部座席には二人の女性が座っていた。年は30代後半から40代くらいだろう。顔を見たわけではないが、二人の会話で何となく、そう思った。タクシーは最初、普通の道を走っていた。日は既に沈んでいたが、外はまだ明るさが残っていた。タクシーは、屋敷の壁が突き当たりになっている小さな路地を入っていった。屋敷の壁の奥には、たくさんの木が茂っていた。もう少しで突き当たりになるというところの路地の右手には、「数学III」と壁に書いてある平屋建ての小さな家があった。そこは、『数学III』という高校生向けの学習雑誌を出版している出版社だった。玄関自体は見えないのだが、石畳が入り口に向かってU字に続いているのが見えた。建物の中から玄関に漏れ出ている光が、中で人が働いていることを表していた。僕は、建物の中から漏れる光を見て、その建物の中に一度入ったことがあるのを思い出した。その時僕は高校生で、その会社の編集者に数学の勉強法の仕方について教わったのだった。会社の中は、机の上に資料が山積みになっていて、非常に雑然とした印象を受けたのを憶えていた。それもまた、全てが夢の中での出来事だった。
 タクシーは出版社の前をすぐに通り過ぎてしまい、路地の突き当たりを左に曲がった。路地は更に細くなって、道幅は1メートルほどしかないように感じた。しかし、タクシーの運転手は道幅の狭さを全く気にすることなく、どんどん車を走らせた。坂道を上がり、その坂道の頂上にある突き当たりを右に曲がる。どう考えても車一台が通ることなど出来ない道幅なのだが、タクシーは凄いスピートで、T字路を曲がった。どんどん先に進んでいくうちに、道幅は更に細くなっていった。道の両側はいつの間にか岩の壁になっていた。車の横腹が、T字路の角にぶつかるのではないかと冷や冷やするのだが、一度もぶつかることはなかった。最初のうちは曲がるたびに怖かったが、次第に慣れてきた。
 「今度は左右どちらへ曲がる道が出てくるのだろう」と、先の事を考える余裕ができはじめた頃、タクシーは一つの路地を左に曲がった。すると、そこは突然、団地の廊下のような道になった。いくつもの鉄のドアが並んでいた。そして、すぐ目の前の部屋のドアが開きっぱなしになっていて、タクシーの行く手を遮っていた。僕は車の進行を妨げているその扉を見た瞬間、「ああ、僕はまたここに来てしまった」と、思った。
 僕はタクシーを降りて、その部屋の中に入ることになった。そこまで行ったら会わなければならない人がいることを僕はわかっていた。僕はひとりではなくて、もうひとりの友人Tが一緒だった。
「ごめんください」
 と言って、玄関に入ると、ひとりの女性が出てきた。僕とTは、玄関を上がったところで少し待たされた。古い団地の玄関なので、僕たちがいる場所はとても狭かった。奥では、既に誰かが面談を受けているようだった。そこは、大学受験を控えた人が訪ねる、塾と治療施設の中間のような場所だった。個人で経営している塾(のようなもの)で、そこの先生は、医学部受験生を特によく診察していた。玄関の靴箱の上には、金魚が入った水槽があった。その手前には、ひとりでに動く、大きな金魚の置物があった。置物の金魚は、とてもリアルなうねりをみせながら、一本の鉄棒に支えられてくるくると回っていた。鱗の光沢が本物らしくて、大きさは鯉よりも大きいくらいだった。金魚の置物のさらに手前には、勝手にジャズを演奏する縦型の鉄琴があった。
 振り返って廊下の様子を見回すと、壁には子供用教育雑誌を出している出版社のカレンダーがあった。塾の先生は、子供の勉強も見ているのかも知れない。Tは自分の予約を入れていたらしく、それからすぐに中に通された。僕はひとりになったので、玄関に向かって右側の待合室で自分の順番を待つことにした。すると、ひょっこり僕の母親が現れて、「あなたの予約は、お昼の休憩後の13時30分になっているけど、(Tに)続けてやってもらえると思うから、待っていなさい」と、言った。僕は、厚手の絨毯が引かれた待合室であぐらをかいて、自分の順番を待つことにした。
 僕の順番はなかなか回ってこなかった。待っている間に、僕は何度かトイレに行った。3回目のトイレから待合室に戻る途中に、最初に応対してくれた女性と会った。彼女は僕の方を、凄い顔でにらんだ。何故にらまれているか分からず、少し腹が立ったので、僕もにらみ返した。すると、その女性は、「あなた、気が短いのね」と言った。待合室に戻ると、程なく僕が先生から呼ばれた。僕を呼んだのは先生の奥さんという人だった。
 「どこへ行っていたんですか。呼ぶのはもう3回目ですよ」
 と、奥さんは言った。ずっと待合室で待っていたはずだったので、訳がわからず、僕は何も答えられなかった。奥さんの後を追って、先生の部屋に入った。先生は奥の畳の部屋に座っていて、前に大きな机があった。
 「やっといましたよ」
 奥さんは呆れたように先生に向かってそう言った。入り口の手前にはTが座っていた。ずいぶんと落ち着いた様子に見えたから、確かに彼の面談が終わってから少し時間が経ったのかも知れない。しかし、僕が待合室を離れたのは、トイレに3回行っただけだったから、なぜ僕がそこにいないと言われたのか不思議だった。トイレに行っていたのだって、一回一回は非常に短い時間だった。
 先生は太っていて、小林亜星に似ていた。坊主頭で、銀縁のめがねをかけている。先生は、僕が来るのが遅かったためか、机の前で昼食を食べていた。食べているのは、生卵かけご飯だった。
 「ぜんぜんどこにも見あたらなかったんですよ。一体何を考えているのか」
 奥さんはしつこく文句を言っていた。最初は、先生の前では行儀良くしていなければならないと思っていたのだが、奥さんのしつこさに、僕はだんだん腹が立ってきた。そして、
 「もう、何でもいいよ」
 といい、先生の前で乱暴にあぐらを掻いて座った。
 先生は、「おお」という感じで、僕の乱暴な座りかたに少しだけ驚き、それから生卵かけごはんを続けて食べた。
 「まあ、これでも飲みなさい」
 と、先生が言った。机の脇では、奥さんがすでに飲み物を用意していた。飲み物は、どんぶりのような器にたっぷりと入っていた。色が薄い茶色で、少し変わったお茶のように見えた。僕は勧められるままにそれを飲んだ。
 「塾の教師のような仕事はね、家にずっと居るから生活に変化がないんだよ。一日中家に居っぱなしなんだ」
 先生はそう言った。僕は、そこで初めて自分が医者であることを思い出した。ここは大学受験をする人が、何らかのアドバイスを受けるはずの場所だったので、僕がすでに医者として働いていると言うことを、先生に伝えなければならないと思った。しかし、その後の展開に興味を持ったところもあり、結局何も言わずに先生の前に座り続けていた。
 「こんな仕事はねえ、飲みながらじゃないとやっていられないんだよ」
 と、再び先生が言った。
 「飲むって、酒のことですか」 
 「そうだよ」
 先生は如何にも当然だ、というように答えた。
 先生は、酒に酔っているようには全く見えなかったし、机の周りにも酒の類は一切置いていなかった。
 「おまえは本当にいい加減なやつだな」
 次に先生は、そう言った。横で奥さんが、いやらしく頷いている。僕は先生の言葉よりも、奥さんの態度に腹が立った。そして、衝動的に、
 「トイレに行ってただけだろう。ちゃんと探しもしないで、人が悪いようにいわないでくれ」
 と、大きな声で言った。そう言った後で、後ろにTがいるのを思い出して恥ずかしくなったが、言葉は僕の口を離れて、すでに世に出てしまっていた。
 「ほら。そしてすぐ、そう言う風に短気を起こすんだ」先生は、生卵かけご飯の続きを食べながら言った。口から吹き出した米粒が、机の上に置いていた、僕の右手の上に飛んできた。
 僕は、トイレから待合室に戻る途中で、応対の女性に言われた言葉を思い出した。彼女もまた、僕のことを短気だと言った。
 僕は、短気なのだろうか。確かに、中学高校から学生時代までは、キレるというところまではいかなくても、ときどき感情的になることがあった。そして、そういう行動をしている頃は、感情的になるべき時にきちんと感情的になれることが自分の良い点だと思っていた。その後色々なことがあって、次第に僕は、「感情的になることはほとんど全ての場合において良くないことである」というふうに考えるようになっていった。しかし、実際にこういう場面に直面すると、突発的に自分をコントロールできなくなることが、いまだにあるのだとわかって、少し悲しい気持ちになった。
 返す言葉が見つからなかったので、何も言わずに机の上を見ていると、先生が
 「じゃあ、そろそろ始めるか」
 と言った。
 先生は、重そうな体を起こして、机越しに僕の方へ向かい、両手を押さえつけた。そして、
 「眼を大きく開けろ」
 と言った。少し前に飲んだお茶に何か入っていたのか、僕の意識は次第に、とろとろしてきた。先生は、僕の目に何か細工をし始めた。
 「短気になるのはな、眼の一部分でしかものを見ないからなんだよ。いいか、ものをみるときは、眼の全部を使ってみるんだ。ほら見てみろ」
 僕は仰向けに押し倒されていた。視界全体が、太陽を直視した後のように真っ白になり、それから海の景色が見え始めた。気のせいか、いつもよりも視界が広くなっているような気がした。海は、太陽の光が表面に当たっていて、水の色がよく判らなかった。白くて小さな波が幾つか立っていた。海の景色は、次第に消えていき、次に山が目の前に表れた。山は、富士山だった。視界の中央に雲を従えた静かな富士山の姿が見えた。
 「あ、富士山だ」
 両手を押さえつけられたまま、僕は心の中でつぶやいた。そして、目が覚めた。部屋はまだ真っ暗だった。
 ベッドルームから、寝ぼけ眼でリビングのほうを見ると、無線LANのACアダプターの尻に灯った光が、いくつも重なって見えた。緑色の光が、暗い部屋の中で打ち上げ花火のように球形に光っていた。
 夕方に、医局で何気なく読んだ富士山の新聞記事のせいで、こんな夢をみたのかもしれない。

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