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今日偶然出会ったことばたち

5月14日

朝から家で調べものをする。
午後から三宮へ行き、『節の精解』(檜書店)を購入。ユニクロに寄って、部屋着用の綿パンツを買った。

今日私が辞書で偶然であった言葉。

「不育症」[英 infertility] 生殖年齢にある夫人が正常な性生活を営んでいるにもかかわらず、一定期間内に妊娠の成立をみない状態を不妊症sterility, infertilityというのに対し、妊娠は成立するものの、流産、早産、死産などによって生児が得られない状態を不育症という。生殖過程からみると、不妊症の病態には排卵障害、受精障害および着床障害が含まれるが、不育症は着床以後の障害に基づくもので、妊卵側要因と母体側要因あるいは両者が含まれる。実際には不妊症と不育症との区別は必ずしも明確でなく、不育症は広義の不妊症として解釈される傾向になりつつある。(南山堂 医学大辞典より)

思いもかけず長い言葉にぶちあたってしまった。

5月13日

朝から雨が降っている。

研究室→合気道のお稽古→お能のお稽古

という一日だった。


私が今日、辞書で偶然出会った言葉

“presentday(現代の)”adj. Currently existing or occurring.(WEBSTER’S II DICTIONARY NEW THIRD EDITIONより)


「合気道は現代に生きる武道である」

植芝盛平先生のお言葉として、多田先生からお聞きした。

5月12日

朝から大学病院の処置当番。骨髄穿刺、輸血、点滴などをどんどんこなしていく。
病院から実験室に戻ると、「松井が怪我をして連続出場が途切れたらしいですよ」と、S先生が教えてくれた。松井秀喜選手には、早く怪我を治して再び元気な姿を見せてもらいたい。星陵高校の4番打者として5打席連続敬遠され、チームは敗退。敗戦後のインタビューでの大人の態度(まさに超高校生級だ)を見て、その後の彼を応援する気持ちを持った人は多いはずである。
人は才能ある人を手放しで羨みがちだけれど、才能に恵まれるということは、傍から見るよりもずっと大変なことだと思う。自らの才能に振り回されてだめになっちゃう人というのはけっこう多いのじゃないだろうか。そんな中で松井選手は、天賦の才に恵まれた人間の生き延び方を知っている、珍しい人に見える。がんばれゴジラ。


今日、一冊の辞書で私が偶然に出会ったことば。

かわづくり【皮作(り)】魚の刺身を、皮のついたまま作ること。また、その刺身(新明解国語辞典第五版より)。


あなたは、鮭の皮をたべますか?僕はたべます。

5月11日

朝一度、大学に行き、それから堺の精神病院へ。大学を出たのが9時30分だったので、もう大丈夫だと思っていたのだが、予想に反して近畿道の入り口は大渋滞である。不思議に思いながらノロノロとゲートをくぐり、さらに一キロほど進むと、渋滞の原因は二車線の片側(正確には、そのさらに半分ほど)を塞いでいる故障車だった。交通整理をしているヘルメット男が呆けた顔で通行車を誘導している。
狭い道路で渋滞を引き起こしている車をみると、私はいつも動脈硬化病変のイラストを思い出してしまう。道路は血管、車は血球、故障車は動脈硬化のアテロームである。局所のほんの小さな病変(故障車)が、後ろに続く場所に想像も付かないほど大きな血流障害(渋滞)を引き起こしている。人間の体内では、血流が滞った血管ができると、周りに「側副血行路」と言われる新しい血管がどんどんできてくるが、高速道路ではそういうわけにはいかない。
狭くなった部分を通り抜けた車が、鎖を解かれた犬のようにスピードを上げた。私も同様に走り出した。

今日、一冊の辞書で私が偶然に出会ったことば。

“atavism(隔世遺伝)” n. The reappearance in an organism of a hereditary characteristic absent for several generations. (WEBSTER’S II DICTIONARY NEW THIRD EDITIONより)

「三平一平の孫は三平」

確か釣りの才能も隔世遺伝していたはずだ。

5月10日

午前中は大学で過ごす。午後から健診センターへ出張。その後再び大学にもどる。

今日、一冊の辞書で私が偶然に出会ったことば。

そうめい【聡明】
[「聡」は耳が、「明」は目がさといこと]物事や人情などに対する判断力・洞察力にすぐれ、自分の置かれている環境で第一になすべき事を十分に自覚している様子。−さ(新明解国語辞典第五版より)

お茶をする人にとって、宗名をもらうと言うことはとても嬉しいことなのだそうです。

5月9日

何となく気分がすっきりしない日が続いている。慌ただしくて、注意が散漫になりがちだ。去年の秋から、医局で振り分けられる出張が増えたのが大きな原因だと思われる。出張が増えたせいで、大学院の頃のように研究の時間が取れなくなってしまった。いい結果も出ないので、少し焦り気味である。焦りの結果、痛い目も見た。自分にとって好都合な実験結果に飛びついてしまい、結局一年近くの時間を無いものと同じにして、再びやり直しになってしまった。今年の2月か3月くらいのことである。しかし、一度振り出しに戻る覚悟ができると、やや気持ちが落ち着いてきた。それからは着実に作業を進めることを意識している。
どこかすっきりしない日々を送っている私は、今日、ある自己治療法を思いついた。「淡々と書く」ことをすれば、少し心にゆとりができるかもしれない。そう思ったのだ。私は、他人の治療はあまり得意な医者じゃないが、自分の治療はちょっとだけ得意なのだ。

今日、一冊の辞書で私が偶然に出会ったことば。

“quoit(輪投げ)” n. quoits (sing. in number). A game in which iron or rope rings are pitched at a stake. 2. A ring that is used in quoits.(WEBSTER’S II DICTIONARY NEW THIRD EDITIONより)

幼稚園児の頃、輪投げ遊びをしたことがある。途中から順番を他人に渡すのが嫌になり、私はいつの間にか独り占めして遊んでいた。すると、どこからか母が現れて、私は庭の木にロープでくくりつけられていた。一緒に遊んでいた弟と従兄弟は、私にかまいもせず、楽しそうに遊び続けていた。いくら叫んでも、誰も助けてくれなかった。私は、私がいないと、弟と従兄弟達がこんなにも仲がいいのだという事をその時初めて知った。

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2006年5月15日 10:49に投稿されたエントリーのページです。

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