10月19日(火)
おじいさん医院は内科だけを標榜している小さな診療所で、午前中の一番混雑する時
間帯でも、医者が一人いれば十分足りる程度の患者さんしかこない。
僕はその決して忙しいとはいえない診療所で、毎日おじいさん先生と二人で診療をし
ている。
おじいさん先生は忙しいのが嫌いなようだ。
開業医というのは普通、患者を集めるために駅や新聞に広告を出したり、患者さんが
通院しやすいように夜遅くまで診療したりという営業努力をするものだが、おじいさん先生は全くそういうことをしようとしない。それどころか如何に患者さんを減らすかということばかり考えている。
診療所の名前ひとつとってみても、以前は「○○内科医院」というごく常識的な名前だったのだが、数年前に「おじいさん医院」という変な名前に変えてしまった。患者を減
らしたかったから。
僕がこの診療所で働き始めた頃、ここの名前は既に「おじいさん医院」だったから、
僕はずっと昔から、それこそおじいさん先生がおじいさんじゃなかった頃からここの
名前は「おじいさん医院」だったのだと思っていた。でもそうじゃなかったらしい。
おじいさん先生は、患者数を減らしたくて診療所の名前を変えたわけなのだが、名前
を変えたばかりの頃はむしろ患者数が増えてしまったそうだ。
かかりつけの医者を持たない人が、何かの理由でいざ医者にかかろうと思ったときに、看板に書いてある名前だけで、受診する診療所を決めるというのは、結構大変なこと
である。
「医者が年寄りだ」というのが、受診する側にとって有益であるかどうかは別の問題
だとしても、普通の診療所の看板を見ただけではそこの医者が年寄りかどうかは勿論
分からないわけで、そうすると「おじいさん医院」という名前は、自然に勝手に他の
診療施設の看板にはない情報を提供しちゃっていて、いつの間にか、勝手に患者さん
に安心感まで与えちゃったりして、おじいさん医院はおじいさん先生の思惑を勝手に
超えて繁盛したのである。
しかし、それでもおじいさん先生が年を取って、ますますおじいさんになってきたの
と、周りにいくつか内科の診療所ができたことから、少しずつ患者の数が減ってきた。
最近やっと暇な時間が増えてきて、のんびり診察をしたり、僕や看護婦さん達と雑談
をすることができるようになって、おじいさん先生はとても嬉しそうだ。
今日にしてみても、診療開始から2時間も経ったら患者さんがぱたりと途切れてしまい、すっかり暇になってしまった。することがないので、僕は診察が終わった患者さんのカルテをぱらぱらとめくっていた。
患者さんは38歳の男性。会社の健康診断で高脂血症を指摘されて、この診療所にやってきた。血糖も少し高い。初診は今年の7月で、初回はおじいさん先生が診察している。
身長172センチ体重91.2キロ。
朝ご飯にはいつもメロンパンを2個食べて、缶コーヒーを飲みます。
晩ご飯の時には、子供が残したおかずをついつい全部食べてしまうんです。それがちょっと気になってます。食べ過ぎでしょうか。食べ過ぎです。
カルテを読んでいたら、隣の診療室で同じように暇をもて余していたおじいさん先生
が雑談をしにやってきた。
白衣姿でコーヒーカップを持ったおじいさん先生は、見慣れない黒いズボンを履いて
いる。
細身のシルエットで少しだけ裾が広がっていて、前後左右で丈の長さが違っている何
とも不思議な形のズボンである。本当に変な形のズボンなのだが、不思議なことにそ
れ程違和感がない。似合っていると言っても差し支えがない。
「先生、今日は随分変わったズボンを履いていらっしゃいますね。良くお似合いです
けど」
というと、おじいさん先生は少し笑ってから「これはね、『おじいおずぼん』といっ
てね、最近一部のロック愛好家の間で非常に流行っているのだよ」と言った。
年寄りを甘やかし過ぎてはいけないと思い、僕は何も答えないまま読みかけのカルテ
に視線を戻し、黙って続きを読み始めた。
でも、やっぱり可愛そうかなあ、相手をしてあげようかなあと思った瞬間、看護婦さ
んから「さとう先生、患者さんです」と新しいカルテを渡された。
患者さんは新患のようで、カルテには「山田正三」と名前が書いてある。
僕は、おじいさん先生に小さな微笑みだけを返してから、カーテンの向こう側の待合
室へ向かって「山田さん、中へどうぞ」と言った。
直ぐに「はい」と返事が聞こえた後、一人の中年男性がカーテンをかき分けて僕の診
察ブースに入ってきた。
山田正三氏は真っ黒なズボンを履いていた。それは間違いなく「おじいおずぼん」だっ
た。