「よき戦争より悪しき平和」という言葉があります。ウクライナ情勢で考えてみましょう。ウクライナ側の「領土を譲っても、これ以上、国民が殺されないようにするため停戦すべきである」という発想です。ロシア側なら「国の評判が泥まみれになる前に、そこそこの戦果で終わろう」という感じでしょうか。
もちろん、こういう考え方は四方八方から避難が飛んできます。「腰抜け」「敗北主義者」「侵略者プーチン報酬を与えるな」「ファシストに殺された若者の血を無駄にするのか」とか、理論的にでも感情的にでも断罪できます。正義とかイデオロギーとかがお好きな方は、腕のみせどころです。
けれども、「罪もない子供たちが大量に殺されてるのに、正義を守ってると言えるのか」という再反論の前では、口をつぐむしかありません。評論家の呉智房氏は、以前この状態を「正義と幸福の矛盾」とまとめていました。
私はイデオロギーとは正義の追求の方法論で、ビジネスとは幸福の追求の方法論ではないかと思っています。だから、昭和日本の学生運動の末路から、20世紀末の社会主義国崩壊ドミノにいたるまで、「左」の失敗は、正義の追求が過剰になり、また形骸化し、幸福を求める多くのひとが、ついて行けなくなったことが引き金になりました。
同じ流れは今でも続いています。労組の陳腐化、フェミニズムの粗雑化、環境運動の呪術化などがやり玉に挙がっています。わたしたちの長屋の大家さんの至言のひとつ「審問の語法」というのがあります。いかにも左っぽい審問スタイルが、アレルギーと呼びうるほどの反発を受けているのが現代の「先進国」なのでしょう。
アレルギーをエネルギーに変えてのし上がってきたのが、言わずと知れたトランプさんです。真面目な言い方をすれば、「民主党政権が継承してきた価値観政治の行き過ぎと行き詰まりを突いた」とでもなるのでしょうか。
無茶苦茶でも痛快な平和構築
当選したトランプさん、「就任すればウクライナ戦争は一日で終わらせる」というのは無茶でしたが、ガザ地区のほうはとりあえず押さえ込んでしまいました。ある意味で痛快なのは、何の思想性もない力による停戦というやり口です。論理も倫理も無茶苦茶ですが、それなりの結果は確かに出しています。
こうしておいてから、腰を据えて仲裁に入る気のようです。その際、争う両者に対してコワモテぶりを誇示します。一方的にイスラエルの肩を持つという憶測が流れましたが、実際にはネタニヤフにも圧力をかけているようで、さっそくワシントンに呼びつけるつもりみたいです。
のこのこ出てきて大丈夫なのかな、国際刑事裁判所から逮捕状が出ていますが......首脳会談でトランプさんの逆鱗に触れれば、目配せひとつで銃と手錠をもった連中が飛び出して来る知れません。韓国には「元首は牢獄への王道」ということわざがあるという話を聞いたことは......ありません。今、わたしが考えました。
極論は別としてもイスラエル側が気を遣う展開になるのは間違えありません。なにしろアメリカファーストの人が相手ですから、いつまでも安値で武器なり物資なり技術なり情報なりの提供をとは行きません。援助をやめるのはいつでも只でできます。
もちろん、ハマス&イラン側にはすでに相当な圧力がかかっています。こちらの方はもっと簡単で、少し強力だが使い勝手の悪い大型兵器を、ちょっとばかりイスラエルに渡せばいいわけです。たとえ虐殺の責任を負わされそうでも、もらった以上、使わないわけには行きますまい。
つまり両者を渋々交渉の場に引き出し、双方に妥協をさせようという作戦です。この考え方、どこかで見たことありませんか。落としどころとは「両者が同じ程度に不満な状態」というのは、当長屋の大家さんの口癖ではありませんか。
「両者が同じ程度に不満な状態」......英語で言えばディールです。ディールとは交渉ごとですから、「どちらかを一方的に勝ちとして、負けた方は悪の権化として裁かれる」という風にはしないでしょう。両当事者とも心の底では満足はしませんが、それなりに顔をたてやり停戦に持ち込もうと言う算段です。
考えてみれば根っからのビジネスマンであるトランプさんは、ビジネスとしては戦争は引き合わないことをよくご存じです。武器輸出で死の商人が潤うとしても、ウクライナやガザのように中短距離ミサイルやらドローンが主役になってしまうと、「戦車はいかがでっか。ICBMあるでぇ。型落ち戦闘機、安うしとくよ」という老舗商売はしにくいでしょう。それに産軍複合体にとって、不動産長者であるトランプ氏は最も扱いにくい政治家と言えます。兵糧攻めの効きがものすごく悪いからです。
さらに、トランプさんは国外出兵を全くしなかった近年珍しい米大統領とのこと、武力行使は国内、特に首都ワシントンでというのがモットーのようです。こういうのをドメスティックバイオレンスと呼ぶべのではないでしょうか。いや呼ばないでしょう。
「よき戦争より悪しき平和」というのは、もしかしたら分断社会での特効薬、少なくとも、よい痛み止めにはなるのではなります。何しろ痛みが多すぎますから。
よく分かってはいけない事件
さて、フジテレビ問題です。よく分からない事件です......いや、よく分かってはいけない事件なのでしょう。性犯罪というのは、理解が広がること自体が(少なくとも)被害者が傷つけるからでしょう。加害者(仮にそうしておきます)と被害者との間で、守秘義務契約が結ばれたのも当然でしょう。
けれども、これでは議論のしようがありません。基本的な情報が何もないからです。「誰が(個人名でなくても立場など)被害者なのか」、「どういう経緯(フジテレビとの関係など)で被害にあったのか」、そして「何がおこったのか」、です。
最大の関心ごとは、最後の「何がおこったのか」です。これが分からない限り事件の全貌が見えることはあり得ません。よって、現状で責任の議論をしても無意味なはずです。
一方、被害者が一番表に出してほしくないのもおそらくこれでしょう。「あんなことも、こんなことも、されちゃったのね」という話は、ポルノとして消費可能で、多くのマスゴミ関係者には、喉から手が出るほど欲しい情報でしょう。性加害者の責任追及という錦の御旗もあります。
特に巨額の「解決金」が表に出てくると、この論点はさらにクローズアップされます。もし、被害の具体的な内容が明らかになり、仮に軽微なものであった(厳密には世間が軽微と見なした)場合は、被害者は娼婦扱いされるでしょう。「一夜で9000万円(?)稼いだ女」というわけです。逆に、誰が見ても残酷で凄惨な被害にあっていたとすると、被害者は賎民と扱われかねません。つまり「一夜で9000万円分(?)汚されてしまった女」という訳です。
奇妙なことに、この点では加害者も同じで、「9000万円相当の臆病者」か「9000万円相当の変質者」という訳です。しかも、こういうイメージはつねに変動します。兵庫県知事のパワハラ事件を見ていても、ちょっとしたことで善玉と悪玉が入れ替わることの恐怖を覚えます。
だから、フジテレビが徹底的に箝口令をひいて、事件を隠蔽しようとしたのは少なくとも結果的に正しかったと思います。惜しむらくは発覚当時に、N氏には「急病」になってもらって、ただちに他局を含む全番組を降板させて、当分の間、海外ででも静かに暮らしていただくべきでした。そして、外部からの取材には、「噂話では聞くが会社として対応すべき事案では無いし、プライバシー保護のために取材には一切答えない」とでも弁護士に言わせて、強引に幕引きをはかるべきでした。仮に「トランプ社長」だったらそうしていたでしょう。
事件の本質部分に守秘義務がある以上、記者会見を開くのは無意味でした。「何をやったかは言えないけど、ごめんなさい」じゃ、議論の進めようがありません。たとえ、何か言い分のある関係者がいても、口をつぐむしかありません。だから、被害者の傷を深めるわりに得るものは何も無いのです。
こんなことを理解するのに10数時間も要したとすれば、現場にいた記者の大部分はアホということになります。そうではなくて他紙・他社との横並び意識のせいで席を立てなかったとすれば、これまた別の意味でアホです。
会見で一番得をしたのは、当のフジテレビだったのかもしれません。まず、逃げずにギネス級の会見につきあったことで、誠意を見せられました。そうです、われわれ日本人の大好きな「無意味で芝居がかった誠意」です。坊主刈り・指詰め型誠意と言いましょう。
もうひとつ、取材する側に十分な失態を演じさせたことも大きな成果でしょう。これが下地がとなって、直後に発覚した文春砲の誤報は起死回生のオウンゴールとなりそうです。
そろそろ世間も飽き始めています。これ以上無理に騒ぐ必要は誰にもないと思います。真相も責任もウヤムヤですが、私個人としては、「良き戦争よりも悪しき平和」であって欲しいと思います。
お台場のガザ地区での戦禍
事件の構図をあらためて確認すると、ガザ問題と似ているように思います。加害者のN氏がハマス、被害女性がイスラエル人の人質、フジテレビがパレスチナ人(一部にはハマスの熱心な支持者もいた)、広告主や海外株主がネタニヤフ政権です。
最初に攻撃したのはハマスで人質は純粋な被害者なのですが、現在のネタニヤフ政権の制裁は、人質救出を建前としながらもパレスチナ人全体に無差別に向かっていて、かつ過剰です。そのため人質はより危険な目にあい、多くのパレスチナ人は理不尽に生命や財産を失っているわけです。
そっくりじゃないですか。やはり「良き戦争よりも悪しき平和」しかないでしょう。
メディア企業の社風糾弾は虚しいだけ
「そんなことになれば、同じような事件がまた繰り返される。事実を明確にしてウミを出し切らなければならない」などと紋切り型で反論されるかも知れませんが、仮に被害者の人権はきっぱり諦めて、事件の全貌を明るみに出したところで、在来メディア企業の体質は変わらないでしょう。
一方、この件があろうがなかろうが「性上納」みたいなものは時代に合わなくなっているのは確かです。名前を出して大変恐縮ですが、藤井聡太氏や大谷翔平氏がこうした性接待を受けるなんて考えられません。一面識もなく調べているわけでもない私たちには何の根拠もないのですが、そういうイメージで見ています。つい20~30年前に、将棋名人やトップアスリートの一部がどんなことをして、ある意味で世間もそれを当然視していたのとは、時代が様変わりしているのです。
テレビ局などの旧メディア企業は変化について行けていないので、今回のような事件はおこるのでしょう。けれども、追いつくことを周囲が要求するのはおそらく無意味です。かなり頑張ってみても彼らが追いつくよりは、少しずつ社会的影響力を失いながら消滅していくスピードのほうが、遙かに早そうだからです。