北の国から

 事の発端は、会社で仲良くしている先輩との他愛もないいつものバカ話からだった。その先輩とは、よく映画の話をし、一緒に山登りをする間柄で、僕の数少ない「ともだち」のひとりだ。
先輩は、タランティーノとかデビッド・リンチが好きな僕の偏った映画の趣味を指摘し、
「もうちょっと、何ていうかなぁ~、グっとくる作品見たことないの?」
「例えば、どんなものですか?」
「「北の国から」とか。」
「見てないですね。面白いんですか?」
「・・・・・・・・」
「そやろうな~そんな気がしたわ。やっぱり自分(僕のこと。関西の一部では、あなた=自分と言う。)は、血も涙もない人間やもんなぁ。」
「北の国から」は、原作・脚本、倉本聰。主演は田中邦衛。 1981年に放送されたテレビドラマのことである。その後のシリーズものの最高視聴率が、38.4%というもので、どれだけこのドラマが多くの人から愛されているのかがよく分かる。
 僕も、そこまで言われたなら一度は観ておこうと一念発起し、数年前にDVDを借りて嫁さんと二人で一気に観た。
 結果は、先輩の言った通りだった。横でワーワー泣いてる嫁さんを尻目に、僕は一粒の涙も流すことができなかった。
 僕が「北の国から」に共感を覚えない理由は、明白だ。それは、田中邦衛扮する黒板五郎が、見慣れた人物像だからだ。その人とは、父親のことである。だから、テレビでまで、見飽きたといってもいい父親のような黒板五郎をあえて観る気にはなれなかった。これは、その当時そう思っていたというよりは、今になって思えばということだが。
 むしろ、五郎のあまりの身勝手さ、幼稚さに腹が立った。自分の都合で、東京を離れ、富良野という地の果てのようなところに連れて行かれた子供たちのことを思うと、僕は不憫で仕方なかった。更に、こんな僕の考えを更新させたのが、田中邦衛追悼記念で放送された「北の国から`87初恋」だった。純の東京行きの計画を一番最後に知った五郎が、酒を飲み、酔っ払いながら純を叱るシーンがある。僕は、深いため息をついた。
 そんなことがあり、昨年、とある宴席で、内田先生に「北の国から」のおもしろさについて尋ねてみた。そして、数日後に内田先生は、このようなツイッートを投稿された。『「男にはやるべきことがある。お前らは黙ってろ」とことあるごとに家族に対する支配権を誇示する男が家族を解体させ、家族に同意も理解も求めず、黙ってやるべきことをやる男が家族を結束させる。『ゴッドファーザー』はそういう話なんです。なかなか深いです。』(2021年11月25日)。内田先生は、「北の国から」の五郎と、「ゴッドファーザー」のマイケルを対比させ、このように分析された。僕の「北の国から」に対するわだかまりのようなものが、少しずつ溶解していった。
 1981年、イギリスのロックばかり聞いていた16才の少年にとって、オープニングのさだまさしのテーマ曲は、なんともゆるく、それだけでアレルギーを起こしていたのだが、それでも少しぐらいはこのドラマを観たことがあり、観ていて一番不思議だったのが、五郎と蛍との会話が普通なのに、純との会話は「ですます調」だったことだ。高校生の僕には、それがどういうことなのかよく分からなかった。しかし、今となれば何となく想像がつく。それは、五郎は、純を一人の男として尊重したいというスタイルを通して「父親」になろうと懸命に努力し、なにより「父親」として息子との距離感に戸惑っていたのではないかということだ。
 僕の父は、「父親」、「夫」というスタイルに随分こだわっていたようにみえた。しかも、それは、どこかで見たことのあるような定型化されたものだった。
 父親は喧嘩するたびに母親に、「誰のおかげで、メシが食えていると思っている!」とよく怒鳴っていた。僕は横で聞いていて、子供ながら、それは、「言ったらダメなのになぁ。」とよく思ったものだ。一方、僕に対しては、「それが、親に向かって言うことか!」と、よく怒られた。
 そんなスタイルに父が固執するあまり、父と僕との距離は、どんどん離れていったように思う。しかし、父親になったことはないが、自分がこの年になると、父もいかにして「父親」になろうかと、必死にもがいていたのではないかとそんな気がする。父のその焦燥のようなものが、結果として、家族を解体させていった。
 是枝監督の作品に「そして、父になる」というのがある。題名のとおり、男は、いろんな苦労を経ながら紆余曲折を経て、ようやく「父」になるのかもしれない。
 3年前に母が亡くなった。葬儀が終わり、親戚たちと会食をしながら、僕は、叔父たちに、生前の父の叔父たちに対する非礼を詫びた。そうすると、叔父たちから意外な言葉が返ってきた。
「謝らないかんのは、こっちの方や。姉さんと英ちゃんには、本当にすまなかったと思ってる。兄貴の替わりに謝る。堪忍してやってくれ。」
 僕は、この言葉を聞いた瞬間に、それこそ体中の力がするすると抜けていくのが手に取るように分かった。僕は、そのとき、父を許そうと思った。

いつものお正月

 あけましておめでとうございます。
井上英作と申します。2002年に雑誌「ミーツ」で内田先生のエッセイを拝読してから、すっかりその魅力に魅せられてしまい、嫁さんは合気道を始めるは、僕は「寺小屋ゼミ」生になるはと、夫婦ともども日頃より内田先生には大変お世話になっています。文章を書くのは、それほど嫌いではないので、今回、内田先生に許可をいただき、「長屋」の店子に加えていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします。
今回は、毎年必ずお正月に会うともだちについて書きました。
我が家の「お正月」のメインは、なんといっても「須磨のサーファー」(以下Tさんとします。)のお家にお邪魔することである。これがないと、「お正月」が実感できないといっても過言ではない。毎年、12時頃にお邪魔し、南向きの明るいリビングで、Tさんの奥さん手作りのおせちを食しながら、日本酒を飲み、くだらない話に花を咲かせるこの時間は、僕にとっては、何ものにも代え難い愛しい時間である。
Tさんとの出会いは、今から約30年ほど前の1989年にまで遡る。僕の嫁さんと、Tさんの嫁さんが友だちで、僕たちは彼女たちを介して出会った。よくある「彼氏」を互いに紹介するというものだ。嫁さんたちは仲がいいのに、その彼氏、旦那とは、馬が合わないというのは、世間にはよくある話だが、僕たちは違った。なぜか、Tさんは僕のことを気に入ってくれたようで、Tさんが結婚したころぐらいから、僕たちは嫁さんたち抜きで「差し」で会ったりするようになった。男兄弟のいないTさんは、3才年下の僕のことを可愛がってくれた。それは、ともだちでもなく、後輩でもなく、まるで「弟」のようにだった。僕も兄がいないので、兄のことを妄想しながら、「兄」のようにTさんに接した。僕は、Tさんが話すサーフィンの話が好きだった。そして、僕たち夫婦は、Tさん一家と、所謂家族ぐるみのつきあいになった。僕たちは、いろんなところに遊びに行った。
2000年になったころから、お正月をTさん家で一日過ごすというのが、いつのまにか我が家の習慣となった。いくら仲がいいとはいいえ、正月早々他人の家に行くことに多少は抵抗もなくはなかったが、いつのまにか定例行事と化すようになった。ある年などは、どうしてもお互いの都合が合わず、元旦に伺うことになった。当然ながら元旦なので、Tさんの親戚一同もいるわけである。その親戚に混じって、我々夫婦が一緒に食事をするということもあった。また、数年前に別府に旅行に行った際には、宿がどうしても取れずに、一部屋にTさん家族4人と僕という取り合わせで宿泊し、5人で川の字になって寝たこともある。その時の旅行の写真をTさんは、別のともだちに見せ、そのともだちが、Tさん家族に混じって写っている僕を指差し、「これ誰?」と聞いたところ、「え?井上くん。知らん?」と答えになっていない返事をして、そのともだちを困惑させたそうだ。それぐらい、僕たち夫婦はTさん家族に溶け込んでしまった。
2018年9月、僕は生まれて初めて入院、手術を経験した。胆石の手術である。それから数ヶ月後、僕はTさんと食事に行った。お互いの近況を報告しながら、僕は、入院したことをTさんに報告した。するとTさんの口から、健康診断の結果、血液検査の結果が思わしくないことを聞かされた。「大したことないよ~」といつものように笑いながら話すTさんの笑顔を見ていると、僕も妙に納得し、安心した。
2019年お正月、Tさんから思いもかけない告白をされた。血液検査の結果がよくなかったのは、白血病によるものだったのだ。今すぐに状況が悪化することはないらしいが、骨髄移植をすすめられているとのこと。Tさんは、いわゆるボンボンで、苦労や病気などというものとは、最も縁遠い人だと思っていたので、この告白は僕にとってとてもショッキングなもので、と同時に、僕は、1996年に悪性リンパ腫で失ったともだちをだぶらせてしまった。嫌な思いが頭を離れないまま、その日のことは、殆ど記憶に残っていない。
2022年お正月。僕たち夫婦は、二年ぶりにTさん家を訪れた。「よかったら今年はどうぞ」というTさんの奥さんからの誘いを受け、僕たち夫婦はPCR検査を受け、フェイスガードも持参し、Tさん家を訪れた。玄関先にTさんと奥さんがニコニコと微笑みながら僕たちを迎え入れてくれた。Tさんは、この二年間、二度に渡り骨髄移植を受け、闘病生活を続けていた。それが、どれほど大変だったのかは、二年ぶりに見るTさんの顔を見るだけで容易に想像できた。
いつものお正月が始まった。僕は、毎年座るテーブルのいつものところに座り、南側に面した大きな窓からの陽光を感じながら、いつものようにくだらない話をし、四人でゲラゲラ笑いころげた。宴会も終盤に差し掛かったころ、話題がスキーに及んだ。Tさんは、いつものようにいかに自分は、スキーが上手かったかを滔々と話し始めた。「蔵王に行ってみたいなぁ。樹氷がきれいらしいで。」そう話すTさんの顔を見ながら、僕は、笑顔で、うんうんと頷いた。