映画『国宝」が問いかける伝統と人生の意味

 映画館から足が遠のき、すっかりネットフリックス・フリークと化した私が、滅多に観なくなったAmazonプライム・ビデオを開いてびっくり!

『国宝』の2文字が目に飛び込んできた。

 昨年、映画館で鑑賞したのですが、これほど早く配信されるとは。囁かれたセリフの真意や舞を含めた演技の細部を見なおしたくて、すぐさま再生ボタンをクリック。175分の作品ですが、巻き戻し再生を何度も繰り返して4時間ちかくテレビの前にいたようです。

 映画『国宝』が異例の大ヒットを記録した理由は、単に美しい伝統芸能を描いたからではありません。観客をスクリーンに釘付けにし、「もう一度、あの世界に没入したい」と思わせた独自の仕掛けが、カメラの裏側や役者の血のにじむような努力に隠されていると感じました。

 何故、この邦画作品が異例のロングランで観客を集めたのか。その理由を私なりに考えてみました。

 まず李相日監督の狙いとして、伝統の「壁」を取り払い、泥臭い人間ドラマを描いた点が大きいと。

 歌舞伎と聞くと「敷居が高そう」「難しそう」と感じる人が多いはずです。しかし、監督はそこをゴールにしていない。伝統芸能というきらびやかな世界を舞台にしながらも、描いたのは「才能への嫉妬」「狂気的な愛憎」「血のつながらない家族の絆」という、誰もが共感できるドロドロとした泥臭い人間ドラマです。

 歌舞伎のしきたりや細かなルールを知らなくても、登場人物たちの心の葛藤や痛みがダイレクトに伝わるよう、普遍的な物語として骨太に仕立て上げたことが、幅広い世代の心を掴んだ大きな要因と感じます。

 そして中村鴈治郎による猛特訓に耐えた2人の役者の演技力が「本物」の説得力を生み出したこと。

 もっとも観客を驚かせたのは、主演俳優陣(吉沢亮、横浜流星)の圧倒的なリアリティでしょう。彼らはこの映画のために、なんと1年半もの間、歌舞伎の所作の猛稽古を積み重ねました。付け焼き刃ではない、指先の細かな震えや腰の据わり方、視線の配り方に至るまで、本物の歌舞伎役者が乗り移ったかのような凄みがあります。

 この役者たちの凄絶な覚悟と演技力が、劇中の舞台シーンに「実際の公演さながらの迫力」を与え、観客を圧倒しました。

 卓越した見事なカメラワーク。観客を「最高の特等席」へと誘う圧倒的な映像美です。

 映画のカメラワークは、私たちが劇場で歌舞伎を観るのとは全く違う「映画ならではの体験」を作り出しました。舞台全体の美しさを絵画のように美しく捉える一方で、ここぞという瞬間には、役者の妖艶、愉悦、そして苦悩の表情や、煌びやかな衣装の擦れる音、飛び散る汗が分かるほどの距離まで大胆に迫ります。

 印象に残っているシーンがたくさんあります。

 ガラス越しに映る極道の父の死様に苦悩する主人公の喜久雄の瞳。家名を継ぐはずの息子を差し置いて、師匠の代役を務める舞台の楽屋で、喜久雄の小刻みに震える手指。舞台の上から役者が見上げた観客席の遥か上の闇からハラハラと舞う白く光る紙吹雪。血の底を這うようなドサまわりの屈辱に震え嗚咽する顔。長く放置して縁が切れていた娘と、想いもかけない場で再会し、彼女から発せられた言葉に微笑む顔。

 映画館の立体的な音響効果も手伝い、観客は「劇場の最前列、いや、それどころか特等席で総合芸術を浴びている」ような没入感を味わうことになります。これが「劇場のスクリーンで観るべき映画」として口コミを広げ、何回も足を運ぶリピーターを生んだと言えるでしょう。

 忘れてはならないのが「光と影」の強烈なコントラストです。

 この映画の大きな魅力は、華やかな「舞台(光)」と、泥臭い「楽屋(影)」の対比が徹底的に描かれている点にあります。

きらびやかな舞台(光)は、完璧にコントロールされた美の世界。役者たちがすべてを捧げて輝く場所として...対して息苦しいほどの楽屋(影)は、張り詰めた異空間。一歩舞台を降りると、そこには嫉妬や焦燥感、人間関係の軋みが渦巻いている。白塗りの化粧を落とす鏡の前で、役者たちは「芸の怪物」から「一人の弱い人間」に戻り、苦悩します。

 この舞台上の圧倒的な美しさと、楽屋裏の生々しい人間模様のギャップがあるからこそ、キャラクターたちの生き様がより一層リアルに、そしてドラマチックに観客の心に突き刺さりました。

 映画『国宝』は、徹底的なリアリティにこだわった役者とスタッフの技術(映像美)が、誰もが共感できる熱いストーリーと見事に融合したことで、単なる映画を超えた「一生モノの体験」として邦画史上、未曾有の大ヒットを記録したと感じました。