「頑張ろう」という掛け声を、自分自身に、そして周りにかけ続けて、気がついたら30年たっていた。
例に漏れず、大半の報われない中小企業の経営者と同じく、四苦八苦を繰り返した半生でした。
成長している時も、衰退している時期にも「頑張ろう」という合言葉を唱えるのがビジネスの世界の定番。すべての起業家、すべての事業主、あらゆるビジネスマン、周りの状況に必死でついて行こうと、もがく人々にとっての口癖、あるいは呪文のようなものだと。
他の誰よりも長時間働き、テキパキと仕事をこなして必死に頑張ったものが、報われると信じて、日々の責務に精を出す。たまに見え隠れするチャンスらしきものを探し求めて走り続ける。ほとんどに経営者はペースを測り、長い距離を行くのではなく、全力疾走の短距離を何十回も繰り返そうとする。高度成長期の時代は、それでも良かったのですが...。
29歳で起業し、長年、美容院を運営してきた。経営というより運営。お客様に似合うヘアスタイルや癒しを提供することが生業ではあったが、途中から自立した職人を育てる職業訓練校を運営している意識に変化した。
技術とセンス、接客が抜きんでていれば、少々場所が悪くても必ずお客様でいっぱいにできる。そんな根拠のない自信を持っていた。
今考えると、いくつかの商売の鉄則を軽視していた自分が恥ずかしく、苦い想いがこみ上げてくる。繁華街を避け、最寄駅から多少遠くても問題にしなかった。仕事の良さを解っていただけるお客さまがおられる住宅地ならば、必ず流行らせることが出来る。そんな根拠のない自信が、当時はありました。
なんとか続けてこれたのは、周りの人たちに恵まれ、支えられていたからだと思い知るのは、ずっと後のことになります。
頭を下げ、印鑑をつき銀行から融資を引き出し、その金を労働により膨らませて、適正に分配することが経営の大まかな流れ。それに加えて、自身の技術を試行錯誤、スタッフに鼓舞指導を繰り返し、自分の分身を育てることに専念した時代を経て、新たなビジネスモデルを探し続けできました。
人生の意味が、まわりにどれだけの影響を与えられたかとすると、次のような自問自答を繰り返す。
「お前は自分の人生の目的を果たせているのか? 他者のために何かお役に立てたのか?それによって、どれだけの愛を手にできたのか?」と。その答えになるとは到底思えないが、永遠のドリーマーである初老のおじさんの無謀と思えるアメリカでの生活、顛末記を書き残しておこうと思うのです。
NYでサロンを経営する。
そもそも、そんな無謀な賭けにでる気になったたのは、人材難に起因していると言っても過言ではないでしょう。リクルート、リジョブ、indeed、など様々な求人サイトに高額の料金を支払い求人をかけても、ひとりも応募者がいない。まさに求人難の時代に突入している。いや、働き方改革の流れから、社会変化と共に働き方の感覚自体が変質していると。
2018年を境に、長期的に人口減少が始まり、技術を媒体として、手に本物の技術を身につけて、一生を費やす職をつくことを志向する若者の減少に拍車がかかる。
お金儲けの手段として、美容師の道に入り、出来るだけ家の近くの美容院で働き、ちゃらんぽらんと遊びながら練習し、そこそこの仕事が出来るようになれば、より高い収入を求めて転職を繰り返す。手塩にかけて美容師を育てても、仁義や恩義も無く顧客を持って独立していく。
そのような安直な目的で美容の世界に入ってくるひとが後を立たなくなりました。(勿論、真剣に技術習得に取り組み、素晴らしいデザインで多くの顧客を笑顔にしている美容師もたくさんおられます)
従来の技術を教え、教えられ、切磋琢磨して技術の追求をしていくことを志す自立した若者が少なくなっている現状を憂いている経営者が多数存在するのは間違いありません。それが、いまの日本の美容界です。
なんとか志しの高い人材を確保し、技術者として、社会人として自立した人財を育てることができないだろうか。
そんな折、ある美容学校の理事長から、「NYにあるサロンを引き継いで経営してみないか」との降って湧いたような、思いもかけない話を賜るわけです。
すぐに頭に浮かんだのは、世界の文化に触れ、技術を海外でと願う若者を日本全国から集め、NYで勉強してもらい日本に送り返すビジネスモデルでした。
長年続けて来た美容院経営の集大成として、何か残しておきたい。ケンタッキーのカーネルおじさんのように、60からトライして、前のめりに笑顔でぴんぴんころり出来たら。
今思い返すと、浮かれていたなと恥ずかしく思い出されるのですが、その時は差し出されたおもちゃに飛びつく子犬のように、その先の展開まで予測出来なかった。
ビザの獲得、サロンの売買契約のために何人もの弁護士とセッションを繰り返し、プライベートでも、ジュリアード音楽院で、JAZZ界の最も著名なトランペット奏者である、ウィントン・マリサリス氏の授業を参観させていただいたり、NYドライカットの第一人者 ジョン・サハグのトップスタイリストである山根エイジと仕事をしたりと、稀にみる貴重な経験をたくさんさせていただきました。
徒然なるままに、そのあたりを順番に書かせていただきたく思います。