その2

さまざまな色合い、複雑に入り組んだ形状。

紅葉のシーズンの兜山から摩耶山、再度山、鉢伏山と続く六甲山系さながらに個性的な面々が集う内田ゼミに参加して、脳天気な私も、さすがに緊張からスタートしました。

このゼミは、現在も寺子屋ゼミとして続いていますが、先生が「寝ながら学べる構造主義」など数冊のご本を出されたころで、ほぼ無名でらした時代のことです。

当年度のゼミでは内田先生がいくつかのテーマを出され、それについての考察を参加者の有志が発表する形が取られていました。

初回は前述の京阪神の情報誌Meetsの編集者、江さんから。初年度は指名された発表者に、いくつかのテーマの中から選択の自由が任されていたように記憶しています。

発表の後、ディスカッションが始まり、先生の総括。400字詰め原稿用紙2枚の感想文の宿題が出されて、次回提出という流れ。

後に内田ファミリーの主力メンバーのドクター、ナベジンさん、ウッキー、ダイハクリョク、シャドウ、ジョンウィル、ミヤタケさん、タニグチさんなどなど。先生からあだ名で呼ばれるほど、フランクで明るい雰囲気の講義。

ここでひとつエピソードを。

数回目の講義の後、ウッキーさん、ミヤタケさんに突然拉致されるが如く呼びだされ、先生と食事の場へ。訳も分からず、私なんかがいいんですかの戸惑いのなか...

その席で開口一番、先生が「僕さ、奥さんに捨てられて独り身なんだよ」

ええっ!!私は心のなかで、こんなに言いにくいことを、自らの弱点を、ほぼ初対面の私に最初から伝えるなんて...どっ、どういうことですか?

すっ、すごい!

圧倒されたのを、いまもはっきりと覚えています。

正直、目の前に先生と諸先輩。別件の約束があったことが気にかかり、何を食べたのかもさっぱり記憶にありません。

途中、「ミツヤスくん、合気道はいいよ〜」と満面の笑みで、ひとことおっしゃったのが鮮烈に印象に残ってます。

誰かひとりが、おかしなことを発言すると、周りから集中砲火を浴びる場面もありで、かなりテンションの高いシチュエーション。ゼミでは、まさにとんがったり、曲がったりの凸凹メンバーがキラ星のごとくに登場して、戦国時代の様相を呈してましたっけ。

それぞれに好奇心、向学心、立身出世の志で、意識の高い方々が集まっておられたと思います。いま振り返ると、無邪気で楽しい時代でした。

私はというと、このゼミ自体、先生がおられるアカデミックな場所とは異なる世間、一般人からリアルな発想や興味や問題点を喚起され、拾い上げる場所として開かれたのかな...と考えてました。

水戸黄門ならば、風車の弥七、島耕作ならグレさん、ONE PIECEならばロビンのごとく、先生の好奇心くすぐるアンダーグラウンドな話題やホットな情報をお伝えすべく心がけよう。

今思えば、結構、レポートを頑張って書いてましたね。それについての感想と評価を毎回、楽しみにしていて、Aとかを貰って年甲斐もなくワクワクしたものです。今考えると、規定も責任も一切必要無いんですから、どのレポートにもA評定されてたのかな(笑い)

それは、現在も床屋談義として続いていています。先生は世間話くらいにしか思っておられないかもしれませんが...。

この一年目のゼミで、私が先生の言葉で印象に残っているご指導をひとつあげますと、

「大きなビルに入り込んで、ドアを全部開けようとするな」ということでしょうか。

一度にたくさんの事柄を伝えようとするのではなく、全体を俯瞰。何十も並ぶドアのひとつだけを開け、内部の様子がリアルに伝わるよう語るべし。人前でのスピーチ、コミュニケーションのノウハウの重要な肝。


季節は秋のころだったと記憶してます。
柳田國男さんの提唱された「ハレとケ」の発表のとき、携帯の呼び出し音が鳴り、「父危篤、すぐ帰れ」との緊急の知らせが...

以下は次回