2月10日
地面に穴を掘って「王様の耳ーはー、ローバーのみみー。」とこっそり叫んでた人の気持ちや、「私は貝になりたい」と呟いたフランキー堺の役の人の気持ちが最近どうしてもよく分かってしまう。
2月7日
秋篠宮紀子妃殿下がご懐妊された、とのニュース。
このお子様の存在が、衰退相を示している日本の未来の一筋の希望の光になるかどうか。。。
2月4日
約1か月ぶりにお稽古に行く。
しばらくお稽古を休んでいたら、下半身の動きがちょっと鈍くなっているらしく、膝行で前に進む時や座り技をするときに少し違和感を感じる。ちゃんとお稽古をしなくては。
その後に渋谷ブックファーストに行って、最近の新刊本や新書を確認する。
2月3日
節分。
仕事が終わった後に、コンビニで海鮮恵方巻を、スーパーで豆まき用の豆と恵方巻をもう1本買ってくる。
ここ数年の間に「節分の日には、その年の恵方の方角を向いて無言のまま太巻き寿司を1本食べると、1年間無病息災になる」という習慣が全国区で広まったように思うけれども、この習慣が日本全国に広まったのはコンビニの力が大きいのではないか、と思う。
豆まき、というのは一人暮らしの人間が一人で行おうとするとどうにも様にはならない。(でもわたくしは1人で「鬼はーーそとーー。」と呟きながら玄関先に向かってピスタチオを撒きましたが。。。)
その後に、今年の恵方である南南東の方角を向きながら、恵方巻を2本無言で食べきって今年一年の無病息災を願うことにする。
でも今気がついた。恵方巻2本は明らかに食べ過ぎだ。
1月28日
新潮文庫から田口ランディさんの「馬鹿な男ほど愛おしい」という本が発売されていて、そこに「愛しの紫のバラの人」というエッセイが収録されている。
少し長いけれども、後半の重要な部分を引用しようと思う。
どうしても、私がよろめいてしまうタイプの男が、なんと今だに少女漫画の世界に存在してしまったのである。聞いて驚くなよ、それは『ガラスの仮面』の速水・・・・・・そう「紫の薔薇の人」である。私も自分で馬鹿じゃないって思うのだが、あの「紫の薔薇の人」がたまんなく好きなのである。ああ恥ずかしい。いったいそれはなぜ、なぜ?とうに少女漫画を卒業したはずの私がなんであんなクサい男によろめいてしまうの?
わからない。理性ではなく、私の深層心理が「紫の薔薇の人」に愛しさを感じてしまうのである。思うに、私の自我はいまだに、私の才能に惚れ抜いて、私の才能のために隠れて涙し、私の才能に心血注いでくれる男から愛されたい・・・・・・という、奇妙な願望を隠し持っていたらしい。つまり、私の才能は、その成立のためにこのごに及んで「男」を必要としているのである。なんということだ~!がく然である。
私は今だに待っている。私の才能を理解し、そしてそのために命すら捧げてくれる男を。つまり「紫の薔薇の人」のような男に愛されない限り、私は自分の才能に納得できないのである。なんでなんだ~、なんでいつまでたっても男が必要なんだあ。
いい年して私は自分に呆れる。紫の薔薇の人だと?バカじゃない?いるわきゃねーだろうがあんな男。しかし、アイ、ウォント、パープルローズ!もしかしたら女とはいつも自分を発見してくれる男を求めているのだろうか?それともこんなんって私だけなの?人の心はよく見えるが、自分の心は闇である。
私はなぜ「紫の薔薇の人」が好きなのだろうか。誰か分析してください。
しかし、わたくしはよくまりりんたんに「『紫の薔薇の人』が大好きのなの。ねえ、どこかに速水さんみたいな、お金持ちで、孤児で、存在が痛々しさを感じさせるような人はいないのかしら。『紫の薔薇の人』でなかっら、『キャンディキャンディ』のテリーでもいいや。ねえ、きゅうちゃん。どこかに速水さんやテリーみたいな、見ていると心臓が苦しくなるような感じの痛々しい人っていうのがいたらいいのにな、と思うのだけど」と飲み会の時に言われ続けているので、田口ランディさんが「紫の薔薇の人」が大好きなのだ、と書いていてもそんなに違和感はないのかもしれない。
わたくしはまりりんたんに上の段落で書いたようなことを言われると、「土方歳三だけは実際に存在した人物なのですが、速水さんとテリーは2次元の紙の上にしか存在しません。あれは、美内すずえと水木杏子の理想の男性を、紙の上にインクで書きつけたものなのです」と返答してよくむっとされてしまうのですが、よくよく考えてみれば、「ガラスの仮面」が連載開始から今日に至るまでずっと読まれつづけていて、「紫の薔薇の人」がたまらなく好きだという人も何人かいて、一方で速水さんみたいなタイプの男性が苦手だという話はいままであまり聞いたことがない。ということは、「紫の薔薇の人」というのは単に美内すずえの理想の男性を描いたものではなくて、世間一般の女子の理想を描いたものであるのだろう、と言えるのかもしれない。
お金持ちで、顔が美しくて、孤児でそれまでの人生でいろいろと苦労しているが故に人間も出来ていて、そしで自分の才能に惚れ抜いて陰ながら応援し、心血を注いでくれるような男性......。そんな人は2次元の紙の上にだけ存在していて、現実にはいるわけないよなあ。と思ってしまう。
しかし、そういう男の人に出会って恋をして、自分の人生を支えてもらいたいのだという気持ちというのは、やはりよく分かる。どんなに女性が強くなったのだとはいっても、そういう男性の肩にちょっとだけ寄りかかりたく瞬間、というのはあるのだと思う。
1月27日
よくブログ上や雑誌などで若者の就職についてや「ニート」について論じられている時に、「人間力」という言葉が登場する。
わたくしはその「人間力」という言葉を耳にするたびに、エーリッヒ・フロムの書いた社会心理学の古典中の古典「自由からの逃走」の以下の一説を思い出してしまう。
経済的な関係ばかりでなく、人間的な関係もまた、この疎外された性格をおびている。それは人間的存在の関係ではなく、物と物との関係である。しかしこの手段と疎外の精神のもっとも重要な、もっとも荒廃した例は、おそらく人間の自分自身にたいする関係であろう。人間はたんに商品を売るばかりではなく、自分自身をも売り、自分自身をあたかも商品のように感じている。筋肉労働者はその肉体のエネルギーを売り、商人や医者やサラリーマンはその「人格」を売っている。かれらは、その生産物や、その奉仕を売るためには、一つの「人格」をもっていなければならない。この人格はひとに気にいるものでなければならない。しかしそれ以外にも、その人間は多くの要求に応じなければならない。かれはその特殊な地位が要求するエネルギーや創意や、その他いろいろのものをもっていなければならない。商品と同じように、これらの人間の性質の価値をきめるものは、いや、まさに人間存在そのものをきめるものは、市場である。もしもある人間のもっている性質が役に立たなければ、その人間は無価値である。ちょうど、売れない商品が、たとえ使用価値はあっても、なんの価値もないのと同じである。このようにして、自信とか「自我の感情」とかは、たんに他人の自分にたいする考えをさしているのにすぎない。それは市場における人気や成功とは無関係に、自己の価値を確信している自我ではない。もし他人から求められる人間であれば、その人間はひとかどのものであり、もし人気がなければ、かれは無に等しい。自己評価が「人格」の成功に依存しているということが、近代人にとって人気が恐るべき重要さをもってくる理由である。ある実際的なことがらで、うまくいくかどうかということばかりでなく、自尊心を保つことができるかどうか、劣等感の深淵に陥るかどうかということも、すべて人気にかかっている。
翻訳された文章の日本語にはかなり難があるけれども、ここには現在「人間力」というあいまいな言葉で表現されているものの実態がはっきりと書かれている。
「人間力」とはその人物が実際に人間的に成熟しているかどうか、ということを意味しているのではなく、就職市場において高く評価される人格を有しているか、もっと端的に言えば、人事採用権を持つおっさん世代の人間に好かれ、高く評価される人格を有しているか、ということを意味している。
このように実際の意味が隠蔽されたまま「社会人にとって人間力は大事だ」「人間力をもっと成長させるような教育が必要だ」というような類の議論が成されるのはどうなのだろうか、とわたくしなどは思ってしまうのですが。。。