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東浩紀問題を考える

1月9日

連休の3日間は、寒すぎて結局ほとんど何も出来ないまま終わってしまったかも。
冬になってから、お風呂のお湯が非常にぬるいお湯しかでない状態が続いていて、長時間お風呂に入っていたら心底身体が冷えてしまっていたけれども、今日はまともに熱いお湯が出たので、1時間ほどお湯に浸かり老廃物をすっきり落とすことにした。
それから、こたつに入ってからきな粉もちなどを食べているとものすごく幸せな気分になってきてそのままこたつから出られなくなってしまった。
このままではいけないので、今から新宿にでも出かけてこよう。。。

1月8日

前回のエントリーで「今年以降に起こりそうな事」をいろいろ書いてみたりしたのですが、東浩紀氏と北田暁大氏の主催するトークセッションを見に行ったりしたときに思ったことを書いてなかったのでその分を追加して書いておくことにします。

3、「自分を取り巻くシステムに潰されないように生き延びるということ。」

昨年の東浩紀氏の主催するトークセッションを見に行ったりした時の感想は、一言で表すと「東浩紀がうざい」ということになります。でも、東浩紀氏をうざいと思ってしまった理由についてはいろいろと重大な事が含まれていると思われるので、それについて書いていこうと思います。
東浩紀氏をうざいと思った理由は、斎藤環氏が「東さんはどういう目的で言論活動を行っていて、社会がどのような状態になるのが理想だと思っているのですか???」というような趣旨の質問を投げたのに対して、「僕は、『自分の中にどのような欲望があって、それに基づいて言論活動や批評を行っているのか???』という質問に答えることができない。何故なら、僕は学問的トレーニングを受ける過程で自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことが禁忌であると教え込まれてしまっているからだ」というような内容の回答をして、その後斎藤環氏が何度か同じような趣旨の質問を繰り返したけれども、東浩紀氏は決して「自分は○○ということを目的として言論活動を行っている」とは答えず、トークセッションの中で話題になっていた「ニートや引きこもり」はどうすべきなのか、という件に対しても明確に「こうすべきだ」とは断言しなかった。ということに集約されます。

この辺りの議論を聞いていてイライラしてきたオーディエンスは少なくなかったように思われるのですが、わたくしは学問的トレーニングをちょこっと受けたので、何故東氏が「自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことは禁忌だ」というような内容の事を言ったのかというのは何となく推測できるのです。
「自分は○○ということを目的として研究活動・言論活動を行っている」ということを断言してしまうと、そこが自分自身の議論のセキュリティ・ホールとなってしまい、意図的にその部分を突かれて他の人に論破されてしまった場合に、自分の精神に取り返しのつかないダメージを受けてしまうからです。
しかし、現在大学で行われている文系の学問的トレーニングは「議論に勝つ」ということが重要視されていて、他人に論破された言説はどこかに欠陥があったものだ。とすることが主流になっているので、自分自身の欲望・自分自身の実存が自分の論説とどのように関わっているか・自分自身は何に動機付けられて言論を行っているのか、ということは議論に勝つためには徹底的に隠さなければならない。東氏を始め、このような環境で過ごしてきた人々が「自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことは禁忌」と思わされていることは仕方のないことなのかもしれません。
ですが一方で「ニートや引きこもり」のような実際の問題に直面した場合に、そのような価値観で言論活動や批評を行ったとしても実効性のある「響く言葉」として一般の人々には届かないのではないかと思ってしまったりするのです。

このトークセッションの前半で「批評というものは行き詰まっているのだ」という共通の認識には到達したのですが、では何故批評というものは行き詰まってしまったのか???ということを考えると、文系の学問的トレーニングを受けていく過程で、他者を圧倒する知識や議論に勝つ技術は身についたけれどそれと引き換えとして実効性のある「響く言葉」で語ることができなくなってしまった。そして、このような状態は上の世代が行っている"文系の学問的トレーニング"というもので、事実上言論において大切なある部分がスポイルされてしまうシステムになってしまっているのだ。ということを東浩紀氏の振る舞いを見ていると思わざるを得ないのでした。
しかし、このような現象は東浩紀氏が自分自身の欲望を明確に口に出すことができないという事だけに発生していることではなく、「ニート」の問題にも共通している部分があるのです。
「ニート」の急激な増加は、日本の長期的な不況と世界的な雇用の流動化(正社員が減少し、アルバイトや派遣社員が増加しているのは日本経済が長期低迷しているから、というだけではなく欧米でも同じような事が起こっているのです)という社会の変化が一番の要因であり、多くの父親が会社員として働くことになった結果、子供達が社会人としての基本原則やルールを父親から伝えられることなく就職する年齢を迎えてしまい、その結果適切に社会人になるための門を叩くことがということが出来なくなってしまっている。ということも要因として存在し、その次くらいに本人の資質や性格が関係してくるとわたくしなどは勝手に考えていたりするのですが、このような大きな枠組みによって「ニート」の状態にあることを余儀なくされているのだということをどれだけのニートが自覚しているだろうか、と思ってしまうのです。
努力して職を見つける。ということにしても自分を取り巻く状況がこのようになっているということを踏まえて上手に動かないと、自分を取り巻くシステムにそのまま押し潰される。ということにも成りかねないのです。

はっきりと書いてしまうと「現代の世の中は若者が若者のまま、成熟して上の世代に引導を渡したりすることなくゲームや買い物などにうつつを抜かしてくれればいい」という強力な圧力が掛けられていて、上の世代から好かれて社会に迎え入れられるのは「おじさん世代から見て理想的な属性を持ち、おじさんの作った社会で何も問題を起こすことなく振舞うことのできる、おじさん世代から見ての『理想の若者』を完璧に演じることのできる人間」だけなのでしょう。
しかし、このような状況下でも上手に何とか生き延び、実効性のある「響く言葉」を語り、目の前の問題を解決するためにあれこれ議論するだけでなく動くことが求められている。というのが現在の団塊ジュニア世代以下の人間には必要なのだ、と思うのです。上手に何とか生き延びること。実効性のある「響く言葉」を語ること。あれこれ議論するだけでなく動くことは私たちにとって得意な事ではありません。それでも、閉塞した状況から一歩前に進むには、上手に何とか生き延びて、実効性のある「響く言葉」を語り、あれこれ議論するだけでなく実際に主体性を持って行動することが必要となってくるのです。


1月7日

今年初めてのお稽古。
わたくしはやはり、合気道が好きなのだなあ。ということを改めて実感する。
技をかけ、受けを取っているときに「何かとつながっているのだ」ということを実感する。
それは「社会の外側にある大きな世界とつながっている」という感覚なのだろう、と思う。
合気道をきちんとお稽古する前は、自分自身の存在があまりにも小さくて孤独なので何かに押し潰されそうな思いになることが多かった。誰かに依存しなくては自分の精神を支えることも出来なかったと思う。
けれど今はもう、「普通に自分で自分を支えて生きる」ということが出来るようになった。


1月4日

仕事始めだったのですが、いきなり残業。
でも、仕方がないので溜まっているお仕事をこなす。
社会人になってから休みが少ないのがちょっと悲しい。

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2006年01月10日 10:13に投稿されたエントリーのページです。

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