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2006年01月 アーカイブ

2006年01月05日

新年のご挨拶

1月1日

新年あけましておめでとうございます。
先月の後半の2週間は、田口ランディさんの公開講座に行ったりだとか、東浩紀氏の主催するトークセッションを見に行ったりだとか、「あいのり」に出てた人のお店に行ってきたりだとか、けっこういろいろなことがありました。
でも、新しい年になったということで、家の中を出来る限りきれいにして、小さいけれどしめ縄も玄関先に飾って、松のとげとげした枝も飾って、木剣で四方を軽く切ったりして、軽く邪悪なものを払ってから、昨年のことは昨年のことでエントリーに書ききれなかった分は仕方がないということで、新年のエントリーでも書くことにします。

新年エントリーは2005年度から勝手に「今年以降に起こりそうな事」を思うがまま書き付けるということにしているのでどうか皆様よろしくお願いします。

1、「沈黙の螺旋からロングテールへ」

ブログというものが人々の間に普及して約2年くらいの月日が経過して、大きな組織にも所属しない無名の個人が情報を発信することが可能になったということが徐々にリアルな社会にも影響を及ぼしていると思われるのです。
(このあたりの事はいろいろと声を大にして言いたいこともあるのですが、言ったら大変になることも少しあるので今回は言わないことにして先に進みます。)
このことと直接はリンクしていないはずなのですが、フジテレビ・TBSの買収騒動やNHK・朝日新聞の不祥事連発に代表されるように、既存のマスコミの組織が一部腐りかけていることが一般人の目にも明らかになってきて、マスコミが本来果たすべき社会の木鐸としての機能が果たされなくなっている。というより、「どうもマスコミは社会の木鐸としての機能を果たしていないらしいぞ」ということが人々の間で共有されつつあるということが、実はネットメディアの発達よりもマスメディアに対して重大な打撃を与えているのではないかとわたくしなどは思うのですが、マスメディアの側にいる人はそんな風に考えている人は少ないような印象を受けたりします。

わたくしがまだ大学に籍を置いていて、うっかり社会心理学などを勉強していた時には「沈黙の螺旋」理論ということが言われていて、あえてgoogleで検索したりすると、
"個々人は、マスメディアや周囲の人間の声を通じて意見の分布や世論の動きを敏感に意識しており、さらに何よりも自分の意見が孤立化することへの恐怖感をもっている。すると、少数派は孤立を恐れて発言を控えるようになり、一方多数派意見は積極的に発言するという螺旋的ループが発生するために、全体的な意見の分布は実際よりも多数派に偏っているように見えてしまうというもの"(isedキーワード「沈黙の螺旋」より)
などと定義されたりしています。世の中にまだネットがなくマスメディアが力を持っていた時代には「メディアの言ったこと」は強制力を持っていて、少数派の意見の持ち主およびマスメディアの喧伝する意見に反対するものはただ口ごもるを得なかった、その結果メディアは人々の意見に大きな影響を与えるように見えたということです。

しかし「2ちゃんねる」を始めとする巨大掲示板群やブログ、ソーシャルネットワークサービスが普及するにつれて、少数派の意見の持ち主やマスメディアの意見に疑問を持つ人々が新聞の記事やTVの放送などを見てネットに「○○はこんなことを言っていたけれども、何か違わないか???」と書き込む、ということが可能になってくると、どうもマスメディアが個々の人々の意見を沈黙させて人々の意見に大きな影響を与える力というのが弱まってしまっているようだ、きちんとデータを取っているわけではないから脳内の仮説にしか過ぎないけれど。ということが言えるようになってきたのではないだろうか、と思うわけです。

去年ネットに詳しい人々の間で流行した言葉に「ロングテール」というものがあって、わたくしが理解している範囲で説明すると"従来本とか音楽用CDというものは、上位20%の売上げを上げているものが80%の利益をもたらしており、残りの売れない80%の領域のものは速やかに店の棚から撤去したり返品したりするのが常であったが、Amazonのようなネット販売をするところでは店の棚のスペースに制限がないので、売れない80%の領域の商品からもけっこう無視できないくらいの利益をあげることが出来る"みたいな感じになります。
それで、「ロングテール」とマスメディアの影響と何が関係あるのか???と、ほとんど全員の人が思われるかもしれないのですが、情報の流れがマスメディア+ネットという状態になることによって、従来は売れない80%の領域に入ってしまった本やCDのように非常に肩身の狭い存在であった少数派の意見の持ち主やマスメディアに反対の意見の持ち主というのが、インターネット上で意見の交換を行うことによって「確かに僕たちは全体でみると数が少ないかもしれないけれど、でもこんなに大勢の仲間がいるもん」とコロニーを結成して内部で結束して開き直ってしまう、そしてマスメディアで流される意見とオルタナティブに、マスメディアで流される意見と異なる意見も並列してネットメディア上で流されることになる。その結果、かつては一定の権威が付されていたニュースメディアが「2chの実況版で突っ込みをいれながら、エンターテイメントとして筑紫哲也の『News23』を見るのだ」というような捉え方をされるようになり、相対的にマスメディアが力を失ってきているのだ。というのが現状ではないかと思われるのです。

ということを踏まえて、今後メディアというのはどんな風に変化していくのだろうか???ということを少しだけ考えてみると、マスメディアが何もしなくとも徐々に力を失っていく状況で、それに加えて「何かものすごい不祥事が起きてしまった」「何か某企業の都合で本来報道されて然るべき事が報道されていない」「こんな文章を社説として載せるなんてもはやメディアの情報は接触するに値しない」と思われるようであればさらに加速度的に力を失っていって、現在起こっていることをわかっている人がきちんと改革を行ったメディアは今後も生き残るだろうけれども、そうでなければ従来マスメディアが担ってきた機能はネットメディアによってある程度暫定的に代替されるのだろう、と思うのです。
あと蛇足なのですが、「自分の意見と同じ人間だけで固まる。自分の摂取したい情報だけ摂取する」というコロニーの住人にいかにコロニーの外部の情報を伝えるか、ということも今後のメディアには必要となってくるのだろうと思われるのでした。そのあたりを踏まえて新しいメディアというのは誕生し、発展していくことなのでしょう、と思うのでした。


2、「ぼーっとしても安心して生活できたムラ社会から信頼できるかどうか峻別する必要があるモヒカン型社会へ」

人々の生活の基本となる「衣・食・住」のうち、「食」については米国産牛のBSE問題や寄生虫入りキムチの問題、「住」については年末のマンション・ホテルの耐震強度の偽造問題と、一般の消費者の信頼を根底から覆して地獄に突き落とすような出来事が発生したのも2005年の特徴と言えるのではないか、と思います。
このあたりの問題は多くのブロガーの皆様によって書かれた事ではあるのですが、リスクの高い食品・内容の割には通常の値段よりはやけに安い物件は避けて通るべきだ、というのは消費者の知恵として当然あるべきなのですが、だからといって「通常からいって考えられないほど安い物件を疑いもせず購入してしまったのだから、マンション購入者の自己責任だ」という言説はどこか馴染まないものがあるのです。
株の世界では、「例え証券会社の人の口車に乗せられたからといって、株式投資をして全財産を失ってもそれは所詮自己責任だ」という考え方が常識らしいのですが(それで個人投資家をカモにするためにいろいろと仕掛けがあるのだ、ということを上司のおじさんから聞いてしまいました)、そのような「騙されて損をした方が悪い。騙された方の自己責任だ」という言説は株の世界や一部の商売の世界など限られた範囲での常識であって、一般人に関係があるような「衣・食・住」にまでそのような原則が適応されるというのは少なくとも従来の日本にはなかったことであり、このようなリスクから消費者は守られるべきだ、とやはり思ってしまうわけです。

しかし今の日本の現状を見ていると、「企業の側が真っ当に商品を作って、それを消費者に売る」のではなく、「企業の側が消費者の無知に付け込んで、金銭を詐取する」という行為に手を染めることによって利益を得ようとする企業が現れてしまうのを完全に止めることは不可能だろう、という結論になってしまうのです。
それが人々の倫理の低下に由来するものなのか、消費者があまりにもナイーブに過ぎることに由来するのかは、分かりません。
かつて日本人の大半が農業か自営業に従事していて、多くの人が「ムラ社会」に属していて、地域共同体が大きな力を持っていたときはその相互監視機能によって「他人を騙す」という行為が厳しく咎められていたのに対し、多くの人々が都市に生活し、地域共同体がほとんど力を失ってしまい、スーパーの店員や不動産業者などのある一定の「役割」を持った人間と個別に向かい合う必要性が生じた場合には、それらの「役割」を持った人間が相手の無知に付け込んで騙す可能性もあるのだ、ということを頭の片隅に入れておく必要性が出てきたということです。
ということを言っても、わたくしを初め多くの人々が都市部に住んで、スーパーで売られている食品に何かとんでもない物が混入されている可能性を考えることもなく、地下鉄の運転手が突然「○○ちゃんが好きだあああ」と叫んでそのまま時速120kmで脱線して何かに激突するという可能性を考えることもなく、普通に都市生活を送っている訳で、その理由は商品のブランドに対して信頼していたり、「道で通行人にいきなり殴りかかって金品を奪うとしたら、警察に捕まる」といった法律の抑止力を信頼していたり、「普通、地下鉄の運転手が突然『○○ちゃんが好きだあああ』と叫んでそのまま時速120kmで脱線して何かに激突することは有り得ない」というような感じに見知らぬ他者が合理的に行動することを信頼していたりすることを前提としている訳です。

相手の無知に付け込んで騙す人々、というのはこんな感じに生活していく上において信頼すべき点において相手の信頼を裏切って得をすることを試みる訳なのですが、このように無知だったりぼーっとしていたりする人々をモヒカン族が獲物を狩るがごとくに騙して歩く個人や企業は、残念な事ではあるのですがおそらく今後増えていくことが予想されるのです。
このような状況である以上、何か騙されて酷い目にあった挙句「自己責任だよバーカ」と言われないためには、一般の人々にも相手を信頼できる人間か信頼できない人間かを第一印象で判別する能力・嘘を嘘と見抜く能力が今後必要不可欠になってくると思われるのです。書いていて「はああ」と溜め息をつきたくなるような現状ですが。

それと最後に1つだけ付け加えると、信頼できる人間か信頼できない人間かを第一印象で判別する能力・嘘を嘘と見抜く能力というのは脳内であれこれ考えて判断を下すのではなく身体の感覚や直感によって感じるものではないか、と思うのです。
「あるある大辞典」のサイトで、「騙されにくい人というのは、一日の歩く量が多い人だった」というような実験結果をちらっと見たことがあるのですが、実際の学術論文でこのような研究が行われているかどうかを一介の会社員であるわたくしは知りません。
しかし、相手に関する状態が非常に少ない場合に信頼できる人間か信頼できない人間かを判別しなければいけない時には、体感を研ぎ澄ますのだ。ということを今まで10年以上武道をやってきた経験がわたくしに教えてくれた、と思うのです。

......脳内にあった考えを一気に書き出していったら、いつのまにか日付もかわって分量も10キロバイトを超えてしまいました。
今年は身辺雑記よりも、ネットの肥やしになるようなある程度ちゃんとした文章を書いていこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。

2006年01月10日

東浩紀問題を考える

1月9日

連休の3日間は、寒すぎて結局ほとんど何も出来ないまま終わってしまったかも。
冬になってから、お風呂のお湯が非常にぬるいお湯しかでない状態が続いていて、長時間お風呂に入っていたら心底身体が冷えてしまっていたけれども、今日はまともに熱いお湯が出たので、1時間ほどお湯に浸かり老廃物をすっきり落とすことにした。
それから、こたつに入ってからきな粉もちなどを食べているとものすごく幸せな気分になってきてそのままこたつから出られなくなってしまった。
このままではいけないので、今から新宿にでも出かけてこよう。。。

1月8日

前回のエントリーで「今年以降に起こりそうな事」をいろいろ書いてみたりしたのですが、東浩紀氏と北田暁大氏の主催するトークセッションを見に行ったりしたときに思ったことを書いてなかったのでその分を追加して書いておくことにします。

3、「自分を取り巻くシステムに潰されないように生き延びるということ。」

昨年の東浩紀氏の主催するトークセッションを見に行ったりした時の感想は、一言で表すと「東浩紀がうざい」ということになります。でも、東浩紀氏をうざいと思ってしまった理由についてはいろいろと重大な事が含まれていると思われるので、それについて書いていこうと思います。
東浩紀氏をうざいと思った理由は、斎藤環氏が「東さんはどういう目的で言論活動を行っていて、社会がどのような状態になるのが理想だと思っているのですか???」というような趣旨の質問を投げたのに対して、「僕は、『自分の中にどのような欲望があって、それに基づいて言論活動や批評を行っているのか???』という質問に答えることができない。何故なら、僕は学問的トレーニングを受ける過程で自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことが禁忌であると教え込まれてしまっているからだ」というような内容の回答をして、その後斎藤環氏が何度か同じような趣旨の質問を繰り返したけれども、東浩紀氏は決して「自分は○○ということを目的として言論活動を行っている」とは答えず、トークセッションの中で話題になっていた「ニートや引きこもり」はどうすべきなのか、という件に対しても明確に「こうすべきだ」とは断言しなかった。ということに集約されます。

この辺りの議論を聞いていてイライラしてきたオーディエンスは少なくなかったように思われるのですが、わたくしは学問的トレーニングをちょこっと受けたので、何故東氏が「自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことは禁忌だ」というような内容の事を言ったのかというのは何となく推測できるのです。
「自分は○○ということを目的として研究活動・言論活動を行っている」ということを断言してしまうと、そこが自分自身の議論のセキュリティ・ホールとなってしまい、意図的にその部分を突かれて他の人に論破されてしまった場合に、自分の精神に取り返しのつかないダメージを受けてしまうからです。
しかし、現在大学で行われている文系の学問的トレーニングは「議論に勝つ」ということが重要視されていて、他人に論破された言説はどこかに欠陥があったものだ。とすることが主流になっているので、自分自身の欲望・自分自身の実存が自分の論説とどのように関わっているか・自分自身は何に動機付けられて言論を行っているのか、ということは議論に勝つためには徹底的に隠さなければならない。東氏を始め、このような環境で過ごしてきた人々が「自分自身の欲望が何か、自分自身の言論や批評の元になっているものは何か、というようなことを議論の中で表に出すことは禁忌」と思わされていることは仕方のないことなのかもしれません。
ですが一方で「ニートや引きこもり」のような実際の問題に直面した場合に、そのような価値観で言論活動や批評を行ったとしても実効性のある「響く言葉」として一般の人々には届かないのではないかと思ってしまったりするのです。

このトークセッションの前半で「批評というものは行き詰まっているのだ」という共通の認識には到達したのですが、では何故批評というものは行き詰まってしまったのか???ということを考えると、文系の学問的トレーニングを受けていく過程で、他者を圧倒する知識や議論に勝つ技術は身についたけれどそれと引き換えとして実効性のある「響く言葉」で語ることができなくなってしまった。そして、このような状態は上の世代が行っている"文系の学問的トレーニング"というもので、事実上言論において大切なある部分がスポイルされてしまうシステムになってしまっているのだ。ということを東浩紀氏の振る舞いを見ていると思わざるを得ないのでした。
しかし、このような現象は東浩紀氏が自分自身の欲望を明確に口に出すことができないという事だけに発生していることではなく、「ニート」の問題にも共通している部分があるのです。
「ニート」の急激な増加は、日本の長期的な不況と世界的な雇用の流動化(正社員が減少し、アルバイトや派遣社員が増加しているのは日本経済が長期低迷しているから、というだけではなく欧米でも同じような事が起こっているのです)という社会の変化が一番の要因であり、多くの父親が会社員として働くことになった結果、子供達が社会人としての基本原則やルールを父親から伝えられることなく就職する年齢を迎えてしまい、その結果適切に社会人になるための門を叩くことがということが出来なくなってしまっている。ということも要因として存在し、その次くらいに本人の資質や性格が関係してくるとわたくしなどは勝手に考えていたりするのですが、このような大きな枠組みによって「ニート」の状態にあることを余儀なくされているのだということをどれだけのニートが自覚しているだろうか、と思ってしまうのです。
努力して職を見つける。ということにしても自分を取り巻く状況がこのようになっているということを踏まえて上手に動かないと、自分を取り巻くシステムにそのまま押し潰される。ということにも成りかねないのです。

はっきりと書いてしまうと「現代の世の中は若者が若者のまま、成熟して上の世代に引導を渡したりすることなくゲームや買い物などにうつつを抜かしてくれればいい」という強力な圧力が掛けられていて、上の世代から好かれて社会に迎え入れられるのは「おじさん世代から見て理想的な属性を持ち、おじさんの作った社会で何も問題を起こすことなく振舞うことのできる、おじさん世代から見ての『理想の若者』を完璧に演じることのできる人間」だけなのでしょう。
しかし、このような状況下でも上手に何とか生き延び、実効性のある「響く言葉」を語り、目の前の問題を解決するためにあれこれ議論するだけでなく動くことが求められている。というのが現在の団塊ジュニア世代以下の人間には必要なのだ、と思うのです。上手に何とか生き延びること。実効性のある「響く言葉」を語ること。あれこれ議論するだけでなく動くことは私たちにとって得意な事ではありません。それでも、閉塞した状況から一歩前に進むには、上手に何とか生き延びて、実効性のある「響く言葉」を語り、あれこれ議論するだけでなく実際に主体性を持って行動することが必要となってくるのです。


1月7日

今年初めてのお稽古。
わたくしはやはり、合気道が好きなのだなあ。ということを改めて実感する。
技をかけ、受けを取っているときに「何かとつながっているのだ」ということを実感する。
それは「社会の外側にある大きな世界とつながっている」という感覚なのだろう、と思う。
合気道をきちんとお稽古する前は、自分自身の存在があまりにも小さくて孤独なので何かに押し潰されそうな思いになることが多かった。誰かに依存しなくては自分の精神を支えることも出来なかったと思う。
けれど今はもう、「普通に自分で自分を支えて生きる」ということが出来るようになった。


1月4日

仕事始めだったのですが、いきなり残業。
でも、仕方がないので溜まっているお仕事をこなす。
社会人になってから休みが少ないのがちょっと悲しい。

2006年01月27日

ライブドア事件について考える

1月25日

梅田望夫さんという著名なブロガーさんが、堀江氏について


若い人たちが、ビジネスの世界で何かやってみたいと夢を持つときに(それは起業した会社を公開企業にするという大きな夢であっても)、堀江氏のような「スケールの大きさ」は、決して必要としないということである。よくも悪くも、「普通の人」は、あそこまでは絶対にいけないものだ。
(中略)
堀江氏の軌跡を見つめながら、一つだけ確実に言えると思うことは、「普通のスケールの大きさの人」であれば引き返したであろうポイントが、彼が歩んできた道のりの途中に、いくつもいくつも、いや無数にあったろう、ということである。
そして、そういうところで引き返すような「普通の人」にとってだって、ビジネスの世界というのは、起業家になるということを含めて言っても、十分魅力的な場で、「普通の人」が普通にやれる範囲でごく普通にやっていって成功できる可能性を持つ「普通の世界」だということである。
なぜかそういうことを今書いておきたいと思った。なぜかはよくわからないのだが。

ということをエントリーに書いていた。
この文章の内容については、非常に強く納得する部分がある。
梅田さんは堀江氏のことについて「スケールの大きな人」という表現の仕方をしたけれども、もう少し突っ込んだ書き方をするのであれば「一線を越えてしまった人」ではないかと思う。
普通の感覚を持っている人間ならば、それを踏み越えるのにためらいを感じるある一線がある。
そして、「どうもこれ以上先に進んではやばいかもしれない」と感じて引き返す。
しかし、堀江氏はその一線を踏み越えていってしまったのだと思われる。

どこでその一線を超えてしまったのだろうか?
わたくしは、今回の騒動の中で亡くなった野口英昭氏が主導的な役割を果たし、そして当時在籍していた社員の3分の1が退社するきっかけとなった旧オン・ザ・エッヂの株式上場の辺りではないかと何となく思っている。。。

1月23日

堀江貴文容疑者逮捕。
ライブドアに強制捜査が入ってからちょうど一週間である。
あまりにも多くの情報が有り過ぎるので混乱しているという状態は未だに続いているけれども、この件に関してや堀江貴文という人物については、いずれまとまった文章を書きたいと思う。
物書きになりたいという希望ももちろんあるけれども、まず物を書き、思考する時間を多めに取ることのできる仕事がしたいと思う。
今の状況もけっこう恵まれてはいるけれども、ちゃんと毎日物を書き思考することのできる時間がとれないものか、と思う。


1月21日

昨日終電ギリギリまで仕事をしていたので、朝起きるのが非常に辛い。
目が覚めても、何となく布団の外に出る気がしなくて極限までだらだらしている。

ようやく布団から這い出て窓を開けて外を見ると、普段見慣れた景色が真っ白な雪で覆われている。
上京してから10年が経過したけれども、東京にここまで雪が積もった景色を見たことが無い。
今私たちが生きている社会は汚濁に塗れ、人間の肉体に例えるならば身体のあちこちにガン細胞が転移し、病状が日に日に悪化している状態である事実をきちんと把握している人間は多くはない。
しかし、ちっぽけな人間の存在では日本の社会がほんの10年の間に急速に腐敗し、何者かに息の根を止められようとしている状態をただただ指をくわえてまま見守っていることしかできないとしても、天は人の子の住む世界が浄化し、再生を始める事を強く望んでいることだろう。
この真っ白な雪景色と止む気配の無い降り続ける雪を眺めているとそんな風に思う。

だらだらしていても仕方がない。私はとりあえず昨日片付けることの出来なかった仕事の残りを何とかするために会社に出かけなくては。。。


1月18日

今日も風邪のせいで、著しく思考力と読解力が低下している状態が続いている。
しかし昨日よりは少し状態が良くなったのか、ライブドアショックで株式が激しく売られ、その結果東京証券取引所のシステムが停止してしまったというニュースや、その他いろいろのニュースの2chのスレッドを読んでいくうちに、何がどちらに動いていこうとしているのかという事が何となく把握できるようになった。

今回の騒動で個人的にいろいろと驚かされたことは、ライブドアに強制捜査が入ったそれ自体でも、ライブドアの前身の旧オン・ザ・エッヂの株式上場の際に大きな働きをした元幹部が沖縄のカプセルホテルで不幸な自殺を遂げたことでも、ライブドアが闇社会とつながっているらしい。ということでもなく、

・ライブドアの株主は、ライブドアホルダーを略してアホルダーと呼ばれていた。もっとはっきり言ってしまえば「あんな会社の株持っているほうがアホ」というのがネット上の見解のようにわたくしには思われた。
ライブドアの株を持っている人間というは、一日の株の上下の変動を見て株を売り買いするデイトレーダーと呼ばれる人種か、「既存勢力に一人で立ち向かう」という堀江氏の行動そのものを支持しているいわゆる「信者」とよばれる人々が大半を占めているのではないかと思われた。
しかしいろいろネットを見ていると、1000万円以上のとんでもない損失を出してしまった人も結構いるらしく、まともに買っている人も多いのだと思った。

・東京証券取引所のシステムが停止した件については、「株価の暴落を止めるためにわざと少なめに『約定件数の上限は450万件』と言っていたが、東京証券取引所のシステムの処理可能な件数はもっと多い」という書き込みもあったけれども、上司のおじさんの話を聞いたところ、耐用年数を既に超えてしまったシステムをだましだまし動かしているので、約定件数の上限は450万件というのは本当で、それを超えてしまうと日次更新のバッチ処理?なるものの処理が一晩で終わらなくなってしまうようだ。

・ライブドアの株というのが株式分割を繰り返して膨大な株数が発行されていることはよく知られているけれども、発行された株式の総数は10億株を上回り、その数は現在東証1部で発行されている株式の総数の3分の1になる。しかも通常株価が700円前後の株式は1000株単位くらいで売買されるのが通例であるが、ライブドアの株式は1株単位で売買可能であった。このようなライブドア株の存在が東京証券取引所の耐用年数を既に超えてしまったシステムに不必要に大きな負荷をかけてしまっていたのだ、ということは容易に推測される。

という3つの事についてだった。

いろいろなネット上の情報を見ていくうちに、急成長を続け多大な利益を出しているという綺麗にお化粧された決算報告書やマスメディアの「既存の旧勢力に対抗する改革者」というイメージによって人々をライブドアの株式を買うように扇動し、その株式売却益によって弥生会計やターボリナックスや近鉄の球団やニッポン放送やフジテレビなどの既存の企業を買収しようとするビジネスモデルというのが確立しており、ポータルサイトやブログというのはIT企業という体面を保つだけに運営していたのだということが徐々に理解できるようになった。
ちょっと前に「株式上場ということを行うことによって創業者には億単位の利益が懐に入る」ということを知って、えらいことびっくりしたのと同時にそのあたりの知識に疎かった自分を少し恥じた。
それまで、なぜ人々が「ビットバレー」と騒いているのかよく理解できなかったし、大学時代に少しだけアルバイトしたところの社員の人が「ネットスケープの会社を作った人のように資産60億を目指します!!!」とえらいことハイテンションで語っている理由もよくわからなかった。
このあたりの経済や会計絡みの知識も生きていく上で踏まえておかないといけないな。と思う反面、適当に投資家にとって見栄えのよい会社を設立して株式上場を行い、億単位の利益を懐に入れることを目的にするのは真っ当な方法ではないな、とも思う。
そこら辺のバランス感覚が微妙に狂っているのが現在の世相であると感じる。


1月17日

先週の土曜日から、風邪のせいで、著しく思考力と読解力が低下している状態が続いている。
週末に日記の文章をある程度書こうと思っていたけれども、1文字も書けていない。
今日は阪神大震災から11年目の日であり、幼女連続殺人を犯した宮崎勤被告の最高裁の判決が出る日であり、そしてこの日に国会でヒューザーの小嶋社長の証人喚問が行われ、さらに昨日の夜から徹夜で六本木ヒルズのライブドア本社と、新宿歌舞伎町のライブドアのメールサーバーが置かれているビルに強制捜査が入っている。

何かとてつもないものが動き出したのだ。ということは理解できるけれども、どちらの方向に動き出そうとしているのか。
堀江貴文という人物は何者だったのだろうか。ライブドアの株主や先の衆議院選挙で彼に投票した人々が信じていたように、閉塞した社会を変革する力を持つ改革者であったのだろうか。
それとも、大きな組織の傀儡として人々の目を引きつけるように動いているだけに過ぎなかったのだろうか。
そうだとしたら彼の背後にある組織は何なのだろうか。
この国を守ろうとして動いているものだろうか。それとも、この国を弱体化させようとして動いているものだろうか。
2chのスレッドを見たりニュースを見たりして、自分なりに何とか状況を把握しようとしたけれども、風邪のせいで著しく思考力と読解力が低下しているので大量の情報を脳に入力しようとするととっても気持ちが悪い。
こんな大変な時に風邪を引いているなんて、自分が情けないと思う。。。

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