新年のご挨拶
1月1日
新年あけましておめでとうございます。
先月の後半の2週間は、田口ランディさんの公開講座に行ったりだとか、東浩紀氏の主催するトークセッションを見に行ったりだとか、「あいのり」に出てた人のお店に行ってきたりだとか、けっこういろいろなことがありました。
でも、新しい年になったということで、家の中を出来る限りきれいにして、小さいけれどしめ縄も玄関先に飾って、松のとげとげした枝も飾って、木剣で四方を軽く切ったりして、軽く邪悪なものを払ってから、昨年のことは昨年のことでエントリーに書ききれなかった分は仕方がないということで、新年のエントリーでも書くことにします。
新年エントリーは2005年度から勝手に「今年以降に起こりそうな事」を思うがまま書き付けるということにしているのでどうか皆様よろしくお願いします。
1、「沈黙の螺旋からロングテールへ」
ブログというものが人々の間に普及して約2年くらいの月日が経過して、大きな組織にも所属しない無名の個人が情報を発信することが可能になったということが徐々にリアルな社会にも影響を及ぼしていると思われるのです。
(このあたりの事はいろいろと声を大にして言いたいこともあるのですが、言ったら大変になることも少しあるので今回は言わないことにして先に進みます。)
このことと直接はリンクしていないはずなのですが、フジテレビ・TBSの買収騒動やNHK・朝日新聞の不祥事連発に代表されるように、既存のマスコミの組織が一部腐りかけていることが一般人の目にも明らかになってきて、マスコミが本来果たすべき社会の木鐸としての機能が果たされなくなっている。というより、「どうもマスコミは社会の木鐸としての機能を果たしていないらしいぞ」ということが人々の間で共有されつつあるということが、実はネットメディアの発達よりもマスメディアに対して重大な打撃を与えているのではないかとわたくしなどは思うのですが、マスメディアの側にいる人はそんな風に考えている人は少ないような印象を受けたりします。
わたくしがまだ大学に籍を置いていて、うっかり社会心理学などを勉強していた時には「沈黙の螺旋」理論ということが言われていて、あえてgoogleで検索したりすると、
"個々人は、マスメディアや周囲の人間の声を通じて意見の分布や世論の動きを敏感に意識しており、さらに何よりも自分の意見が孤立化することへの恐怖感をもっている。すると、少数派は孤立を恐れて発言を控えるようになり、一方多数派意見は積極的に発言するという螺旋的ループが発生するために、全体的な意見の分布は実際よりも多数派に偏っているように見えてしまうというもの"(isedキーワード「沈黙の螺旋」より)
などと定義されたりしています。世の中にまだネットがなくマスメディアが力を持っていた時代には「メディアの言ったこと」は強制力を持っていて、少数派の意見の持ち主およびマスメディアの喧伝する意見に反対するものはただ口ごもるを得なかった、その結果メディアは人々の意見に大きな影響を与えるように見えたということです。
しかし「2ちゃんねる」を始めとする巨大掲示板群やブログ、ソーシャルネットワークサービスが普及するにつれて、少数派の意見の持ち主やマスメディアの意見に疑問を持つ人々が新聞の記事やTVの放送などを見てネットに「○○はこんなことを言っていたけれども、何か違わないか???」と書き込む、ということが可能になってくると、どうもマスメディアが個々の人々の意見を沈黙させて人々の意見に大きな影響を与える力というのが弱まってしまっているようだ、きちんとデータを取っているわけではないから脳内の仮説にしか過ぎないけれど。ということが言えるようになってきたのではないだろうか、と思うわけです。
去年ネットに詳しい人々の間で流行した言葉に「ロングテール」というものがあって、わたくしが理解している範囲で説明すると"従来本とか音楽用CDというものは、上位20%の売上げを上げているものが80%の利益をもたらしており、残りの売れない80%の領域のものは速やかに店の棚から撤去したり返品したりするのが常であったが、Amazonのようなネット販売をするところでは店の棚のスペースに制限がないので、売れない80%の領域の商品からもけっこう無視できないくらいの利益をあげることが出来る"みたいな感じになります。
それで、「ロングテール」とマスメディアの影響と何が関係あるのか???と、ほとんど全員の人が思われるかもしれないのですが、情報の流れがマスメディア+ネットという状態になることによって、従来は売れない80%の領域に入ってしまった本やCDのように非常に肩身の狭い存在であった少数派の意見の持ち主やマスメディアに反対の意見の持ち主というのが、インターネット上で意見の交換を行うことによって「確かに僕たちは全体でみると数が少ないかもしれないけれど、でもこんなに大勢の仲間がいるもん」とコロニーを結成して内部で結束して開き直ってしまう、そしてマスメディアで流される意見とオルタナティブに、マスメディアで流される意見と異なる意見も並列してネットメディア上で流されることになる。その結果、かつては一定の権威が付されていたニュースメディアが「2chの実況版で突っ込みをいれながら、エンターテイメントとして筑紫哲也の『News23』を見るのだ」というような捉え方をされるようになり、相対的にマスメディアが力を失ってきているのだ。というのが現状ではないかと思われるのです。
ということを踏まえて、今後メディアというのはどんな風に変化していくのだろうか???ということを少しだけ考えてみると、マスメディアが何もしなくとも徐々に力を失っていく状況で、それに加えて「何かものすごい不祥事が起きてしまった」「何か某企業の都合で本来報道されて然るべき事が報道されていない」「こんな文章を社説として載せるなんてもはやメディアの情報は接触するに値しない」と思われるようであればさらに加速度的に力を失っていって、現在起こっていることをわかっている人がきちんと改革を行ったメディアは今後も生き残るだろうけれども、そうでなければ従来マスメディアが担ってきた機能はネットメディアによってある程度暫定的に代替されるのだろう、と思うのです。
あと蛇足なのですが、「自分の意見と同じ人間だけで固まる。自分の摂取したい情報だけ摂取する」というコロニーの住人にいかにコロニーの外部の情報を伝えるか、ということも今後のメディアには必要となってくるのだろうと思われるのでした。そのあたりを踏まえて新しいメディアというのは誕生し、発展していくことなのでしょう、と思うのでした。
2、「ぼーっとしても安心して生活できたムラ社会から信頼できるかどうか峻別する必要があるモヒカン型社会へ」
人々の生活の基本となる「衣・食・住」のうち、「食」については米国産牛のBSE問題や寄生虫入りキムチの問題、「住」については年末のマンション・ホテルの耐震強度の偽造問題と、一般の消費者の信頼を根底から覆して地獄に突き落とすような出来事が発生したのも2005年の特徴と言えるのではないか、と思います。
このあたりの問題は多くのブロガーの皆様によって書かれた事ではあるのですが、リスクの高い食品・内容の割には通常の値段よりはやけに安い物件は避けて通るべきだ、というのは消費者の知恵として当然あるべきなのですが、だからといって「通常からいって考えられないほど安い物件を疑いもせず購入してしまったのだから、マンション購入者の自己責任だ」という言説はどこか馴染まないものがあるのです。
株の世界では、「例え証券会社の人の口車に乗せられたからといって、株式投資をして全財産を失ってもそれは所詮自己責任だ」という考え方が常識らしいのですが(それで個人投資家をカモにするためにいろいろと仕掛けがあるのだ、ということを上司のおじさんから聞いてしまいました)、そのような「騙されて損をした方が悪い。騙された方の自己責任だ」という言説は株の世界や一部の商売の世界など限られた範囲での常識であって、一般人に関係があるような「衣・食・住」にまでそのような原則が適応されるというのは少なくとも従来の日本にはなかったことであり、このようなリスクから消費者は守られるべきだ、とやはり思ってしまうわけです。
しかし今の日本の現状を見ていると、「企業の側が真っ当に商品を作って、それを消費者に売る」のではなく、「企業の側が消費者の無知に付け込んで、金銭を詐取する」という行為に手を染めることによって利益を得ようとする企業が現れてしまうのを完全に止めることは不可能だろう、という結論になってしまうのです。
それが人々の倫理の低下に由来するものなのか、消費者があまりにもナイーブに過ぎることに由来するのかは、分かりません。
かつて日本人の大半が農業か自営業に従事していて、多くの人が「ムラ社会」に属していて、地域共同体が大きな力を持っていたときはその相互監視機能によって「他人を騙す」という行為が厳しく咎められていたのに対し、多くの人々が都市に生活し、地域共同体がほとんど力を失ってしまい、スーパーの店員や不動産業者などのある一定の「役割」を持った人間と個別に向かい合う必要性が生じた場合には、それらの「役割」を持った人間が相手の無知に付け込んで騙す可能性もあるのだ、ということを頭の片隅に入れておく必要性が出てきたということです。
ということを言っても、わたくしを初め多くの人々が都市部に住んで、スーパーで売られている食品に何かとんでもない物が混入されている可能性を考えることもなく、地下鉄の運転手が突然「○○ちゃんが好きだあああ」と叫んでそのまま時速120kmで脱線して何かに激突するという可能性を考えることもなく、普通に都市生活を送っている訳で、その理由は商品のブランドに対して信頼していたり、「道で通行人にいきなり殴りかかって金品を奪うとしたら、警察に捕まる」といった法律の抑止力を信頼していたり、「普通、地下鉄の運転手が突然『○○ちゃんが好きだあああ』と叫んでそのまま時速120kmで脱線して何かに激突することは有り得ない」というような感じに見知らぬ他者が合理的に行動することを信頼していたりすることを前提としている訳です。
相手の無知に付け込んで騙す人々、というのはこんな感じに生活していく上において信頼すべき点において相手の信頼を裏切って得をすることを試みる訳なのですが、このように無知だったりぼーっとしていたりする人々をモヒカン族が獲物を狩るがごとくに騙して歩く個人や企業は、残念な事ではあるのですがおそらく今後増えていくことが予想されるのです。
このような状況である以上、何か騙されて酷い目にあった挙句「自己責任だよバーカ」と言われないためには、一般の人々にも相手を信頼できる人間か信頼できない人間かを第一印象で判別する能力・嘘を嘘と見抜く能力が今後必要不可欠になってくると思われるのです。書いていて「はああ」と溜め息をつきたくなるような現状ですが。
それと最後に1つだけ付け加えると、信頼できる人間か信頼できない人間かを第一印象で判別する能力・嘘を嘘と見抜く能力というのは脳内であれこれ考えて判断を下すのではなく身体の感覚や直感によって感じるものではないか、と思うのです。
「あるある大辞典」のサイトで、「騙されにくい人というのは、一日の歩く量が多い人だった」というような実験結果をちらっと見たことがあるのですが、実際の学術論文でこのような研究が行われているかどうかを一介の会社員であるわたくしは知りません。
しかし、相手に関する状態が非常に少ない場合に信頼できる人間か信頼できない人間かを判別しなければいけない時には、体感を研ぎ澄ますのだ。ということを今まで10年以上武道をやってきた経験がわたくしに教えてくれた、と思うのです。
......脳内にあった考えを一気に書き出していったら、いつのまにか日付もかわって分量も10キロバイトを超えてしまいました。
今年は身辺雑記よりも、ネットの肥やしになるようなある程度ちゃんとした文章を書いていこうと思います。
どうぞよろしくお願いします。