6月10日(土)
「料理通信」のエッセイ執筆の取材ために京都に行ってきた。
大阪、京都の「お値打ち感」とは? というコーナーでのコラムである。
電話とメールで打ち合わせをして、書こうとしている内容は、大阪のお値打ちはうどんやお好み焼きや串カツとかの日常のファーストフード的なものにあり、京都はやっぱり祇園や木屋町や先斗町といった旧い花街にある割烹にある、ということだ。
そのために明治26年創業の 南船場の「うさみ亭マツバヤ」の元祖きつねうどんと京都祇園の割烹「橙」を取材する。
マツバヤのきつねうどんは550円で、それはリーズナブルやコストパフォーマンスといった物言いや物差しでは到底書くことが出来ない。
このところよく使われる「リーズナブル」という言葉は「これぐらいの素材で、こういう手間がかかっているからこの価格である」だったり「高いけれど、それ以上においしいから納得」という、価格とクオリティや量のマッチメークのさまを指すが、そういう七面倒くさい理屈上の物差しは、街場の大阪では通用しないからだ。
こちらでの「お値打ち感」は、店側の額面通りのそのものズバリ「これでどや」、そしてそれを受けた客側の「はい、よっしゃ」という感覚であり、ここに小気味がいいコミニュカティブな浪速気質が現れている。
祇園の割烹は、基本的に一見お断りである。
一見お断りというのは、裏を返せばその店の馴染みになってこそその真価が分かる、という側面があり、長い時間をかけてしっかりその店とつきあえるかどうかが「値打ち」を左右する。
だから店側がその客の好み、その日のシチュエーションなどなどのいろんな要素を察知するからこその「自分だけに依怙贔屓をしてくれる」カスタマイズがあり、それを目の前で、割烹すなわち包丁と火によって実際にパフォーマンスとして演じてくれるところに京料理としての真髄がある。
「橙」は祇園花見小路と四条通の門にある「一力亭」の斜め向かいにある。
比較的「地方の客」に開かれた店で、東京からのお客も多い。
佐野眞一著の『阿片王 満州の夜と霧』はA級戦犯・里見甫の満州利権と阿片にからむ怪奇な生涯を描いた会心の長編だが、京都時代の里見が入り浸った、と第八章に書かれたお茶屋「万イト」の1階部分はこの店だ。
そして万イトは一力亭(万亭だったがいつのまにか一と力が切り離されて一力となった)の暖簾分けである。
もう70歳になる大将の山村文夫さんから、その大正時代の麻製の「暖簾分けの暖簾」を見せて頂く。
だからどうだ、というわけでもないが、人と歴史が磨いてきた京都ならではの、何ものでもない「店の気」のようなものは、そこの最上の料理や酒を所望しただそれを消費しようと欲望するだけでは理解できない。
そしてそういう「お値打ち」は計量不可能だから、情報誌にはデータとして載っていない。
取材撮影を終え、バッキー井上と久しぶりに祇園で飲む。
錦市場の漬物屋であるかれは、自転車に乗って、祇園に現れた。
まだ6時という早い時間なので、井上がオレを連れて行こうとする「祇園サンボア」ほかのお目当ては、残念ながらまだ開いていない。
2~3軒さまよった後、「いそむら」で水割り2杯を飲み、「安参」で軽く肉をつまみコップ酒を飲み、お茶屋改造の「大仲」でケーキとミュスカデを飲み、ハワイアンバー「ケルト」で7日に亡くなられた大橋節夫のファイナルコンサートのビデオを観る。
明くる10日になって、飲んでるだけはダメで書かねばならぬ。なので「草稿になれば」とメモ代わりにそんなことをパソコンに書き散らかし、デスクトップに残したまま、午後7時過ぎに内田センセのお宅に行く。
ドクター快気お祝いを兼ねた甲南麻雀連盟の例会があるからだ。
結果はすでにアップされた内田先生のブログ通り。
最後の半荘で何年ぶりかの四暗刻を自摸ったのだが、トップは取れなかった。
うー、悔しい。
コメント (1)
ロンドンに在住している研究員です。
岸和田だんじり祭『だんじり若頭日記』
拝読させていただきました。
。。。今だに江さんは独身祭族なんでしょうか?
読ませていただいている限りには、
とってもイカスんですけど。笑
人間臭い哲学は、国を問わない気がします。
投稿者: Laptop | 2006年06月16日 02:39
日時: 2006年06月16日 02:39