5月6日(土)
亀田兄弟の一番上の兄・興毅のボクシングを見た。
彼は大阪・西成の天下茶屋中学からボクシングの世界に入ったサラブレッドである。
元祖・浪花のロッキー赤井英和も、確か西成の萩ノ茶屋の出身である。
どちらの選手も、「ボクシングちゅうのは相手をどつき倒したらそれでエエんやから」ということで、試合前から相手を挑発したりする言動や「メンチを切ったり」するパフォーマンス、それから試合後にロープに上がって観客にアピールしたり、派手そのものである。
試合は一方的な見事なTKOで、この早熟のボクサーがとても綺麗なボクシングをすることに驚いた。
とくにきっちり顔面をガードする「構え方」みたいなものが洗練されているとも思った。
試合後の何回も流されるコマーシャルの時間には、同じフライ級の大場政夫や具志堅用高といった名ボクサーの試合ぶりを思い出して、フライだとかバンタムだとかの蔑称で言われる軽量級ボクシングならではのたぐいまれな素晴らしさを再認識することになった。
その後、隣のチャンネルでPRIDEの格闘技をやっていて、高阪剛というちょっとガッツ石松をマシにしたような顔の中年の選手が、片腕に刺青を入れた相撲取りのようなサモア人の格闘家に、徹底的にボコボコにイカれていた。
顔はそこら中腫れ上がり、めくれあがった唇やゆがんだ鼻から出た血でそれこそ血みどろで、シバキまくられるというのはこういうことだという見本のようだった。
オレは、こういう正味のどつき合いを見るのは結構苦手である。
そろそろここらへんで止めたれや、だれか止めるヤツおれへんのか、とおもってしまうのだ。
岸城中学校の時も、祭がらみでも、過去にこういうどつき合いを何回か見てきたし、 岸和田少年愚連隊の主人公のカオルちゃんのモデルとなった××コちゃんが暴れて、相手をボコボコにしているのも見た。
自分自身もそういうのに近いくらいやられたこともあったが、相手をボコボコにやったりやられたりする喧嘩はどちらも後味が悪い。
それを見せられた方だって、後あと回想するにつらいものがある。
だから、そういうことを思い出したりするのがイヤだから、異種格闘技という「喧嘩ショー」はあまり見ない。
亀田親子について、そしてボクシングというスポーツとボクサーの、その虚構が創り出す光のような美しさについては、今日すでに平川克美さんが簡潔な文章で見事に書ききっておられ、思わず「あしたのジョー」の8巻~11巻を引っ張り出してきて、金龍飛からホセ・メンドーサまでまた一気に読み切ってしまったが(けれどもオレは白木葉子というのはどうも好きになれん)、亀田兄については、KOシーンの印象が強すぎたのか「これは、凄いボクサーだ」というものでしかない。
聞くところによると、亀田兄弟のあの父も天下茶屋の人だそうだ。
ああゆう古典的マッチョな歩き方をし話し方をする40代は、まだまだ西成や生野や岸和田といった街場にそれこそ当たり前のようにいて、だからこ大阪はおもろいのであるが、息子たちの一連の言動は、行儀が悪いとかビッグマウスであるとか以前に、「メディアのおっさんたちと祭を見に来た観客に、何かおもろいことを言うたれ」的で、スポーツ新聞の1面やテレビの見せ物ショーのリング入りの前に放映される両雄紹介タイム用でしか、捉えどころとしてはないのである。
サイモンとガーファンクルの唄に「ザ・ボクサー」という田舎からNYに出てくるボクサーのことを描いた名曲があって、その歌詞にはまことに冬のニューヨークな街的シーンが出てくるが、そういう街的な感じで西成を書いたり唄ったりするものには出会ったことがない。