12月17日(土)
今年最終の寄り合いがあるので、岸和田へ帰る。
その前に、昨日帰りがけに手帳を編集部のデスクに忘れたので、それを取りにいく。
休日のがらんとした編集部は、大迫力と書いて「おおさこちから」だけがいる。
PCを開いてメールをチェックしたり、お気に入りを読んでたりしていると、広告進行のイガラシさんから「江さん、だんじりの本を読んだファンの方から電話です」と伝達。
大代表の総務の電話にかかってきていて、そこに保留のサインが点滅している。
「はい、江ですが」と取ると。
「わたし、お好み焼きのなかむらの娘です」
とのことで、一気に昭和40年代の岸和田・五軒屋町の世界に引き戻される。
第3章「岸和田の編集者」の『お好み焼き屋の風景』の街は、すでに「あらかじめ失われてそこにある」という平川克美さんのブログの返礼にと、昔書いたことがあるミーツの特集「関西お好み焼き世界」のコラムを思い出してもう1回書き直したものだ。
世帯数100軒少々の狭い五軒屋町には、4軒のお好み焼き屋さんがあり、いつの間にかその「なかむら」だけがなくなっていた、という話だが、電話のむこうでは、「このところ兄が亡くなったり、不幸続きで、こんなん書いて頂いて、もう感激してしまいました。それで思わず調べて電話したんです」とのことで、涙声である。
祭好きのオレより1つか2つ上のちょっと太った兄ちゃんがいたのだが、多分店を閉めて引っ越ししたかの何かの事情で青年団には、もういなかった。
その妹さんであり、枚方市にお住まいらしい。
そんなことを確認するようにまず話す。
「江さんて、どちらの江さんでした」
「生地屋の○エの方です」
「ああ、思い出した。制服屋さんのナナメ向かいの」
「そうそう」
「(文中に出てくる)M人さんて、S吾くんのお兄ちゃんですね」
「そうそうテーラータカクラの。そしたらなかむらさんは、ボクより7つか8つ下ですね」
「ちょうど今日寄り合いがありますから、必ずS吾に言うときますわ。お元気してるて」
「もう岸和田に、なかむらの親戚、だれも、いなくなってしまって…」
と聞いてオレも感傷的になる。感傷的になるのだが、それが決してべたつかない。
こういうおたよりがあるのは、本当に書き手冥利というものである。
そしていつも書いているが、大阪、とくに泉州・岸和田の人は直截的である。
寒風吹きすさぶ岸和田に帰って、まず通りがかりにテーラータカクラをのぞき、M人にそれを伝え、会館へ行こうとしていると、ちょうど西方寺の住職さんのHさんとばったり。
なかむらは寺町筋にあって、確か西方寺の隣の隣にあったと記憶している。
電話のことを話すと、「ほんまにかいな、ちょうどM江ちゃんお父さんの3周忌したばっかりや」とにこにことされ「ひろきくんは、ええ事書いたなあ」と言われて、うれしくなる。
なかむらはこのあたりやったかいな、と思ってゆっくり歩きながら見回すが、その面影はない。
見事にまですっかりない。
寄り合いの定時に町会館に行くと、一階で青年団が宴会をしていて、間違って扉を開けると「ちぇーす」と大合唱だ。
「若頭は2階ですよ」といわれ、階上へ上がるとS吾がいたのですぐに伝える。
文章にはテーラータカクラのM人、S吾の亡くなったお父さんの話も出てくるので、しっかり読んでくれている。
M人は「映画みたいな話やろ」と言うのでもう一度、ここに再録させていただく。
偶然とはこういうことである。
ので、みなさんどうかお読み下さい。
「お好み焼き屋の風景」
『ミーツ』人気連載の「東京ファイティングキッズ・リターン~悪い兄たちが帰ってきた」は私の担当であるが、その内田樹先生と平川克美さんのブログはどちらも凄い。
その平川さんが書かれているブログの一月二八日は「街のパラドクス」というタイトルで、川本三郎の『大正幻影』から、
ここにある町をあるきながらここにない街が感じられるようになってきた。
私もまた現実の風景を通して、現実には失われた風景、いやはじめから頭の中にしかなかった幻影を見たくなったのだと思う。
という箇所を引用されていて、
そうである。
街は、すでに「あらかじめ失われてそこにある」
現在、街はこのようなパラドクスの中にあり、そこにしかない。
住み着いている人の体温と地続きの空間を街の理想だと思っていたが、
それは生活空間というもので、街のフォークロアとはむしろ無縁のものである。
と続けられていて、そのフレーズに思わずグッと来てしまった。
わたしの生まれ育った「だんじりの岸和田」もそうだが、関西のある種の街には「街のフォークロア」というものが必ずあり、そのひとつがお好み焼き屋を語れるかどうかのことなのだと思う。
いいお好み焼き屋のある街というのは、通知簿1と5の親友がいて、毎日一緒にわいわいとやかましく遊べる街の奥行きがある。
それは、大阪の生野や神戸の長田や岸和田がどうの、という話では決してない。
このところ街の雑誌をやっていて、街が何だかつまらないと思える決定的な風景のひとつが、年末だけによく売れる「関西1週間」のラブホテル情報付きのクリスマス特集や「HANAKOウエスト」のおいしい店選手権を見ながら、五千円ぐらいの仏ディナーを出すカフェみたいな内装の店で、メニューを一生懸命読み、シャンパンの銘柄を楽しそうに選んでるアベックとかグループが、どいつもこいつも通知簿3ばかりにしか見えないヤツらであることだ。
街のフォークロアとして、お好み焼きの旨さを人に語ったり、また書いたりすることは、自分の仕事の中でも「おいしいもの特集」的に記事を書いたり編集したりするのとは、全く違う行為だということを分かっている。
なぜなら、グルメ評論家とか美食ライターと言われる人のお好み焼きの記事は、仕事を依頼するに値しないほど退屈でシロウトっぽい、つまり街的にひとつもおもろない、ということを知っているからである。
わたしの仕事は、街の雑誌「ミーツ」で、そこにご紹介するための店やその店の品書きつまり料理や酒といったネタを選び、それを写真や記事で表現することである。
けれどもその一見同じな一連の思考のプロセスが、ことお好み焼きに限っては感覚的に違ってくる。
それは「どこでどんなお好み焼きに親しんできたか」という街的な個人史に、直接リンクしてくるからだ。
もちろんそこでは「いじめた泣かされた」「シバいたドツかれた」などとと同じレベルの、極めて具体性を持った肉体論が幅を利かせる。
したがってそのフォークロアとしてのお好み焼きを語る際の方法論には、「粉ものB級グルメ」といったカタログ情報誌的で陳腐な物差しはまったく通用しないし、いくら「旨いぞ凄いぞ」と、トッピングされる具の上等さとか、そのお好み焼きは厚さ何ミリとか、的外れなややこしい要素でいわれても、その街的中学(大学でもいいが)の通知簿が3だった人間には無理矢理読ませられても、1のヤツには「さっぱりわからん」、まして5には「おまえはアホか」である。
昔は賑わっていた街が、その賑わいが無くなり、街から街らしさがなくなってしまうのをじっくり、自分が年を取るのと共に見ていくことは、哀しいものだが何だか懐かしい。
小さなけれども三五〇メートルほどの長さのアーケードのある商店街が、まだ自転車で通ったら怒られたほどの賑わいがあった昭和四〇年代の頃、軒数百数十軒の五軒屋町(だからだんじりの綱もよその町と比べて短い)に、お好み焼き屋が四軒あった。
ちなみにその町内にあったアーケードの商店街は、買い物中心の商店街で、そこの中のオレのうちは生地屋で、タンス屋、化粧品屋、小間物屋、瀬戸物屋、荒物屋、傘屋、ゲタ屋、メリヤス屋、人形屋、学生服屋、文房具屋、お菓子屋、オモチャ屋、ふとん屋、紳士服、婦人服、洋品店、毛糸屋、呉服屋…が並んでいて、飲食店は喫茶店しかなかった。
正式名称は「岸和田中央商店街」だ。もっとも、今やその典型的な「シャッター商店街化」した中央商店街も今年初めに、老朽化したアーケードが撤去され住商混在型の「かじや町通り」と名前も変わった。
四軒のお好み焼き屋のうち、第二章の日記でも登場し『ミーツ』でもご紹介したことのあるお好み焼き屋の二軒である、大正時代創業の[双月]とその斜め向かいの[一休]は、「昭和大通り」という、実家がある中央商店街の一筋違いのクルマも通れる大通りの商店街にあった。
その界隈は、狭い同じ五軒屋町のなかでも違う通り、すなわち違う街である。
その頃を思い出してみると、その昭和大通りには、一〇〇人は入れる寿司から麺類、洋食までの[みなと食堂]、うどんのだしが岸和田一と言われた[たこ治]はじめの飲食店が多かった。
また二軒のパチンコ屋があり、一昨年五〇周年を迎えた老舗[いすゞホール]は今なお健在である。
その二軒のお好み焼き屋は、テイストこそ違えども、店内に間仕切りをしてあるだけの個室がいくつもある店で、看板表記に「風流、趣味の~」といった冠詞がつくタイプのお好み焼き屋だ。
さらに昭和大通りをまっすぐ浜手の二〇〇メートルほど下がった北町には、[電気館][スカラ座][大劇]といった映画館があり、その五軒屋町二軒のお好み焼き屋には、映画を見終わった帰り客、つまり家族連れやアベックなどがぞろぞろとお店に入って、自分たちで好きなように注文して自分で焼いて食べるという、文字通りの「お好み」な娯楽的要素が共通していた。
その昭和大通りからオレの生家の中央商店街をつなぐ寺町の細い道に入ったところにあった[なかむら]は、前の二軒と違っていた。
町内でただ一軒の、客が大きくてぶ厚そうな一枚鉄板を囲むスタイルのお好み焼き屋で、その形態のお好み焼き屋にしてはかなり大きなキャパだった、と記憶する。
白い三角巾を頭にしていたおばちゃんと角刈りのご主人が共に白い割烹着で、どこで売ってるのか見たこともないデカいテコを操っていて、客はその向かいに七~八人、両サイドにそれぞれ四人は座れた、と思う。
地元の両商店街の住民やそこで働く人が一人で昼飯に行ったり、うちなどは店が忙しい日曜の昼に、小学生高学年だったオレや姉が、ひとつずつ緑の紙に輪ゴムをされた包装の上に「豚モダン」「イカ焼きそば」と赤のマジックで書かれた一〇人分くらいのお好み焼きや焼きそばを取りに行かされていた。
けれどもいつの間にか、その[なかむら]だけがなくなっていた。
そして誰に聞いても、[なかむら]がなくなった確かな年月がわからない。そういう現実こそが、とても街的なのだと思う。
思えば、毎年あの「~年に一度の大祭り(岸和田だんじり小唄)」の秋祭が来てはわるように「知らん間」に年月が経ち、隣の隣の町である大阪や神戸にオレにとってのお好み焼きの街は少し増えたけれど、一方岸和田の[双月]も[一休]も四十代の若頭になった今なお、祭の寄り合いの帰りなどには大人数でよく行って、普通に旨いと実感している。
こんな風変わりの仕事のプロとしてオレを育てたくれた時代と共に、だんじり祭時以外に賑わいのない町内、とりわけ商店街では住む人がほとんどいなくなり(オレもその一人である)、商店街そのものがだんだん廃れてきて、だからではないと思いたいのだが、「知らん間」の年月の間になくなった地元仕様の[なかむら]が、なんだか懐かしい。
最後に雪印バターと味の素とケチャップで仕上げ、さらに溶き卵をまぶす、きっとその手の下手くそでイモなライターだったら「コテコテの岸和田の~」と書くしかない焼きそばを一度、自分が書きたかった。
そう思いながら今、この長屋の日記でもさんざん登場する、だんじりの前梃子係を一〇年近くやり、今年若頭筆頭をしている正味の同級生・M人の父親である「ミノくん」が、[いすゞホール]の真向かいの[テーラータカクラ]の粋な店主で、町内でバリバリの一番うるさい人だった頃、お好み焼きも焼きそばも何も注文せんと、目玉焼きだけをおばちゃんに焼かして、昼間っからキリンの瓶ビールを飲んでいた[なかむら]の風景をメインに書こうと決めたところだ。
コメント (4)
あそこのお好み焼き屋さんは「なかむら」と言ったんですね。
小さい頃、前は何度も通っていてお好み焼き屋だと記憶していましたが。
まだ空焼きを食べるくらいのお小遣いしか無かったし。
会社に入っていろんなところでお好み焼きを食べるけど、「双月」、「一休」が比べる基本のものさしになってます。
投稿者: はるちん | 2005年12月22日 22:01
日時: 2005年12月22日 22:01
深い、深すぎます。
投稿者: 山手の後梃子 | 2005年12月23日 03:01
日時: 2005年12月23日 03:01
緑色の薄い包み紙と、黄色い輪ゴム。キャパの写真のように、頭に焼きついてくる。
長い時間、ブログを待たされた、会があった。
投稿者: ふれむで | 2005年12月23日 20:45
日時: 2005年12月23日 20:45
緑色の薄い包み紙と、黄色い輪ゴム。キャパの写真のように頭に焼きついてくる。
長い時間、ブログを待った甲斐がありました。
街といなくなった人がブログのなかに静かに佇む。
投稿者: ふれむで | 2005年12月23日 20:51
日時: 2005年12月23日 20:51