だんじり現象学
10月3日(月)
本日発売のAERAに、朝日新聞東京本社の石川さんによるだんじりの小特集が載る。
何とボリュームは6ページ、タイトルは「40代哲学 岸和田だんじり祭で見つけた」である。
9月22日のこの長屋ブログでもチラッと触れたが、わたしの「だんじり本」を読まれた石川さんはこの企画記事のため、わざわざ東京から岸和田に来られ、13日の試験曳きから本祭の3日間にかけてだんじり祭を取材されていた。
曳き出しの朝の午前5時にはすでにうちのだんじりの腰回りのすぐ前に(しかし目立たぬように)陣取って、各団体の長による「祭はじめの挨拶」を聞いていたし、2日間の祭礼行事の節目節目では必ず影武者のように「そこ」にいた。
見開きの2ページ目ど真ん中に、テーラータカクラでのM人一家の写真がでんと映っている。
日常のスナップだが、とてもいい写真である。
大きな座卓が置かれた元店の部屋には、だんじりの写真やポスターが貼られている。
ミニチュアの町旗や町紋入り弓張り提灯、子供用の太鼓まで置いてあるその部屋は、いつもオレやM雄やそのほかのだんじり関係の連中が、遠慮なしに上がらしてもうて酒を飲み、大いにだんじり話をして、20年間コンビを組んでいた前梃子の相棒のM雄など、時には酔っぱらってそのまま横になり朝まで寝ていて、奥さんに迎えに来てもらうことなどしばしばだ(M雄よ、同年会は9日の日曜、M人とこでええんやな。時間だけゆうといてくれ)。
M人に「ええ写真で映ってるど」と電話を入れると「もう見たわい。哲学て、これは難しい内容やのお。岸和田のもんの誰が読めるちゅうねん。せやけどよう書いちゃある、さすがアエラや」といい、「アテでハモ皮とキュウリの酢のもん出してきたら、これなんですか? こんなの食べてるんですか? て言うてたぞ。がははは」と笑う。
東京方面の方は大阪の代表的で気軽な夏の肴「鱧皮と胡瓜もみ」をご存じないのだったのだ。地元ではハモ皮はスーパーでも売っている。
さて話を戻すと、祭をやっている岸和田のわれわれは、だんじりだけで繋がっている社会を重層的に生きていて、会社、家庭といったかつて強固だった共同体のみにもはや帰属せず、だんじり祭が「第3の社交場」として機能していて、そこに現代社会のキー・オブ・ザ・ライフがある。
「社交」というのは石川さんによる山崎正和の『社交する人間』(中央公論新社)からの引用で、AERA記事中には会社や家庭への帰属意識とは違う「生きる術」の軸足が列挙されていて、それがまさに石川さんは「だんじりである」というわけだ。
加えて、
「はたと思う。岸和田のだんじりも現象学ではないか」
といった、もの凄い問いが立てられている。
実はこれがオレがだんじり祭を長年やっていて、さらに内田先生のこの長屋で「だんじり日記」を書いている時にも、常に「書こうとして」のたうちまわっていたことである。
石川さんは書いている。
フッサールは「真理はない。あるのはそのつどそのつど、ひとびとが了解できる『解』『妥当』だけである」という思想を提示した。
同様にハンドル、アクセル、ブレーキをそれぞれ別人が操作するだんじりの遣り回しに「正解」などない。
あるのは「正解という確信」だけである。
どの交差点で、どれだけの速さで突入すればいいのかなんて、だれも知らないし、どのタイミングで前梃子を放り込むのがベストかなんて、わかるわけはない。
しかし300人近い人間それぞれは、全体の動きを勝手に想像しながら、各人がカンで「正解と確信する行動」を探りながら、4トンの塊と格闘する。
だんじりの遣り回しとフッサール現象学においての「正しさについて」がここでクロスする。
すなわち「何が世界(遣り回し)の正しい姿か」を考えることと、「(遣り回しについての)普遍的な考え方ということの原理はあるのか、また、それをどのように言い当てることができるのか」を思考することの間には、決定的な隔たりがあるのだと思う。
客観存在としての現象は、人の認識では完全に把握することはできない。
けれども、同じ身体感覚を共有する人間同士でなぜ「間主観性」といった共同意識が成立するのか、を証明するための問いをフッサールは立てた。
石川さんは「だんじりの参加者が、暗黙裏に了解していることが四つある」としたうえで「正しさは、外界にあるのではなく、みんなの了解のなかにある」と書いているのが、それではないか。
基本的にだんじり的人間世界の本質は「関係世界」であるといえる。
動物的すなわち身体的な「環境世界」は、「身体」に対して一義的な相関関係しかないが、「関係世界」では、この関係は多元的かつ多義的なので、その中での人間の身体は「幻想的な身体」として形成されていく。
その人間の関係世界は、基本的には他者との「関係」を築くための世界だが、これは本来、人間が自己を同定する「自我」をもつことから立ち上がる。
石川さんは「相手をリスペクトすることと同時に、相手からリスペクトされることが、集団の目標になる」と書いているが、それは自己了解と他者との関係了解の網の目みたいなものである。
だからこそ『社会関係を構築するということは、端的に言えば「不快な隣人」を排除することを自制する節度のことです。 』(東京ファイティングキッズP133/内田樹)が、だんじり祭のような激しい祭では必要なのだと思う次第だ。