内田先生の長屋に自分の部屋があることをすっかりと忘れていた。
久しぶりに部屋を覗くと、部屋は2008年7月から使われておらず(自分が書いていないので当たり前である)、少し寂しい気分になった。
しかも、何このハイテンション日記。赤面。
これを機会にこの部屋をもっと住み心地のよい空間に変えていこうと思っている次第である。
卒業してから渡英し、色々なことがあった。
一つ確信したのは、「モノマネのウケは世界共通」である。イギリス在住中、学校のクラスメートや先生、会ったこともない生徒から「モノマネしてくれ」と頼まれた。
休み時間に友達の「○○のモネマネやってー」から始まり、それがウケると、他の人を紹介され、「ちょっと、この人の前で○○のモノマネやってみて」と言われ、やるとまたその人が違う人を紹介し、
という流れである。
ケンブリッジに住んでいる時は、クラスの中でモノマネが流行り、パブに行くとビール片手に必ずモノマネ講座的なものが始まった。傍から見れば何とも不思議な光景である。
なぜこんなにモノマネがウケるのか・・・。
私のモノマネとは、基本的には自分の身近な人の動作や口調などを真似るもので、決してコロッケ氏のような達人の芸ではない。
だから人にウケるのである。シンプルに言えば、共感を得るのだ。「そうそう、そんなんそんなん!」みたいな感じで。
私がモノマネをするようになったのは、小さい頃、友達と会話していて、そこにいない「Aさん」の話をする時に、Aさんのマネをしながら喋ると話がより分かりやすくなる、話によりリアルさが出る、という理由からだった。
会話中に「そこにいない人物」の存在をより強いものにする補強としてのモノマネが、いつしか「面白い」ものとして捉えられるようになった。
私には「モノマネ自論」がある。
① 大げさにすること
② モノマネ相手を不快にさせないこと(もし相手が本当に不快だとやらない)
③ モノマネする時はその人になりきる
何度か「私のモノマネしてよー」と言われたが、できる人とできない人がいる。
例えば、あまり声や喋り方、顔の表情、体の動きにあまり特徴のない人はモノマネしにくい。全員に特徴はあるのだが、そういう人は捉えにくい、コピーしにくいのである。
逆に特徴が分かりやすい人(喋りにスタッカートが効いてる人、会話中での声のトーン変動が激しい人、リアクションが大きすぎる人、喋る時に目をキョロキョロさせる人など)はとてもコピーしやすいのだ。
10分も話せば十分である。会話中に何度も「○○」という言葉を使う、喋る時のリズムが少し前のめりだ、など、特徴が必ず出る。
モノマネをする上で気をつけなければならないことがある。
本人が本気で嫌がっている、または周りが不快に思う場合はしない、ということだ。
なぜなら、提供する側も提供される側も「気持ちの良い面白さ」を求めている、と思うからである。
だから、正確かつシリアスにモノマネするよりも、面白おかしく大げさにするのが笑いを誘うのである。
嫌な空気が流れるモノマネや不快に思う人が多いモノマネをするのはよろしくない。
時々、モノマネ自体を否定する人がいる。周りは「そっくりだ!」と太鼓判を押してくれているにも関わらず、モノマネされている本人は俄然腑に落ちない表情で、
「私はそんなんじゃない」と本気で否定する。
そういう人は客観的に自分の言語や動作を見ることができないのではないか、もしくは「そういう自分」が考えられない、排除しているのではないか、と思う。
人の癖や特徴などは自分よりも周りの人の方が良く知っているからである。
モノマネされて初めて自分の特徴に気づくというパターンが多いが、その後それを「否定だけをする人」を見ると、私は密かに「危険人物」だと思ってしまうのだ。
モノマネをしていると、自分がその人になったような気がする。
中学生の時に、成績がとても良いクラスメートのペンの握り方(字を書く時の体勢とペンの使い方がとても特徴的だったのだ)をマネしていたことがあった。
家に帰って、大嫌いな宿題をする時にそれはとても有効に働いた。
不思議なことに、その子のマネをしながら字を書くと、自分がとても勉強できる子だと錯覚してしまうのか、勉強がはかどるのである。
その後、私はその「○○ちゃんのモノマネ勉強方」でテスト勉強を続け、中間テストで高得点をマークした。
その後、味をしめた私は、勉強をする時には○○ちゃんのマネをする、論理的なことを喋る時は○○さんのマネをする、など、さまざまなシチュエーションで利用するようになった。
そうか、上手くなりたかったら上手い人のマネをしたらいいんだ、と、言葉では聞いていたが、それを自分が当たり前のようにしていた「身近な人のモノマネ」を通して身体で体験したのである。
ハサミとバカとモノマネは使い用。