7月28日(日) 時空の歪み

 話し合いが成立していないときに話し合い以外の方法で相手を納得させることが、おそらく「論破」と呼ばれているのだろう。

「碁を打つに、さばかりと知らで、ふくつけさは、又、こと所にかかぐりありくに、異方より目もなくして、多く拾ひ取りたるも嬉しからじや。誇りかにうち笑ひ、唯の勝ちよりはほこりかなり。」

(碁を打つとき、相手はそれほどとは理解せず欲をかいて別のところをたずねたずね打っている間に、普通と違う所から攻めて眼さえ奪い、多くの地をとるのが快くないはずがない。誇らしそうに笑って、ただ勝つより誇らしい)

-『枕草子』178段 清少納言

「論破」は囲碁で「勝つ」ことに似ていると思う。どちらも交互にターンがあったのち、勝負を決めた結果である。だから、清少納言がここで囲碁をメタファーに使って私たちに教えているのは、清少納言の得意な修辞法だ。清少納言のような有名人が正直に自分の言葉の使い方をみんなに教えてくれるなんて、なんという太っ腹。すごい、さすが清少納言。

「つたなき人の、碁うつ事ばかりにさとく巧みなるは、かしこき人の、この芸におろかなるを見て、己れが智に及ばずと定めて、万の道の匠、我が道を人の知らざるを見て、己すぐれたりと思はん事、大きなる誤りなるべし。」

(凡庸な人間で、語を打つことばかりに頭が働いて、上手な人が、賢い人で、碁を打つ技につたないのを見て、自分の知恵に及ばないと決め込んだり、全てそれぞれの道の専門の職人が、自分の専門のことを、人が知らないのを見て、自分がまさっていると思うようなのは、大きなまちがいであろう。)

-日本古典文学全集『徒然草』193段 兼好法師
 
 徒然草のこの箇所で指摘されているのは欧米の「誤謬」という概念に当たる(兼好法師がちゃんと理解していたかどうかは確かではないが)。本来、議論を行うときには誤謬を見逃してはいけない。しかし「論破」する人たちは浅い意見の投げつけ合いをしているに過ぎないし、誤謬もひどい。「議論」を戦いのことだと思っている人が多く、辞書にもそう書いてあるけれど、議論は戦いなんかではない。語の意味が根本的に変わってしまっているが、これは「時空の歪み」みたいなもので、もとからお互い全然違う話をしていたのだった。とはいえ、彼らがそんな勝負事を楽しんでいるのであれば無理には止めますまい。