5月25日 先生は思いつきでものを言う

 日本に帰国した後は、日本について別に書きたいこともないし、日記を書くつもりはなかったのだが、日本の大学に出席していると、あまりに酷いことが続くので、書いてやることにした。

 僕は「日本の」人文学の講義を受けていると違和感を覚えまくる。ハンガリーで人文学を勉強していても、違和感を感じることがあったが、日本の場合は違和感のレベルが「犯罪レベル」であり、「災害レベル」であり、とにかくヤバさのレベルが狂っている(笑い事ではない)。

「ナチスはフォルクス・ワーゲンの開発に貢献した」と教える、自称ユダヤ人を先祖にもつ教授。ポストコロニアル批評をろくに理解していない教授、自分に都合の悪い論点を指摘する学生は「怒鳴る」という方法だけで黙らせる教授。文法知識が欠けている編者が編集した教科書。

 こういう犯罪的指導をする教育の、何がヤバいかというと、「間違った定義に基づいて論を展開している」という、ただその一点に尽くされる。

 間違いを犯したものには、きちんと責任をとってほしい。

 論理的に、「PならばQ」という命題に対して、前提Pが偽(誤っている)ならば、「PならばQ」は有無を問わず真(正しい)になる。これが、今の日本の大学で起こっていることだ。

 たとえば、こういうこと。
 P=『雪は氷の結晶』
 Q=『雪は冷たい』
 とすると、「PならばQ」とは、
「『雪は氷の結晶』ならば『雪は冷たい』」。
 雪は氷の結晶なので冷たい。この命題は、私たちがどこからどのように考えても、正しい。雪は冷たいものだ。ところが、雪が冷たくなくなることがある。それは、「雪は氷の結晶」と言う前提が偽(間違っている)の場合だ。

 どこかのマッドなサイエンティストが奇怪な研究を進めた結果、雪は氷の結晶ではなく、綿飴の塊だったと言うことが証明されたとする。そういうパラレルワールドでは、「雪は氷の結晶」と言う前提が偽(間違い)となる。すると、「雪は氷の結晶」と言う前提から導かれるQは全て正しい。Qが「雪は黒い」でも、「雪は鉛より重い」でも、真(正しい)。雪が綿飴なら。

 では、雪とは綿飴だったのでしょうか?

 僕は、前提Pの正しさを守ろう、と言っているまでなのだ。前提Pの正しさは、思いつきや気まぐれで守ることはできないから、ちゃんと勉強して保護しないといけない。

 根本的な前提が危険に晒されているので、若い私たちは、ろくに勉強することもできない。