9/27(水) 解かなくてもいい難問

 ハンガリー(現地語はハンガリー語)で英語で講義を受ける、という割と無茶なプログラムを実行した結果入り込んできてしまった怪物に、僕は遭遇しているのかもしれない。「質の悪い問い」という名前の怪物である。
 Hungarian Cultureというセミナー授業で、ゼミをとった理由を聞かれ、「ブダペストに来る前にハンガリーのことを勉強してみたけど、勉強すれば勉強するほど、より混乱した。でも、せめて何か手掛かりを掴みたい」と答えたところ、教授は「このゼミで余計混乱するかもね」と返した。
 このとき、さて、ブダペスト大学の教授の知性はちゃんと働いているのであろうか、と思ってしまった。新島襄が学問について書いたとき、「学問において、やればやるほど明らかになって行くのが良い。やればやるほどわからなくなる、という学びは持て囃されることがあるが、学問に限って言えばこれは良くない」と断言しているのを読んだことがあり、そうだな、と思った。
 解く必要のない難問、と言うものが存在するからである。「極右」がその典型だ。極右の発する問いはいつもやたら難しいわりに問いが孤立していて他の分野と関連性がない。時間だけが無駄になる。平たく言えばこう言う問いを詐欺という。そういう狭い穴を深く、深く掘り進んでいくような、やればやるほどどんどん暗くなるような問いは良くない。良い問題とは、暗闇を一瞬にして照らす明るい灯火のようなもので、他の分野と関連が見つけられるようなものだ。
 ブダペスト大学の教授たちもいくらかの学生もそれを直感してはいる。ところが、今の政治状況やハンガリーの風土が人々を孤立へとせき立てる。「解く必要のない難問」を直感できない学生はスタックして身動きが取れなくなる。
 僕にとっては最も優先度が高いのが「やればやるほど明らかになっていく」と言う状態になることだ。そのためには、孤立した問題に対してはっきりNoを突きつけること。
 今のところ講義で提示される問いの中には広がりのありそうな問いもある。一方で、頭の悪いパズルのような問いも多い。ハンガリーの「優秀な」人には無意味なパズルに興じる、とても良くない悪癖があるように見受けられる。問いの質が悪い。質の悪い問いは魂を蝕む。
 英語で講義を受けることによって、日本の大学では知りようもなかった世界への素晴らしい扉が開いたことは事実だ。これはグローバル化の功績だろう。だが、なかなかやばそうな怪物も入ってきた。
 英語で入ってきた怪物を英語で退治できるものなのだろうか。楽園の作り方を考えている。