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Febrero 2006 アーカイブ

Febrero 9, 2006

ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか?

 雪にぶるぶる震えながら、約1ヶ月遅れで、『日本レコード大賞』を見た。
元船乗りで、かつて自分もそうして日本のテレビを楽しんでいた父が、私が日本で購入した本の包みに、録画したビデオをそっと忍ばせてくれていたのだ。
最優秀新人賞のプレゼンターとして、いま(別の意味で)話題のホリエモンが出ていた。
実は動画でホリエモンを見るのはこれが初めてだったのだが、いまや「容疑者」らしい。
まったく同じ世代(1歳違い)で、同時期にIT企業をし(私は御輿の棒を担ぐふりをして、ぶら下がっていただけだけど)、ついでに同じ九州出身の身としては、なんだかいろいろと心中に去来する思いがあったばい。

 そんなレコ大を見ていて、でもそれよりも、また倖田來未の衣装よりも気になったのが、司会者が連発する「おめでとうございました」という言葉だった。
ノミネート歌手が発表され、本人が登場すると、まず「おめでとうございました!」。
それから短いトークがあって、歌があって、歌が終わると、「おめでとうございましたーっ!」だ。
 なぜに、過去形?


■マリア・エレナは、こう云った:
「『ペペは甘いものが好きだった』と言った場合、スペインとラテンアメリカでは、その意味するところが異なってきます」

 コロンブスの新大陸発見から500年ちょっと。スペインのスペイン語と、ラテンアメリカ諸国のスペイン語では、語彙や文法に明らかな違いが生じている。
そのひとつは、時制にある。
スペインでは、「今日」や「今年」など主語が属するピリオド内の出来事には、基本的に現在完了形を用いる。なので夜になって一日のことを振り返って話すと、動詞はすべて現在完了形だ。
しかしラテンアメリカでは、殆ど現在完了形を用いない。いきなり過去形である。
「ついさっきのことを、なんだかまるで大昔のことのように言う」というのが、スペインから見た、ラテンアメリカ語法の印象のひとつである。

 もうひとつの大きな違いは、人称にある。
スペイン語には、英語と同様に、一人称/二人称/三人称の、単数/複数で、合計6つの人称がある。
ただし英語と異なるのは、英語での[you]が、スペイン語では二人称の「君」と、三人称の「あなた」とに分かれることだ。ちょっと話者からの距離を感じさせる「あなた」は、「彼」「彼女」「それ」「犬」「電柱」などと、同じカテゴリに入る。
 ラテンアメリカでは、このうち二人称の複数形「君たち」が、ほとんど消失する。
では、「君」がふたり以上になると、どうするか?
俄然、三人称複数を用いるんである。
たとえば、アミーゴに「お前(二人称単数。「君」と同義)さぁ、今日、うち来ねぇ?」と言っているところに、別のアミーゴが来たとする。彼も、誘うとする。
「おっ、お前(同上)も、うち来る? じゃあさ、あなたたち(三人称複数)、6時においでなさい(主語にあわせ、動詞の活用が異なる)」、となるらしいのだ。

 また文法ではないが、実際の使用法においても違いがある。目の前の人間に対し、スペインでは一般的に「君」語法で話すところを、ラテンアメリカでは基本的に「あなた」語法を用いるのだ。
この場合、ラテンアメリカ的な感覚の方が、日本でのそれに近いだろう。
スペインでは、親や上司ですら、「君」呼ばわりである。それがマナー(に近いもの)となっている。もしも、目の前の人間に「あなた」と頑なに三人称で話しかけつづけたら、それは多くの場合、意図的に精神的な距離を置こうとしている=失敬だみなされる。
敬語は敬語でも、「敬してこれを遠ざける」というニュアンスが強くなるのだ。
(ただし権力志向者は、「あなた」語法が好きな傾向がある。愚民どもと遠ざけられてうれしいってことかしら)

 というわけで、恒例の(初めてだけど)「もしも」シリーズ。
もしもスペイン人アロンソ・キハーノが、ラテンアメリカで、現地のアミーゴであるホセ・アルカディオに再会したら。
「よう! (あの時)元気だった?」
いきなり過去形を使うホセ・アルカディオの挨拶は、アロンソ・キハーノには、おそらくこう聞こえる。(えっ、いつのこと?)と、アロンソ・キハーノは心中戸惑う。
するとホセ・アルカディオが、いきなり改まった口調になって、こう続ける。
「(あの時/三人称複数は)元気だったのでしょうか?」
(なんのこっちゃ?) 動揺するアロンソ・キハーノ。
なんせスペイン語は主語を省略するため、この問いかけの「隠れ主語」となっている三人称複数が「彼ら/彼女ら/犬2匹/電柱3本」などのいったい何なのか、アロンソ・キハーノにはようとして判然としない。
戸惑っていると、背後から、遅れて着いたアミーゴのサンチョ・パンサが現れる。それで、(あっ、俺たちのことだったのね)と、ようやくわかった。

 3人でカフェに行く。そういえば、と、共通の知人ペペの話になる。あいつ、どうしてるかなぁ?
するとホセ・アルカディオが言う、「あぁ、ペペね。あいつ、甘いものが好きだったよなぁ」。
アロンソ・キハーノは、これを聞いてギョッとする。「えっ、ペペ、いつ死んだの?」
むろん、ホセ・アルカディオの言葉は、単に、ラテンアメリカでの「いまのことなのに過去形」語法なんである。
 言語学の教授マリア・エレナによると、この語法には、「いまこの瞬間に好みが変わっているかもしれない」という配慮を見ることができるという。


■ハポンの居酒屋の店員は、こう云うらしい:
「ご注文の方、以上でよろしかったでしょうか」

 友人が、某総合週刊誌の過去一年分を、どさっと届けてくれた。
解散総選挙前の民主党躍進予想、旧日本兵騒動、ホリエモンいじり……などの記事のなかに、この表現に対するオヤジたちの苦言があった。
そういえばこれも、「いきなり過去形」である。

 ただ私は、こういう言い方をするきもちが、少しはわかる。
というわけで、「もしも」シリーズ第二弾。
もしも自分が、いったんは「ビール」と注文しながら、やっぱり焼酎に変えようかなぁと思っている、居酒屋の客だとしたら。
 もし注文の復唱後に「ご注文、以上でよろしいですか」と現在形で訊かれたら、「あ、やっぱりビールやめて焼酎」とは、どうも言いづらい。なぜか。
この場合、私が行った「注文」と、店員が私の注文を受けて行った「復唱」と、店員が私に彼の復唱の正誤を問う「確認」とは、いずれも同じ、現在という時間の中にある。あるいは、そこには時間の経過がない。
なので、たしかに「ビール」と注文した以上、その復唱の正誤(よろしいか/よろしくないか)を問われたら、私は理論上「よろしい」としか答えようがないのだ。

 それでもあえて「やっぱりビールやめて焼酎」と言う場合には、きっと「すみません、気が変わっちゃって」などと、気弱に言い添えるだろう。
そうでないと、店員から「でもお客さん、たしかにビールって言いましたよねっ!?」と強く詰られる危険が、長じては、それに対して「はい、たしかにそうです。ええ、すべてはかくも優柔不断な私というダメな人間の責任です。生まれてきて本当にごめんなさい」と言いながら思わず泣き崩れてしまう危険が、生じてしまうような気がするからだ。
極端だと笑うなかれ(笑ってもいいけど)。こちとら傷つくのも傷つけるのも極力避けたい、現代っ子なのだ(三十路だけど)。
 で、結局、いちいちそんな言い訳をするのは面倒だから、「あぁ、焼酎に変えたかったなぁ」と思いながら、ずるずるビールをすするというオチになりそうだ。

 もしも、ここで「よろしかったですか」と過去形で訊かれたら、随分、気が楽だ。
動詞の時制から見るに、この質問は、「過去の注文に対する復唱」の正誤しか問うてはいない。
なので、過去は過去のこととして「はい」と肯定しておき、「ただ……」と訂正を加えるという語法で、簡単に「やっぱり(いまは)ビールやめて焼酎」と続けられる。
これはまさに、「いまこの瞬間に好みが変わっているかもしれない」という配慮から現在のことでも過去形を用いる、ラテンアメリカ語法と同じではないか。
過去形のおかげで気軽に訂正できる私もハッピーだし、また、その訂正を、自分の言ったことを否定されるのではなく、あくまで肯定の範疇で伝えてもらえる店員も、ハッピーに違いない。
なんせこちとら、ちょっとでも行為を否定されたら全人格を否定されたと感じてキレちゃう、現代っ子なのだ(とくに居酒屋のバイトの年齢層は、10代後半~20代前半だろうし)。

 ちなみに「注文の方」という言い回しも、「消防署の方から来ました」と言って消火器を売りつける悪徳商法を髣髴とさせて(かどうか)、いやらしい、という意見があるらしい。
でもこれもまた、店員が「注文ではない方」という可能性を提出することで、客が「はい、ただ(注文ではない方として)テーブルを拭いてもらえますか?」などと、肯定+訂正の文法での意思表示ができるようにしているのではないだろうか。
おお、なんて心優しい気遣いではないか。
クリーニングを経るとはいえ使い回しのおしぼりで顔や脇を拭くがさつなおじさんたちには、この優しさ(あるいは気弱さ)が、なかなか伝わらないのではないかしら。


 「過去形での問い」は、かくも優しく響く。
 もうひとつ、「もしも」シリーズ。もしもレジで一万円札を出したら、店員が間違えて千円だと思った場合。
ここで店員が「千円からで、よろしかったでしょうか?」と過去形で言ったなら、「あっそれ、万札だにょーん」と、気軽に訂正できる。
店員が間違った(=よろしくなかった)のは、過去のことだ。だから私は、現在の彼を責めずに済む。
これがもし「千円からで、よろしいですか?」と現在形で問われたら、目の前の彼の現在の誤りを、指摘しなければならない。
「あなたはいま間違っています」と告げることは、「あなたはさっき間違っていました」と告げるのに比べると、かなり心苦しい。

 あるいは、そのような特殊な場合ではなくても、現在形の問いは、やはり少しきつく響く。
「千円からで、よろしいですか?」という問いは、単なる事実確認を超えて、「お客さん、本当にこれでいいんですね?」とでもいうように意思確認を強く迫る、ある種の恫喝を含んだものとして感じられるのだ。
みのもんたの「ファイナルアンサー?」と、同じである。
この「ファイナルアンサー?」が、そう問われる者をいかに謂れ無き不安に陥れるかは、皆さんご周知の通りである(私も帰国時に一回見ました。すごかった)。
もしみのもんたからレジで「千円からで、よろしいですか?」と問われたなら、気の小さい私なんて簡単に追い込まれて、思わず「あっ、あの、どうしようかな。ひょっとしたらよろしくない、ですかね? やっぱりちゃんと小銭用意しとかなきゃ、ダメ、ですよね。そうですよね。本当にごめんなさい、こんなダメな人間で。すみません、また出直します」と、買い物を諦め、情けなさに泣きながら家に帰ってしまいそうだ。


 「おめでとうございました!」も、同じように、傷つき傷つけることを恐れる現代っ子的優しさから発せられた言葉なのだろうか。
このレコ大での場合もたしかに、ノミネートという行為自体は終わっているのだから、めでたさもそれに対応して過去形で表されている、と、考えることもできる。
では、そうすることで、いま現在相対する当事者間に生み出したものはなにか。
「いまはおめでたくない」と気軽に表明できる可能性か? いったい、なんのために?

 もしも私がノミネートされた歌手だったら、「おめでとうございます」と現在形で言われた方がうれしいと思う。あるいはもしも私の家族や親しい友人がノミネートされたなら、やはり「おめでとうございます」と、いまこの現在の慶事として言祝ぐだろう。
「おめでとうございました!」と過去形で言われたなら。
ハッとする。「あっ、もうめでたいことは、終わり?」
そして、醒めた頭で考えるだろう。(いや、そうだよね。うん、わかってる。いまの芸能界で、ちょっとくらい持ち上げられていい気になるような無様な勘違い、私はしないから)

 もしもホリエモンが、プレゼンテーターとしてではなくノミネート歌手として登場していて、そこで「おめでとうございました!」と過去形で声を掛けられていたら、たまたまその映像を1ヵ月後に見ることになった私は、たいした違和感も感じなかったかもしれない。
一瞬でおめでたくない状況になってしまう危険を大いに孕む現代日本で言祝がれる者にとっては、過去形の「おめでとうございました!」の方が、優しく響くのだろうか。
 いや、んなこたぁないだろう。
どうも「おめでとうございました!」という言葉には、私は、対象への優しさよりは厳しさを感じるのだけど、どうでしょう?

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