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2005年01月 アーカイブ

2005年01月29日

ミネソタ乙女の四季(というタイトルから想像されるものと以下の文は関係ありません)

1月27日

「えへへ。先生、日本語、忘れちゃった!!」

9月第1週目。長い夏休みが明けて、少し見ない間に、背がグンと伸びて、髪型も幾
分変わった生徒たちと、再会を喜びます。久々に可愛い生徒に会えた嬉しさに、日本
語を忘れられてしまったガックリも、一瞬忘れてしまいます。一瞬。

2年目の学年も残すところ半年となりましたから、今回は、9月から6月まで、学年
の大体の流れや、各種行事について書こうと思います。

教職員は、8月の最終週から仕事が始まります。教室の引っ越しや模様替えをした
り、教案を作成したりして、新学年のために準備をします。

教室の管理は、とにかく教師に一任されるので、もらった教室に、ペンキで巨大な絵
が描かれていたりする場合もあります。

今年度、学校に懇願して大きい教室をもらったわけですが、頂戴した教室が、壁一面
に闘牛の絵が描かれた教室(スペイン語)でなくて、本当に良かったと思います。危
うく、願いから鼻を通す牛になるところでした。モー。

初年度は、ミネソタに着いたばかり、生活に慣れるどころか、時差ボケも治りきらな
いままだったので、本当に大変でした。片付かない混沌とした教室で、推理小説の一
場面のように、一人倒れてしまった事もあります。今、解き明かされる、明らかな謎
・・・疲労です。

車も自由に使えない時期でしたから、夏だというのに寒さに震えながら、片道徒歩1
時間半をかけて登下校していた事も、今となっては懐かしい思い出です。もっとも、
極寒の冬でも、徒歩になってしまう事も何度かありましたが。ほとほと、徒歩、とほ
ほ。

学年は、2学期制(セメスター制)になっており、9月から1月までが1学期
(ファースト・セメスター)、2月から6月までが2学期(セカンド・セメスター)
となっています。そして、さらに各学期が半期(クォーター)に分かれており、成績
は、このクォーターごとにつけられます。

授業が始まっても、最初の2週間は、大学と同じく、いわゆるお試し期間で、授業の
変更が利きます。レベル2以上の生徒が、変更する事はまずありませんが、レベル1
の生徒は、ちょこちょこと移動があります。学年を通して、落伍者が一番多いのも、
レベル1です。

これはもっともな話で、レベル1の生徒は、「日本=アニメ」という理由だけで日本
語を選択する生徒が多いので、最初の関所、ひらがな46字にでさえ音をあげてしま
うのです。日本語学習において、ひらがなは基本の基本ですから、ここばかりは、関
所破りというわけにはいきません。

ひらがなでつまずく生徒は、言ってみれば、ファミコンの『スーパーマリオ』で、最
初のクリボウにやられてしまうようなものです。タラッタッタラッタッタ タラッタ
タラッタタタタ♪↓

もう少し進んだとしても、「おねがいします。」「いってきます。」「いってらっ
しゃい」「ただいま」「おかえりなさい」「いただきます。」「ごちそうさまでし
た。」など、私たちにとっては、日常の挨拶言葉も、英語にはない表現なので、日本
文化に興味ある生徒でなければ、覚える気にもならないでしょう。

日本語は、スペイン語のように、日常生活にあふれている言語では決してありません
から、ある程度モチベーションが高くなければ、確かに、大変なはずです。私だっ
て、もしもアメリカに生まれて、英語が母国語だとしたら、間違いなく、有用性の高
いスペイン語を選んでいたに違いありません。

教える方も、少しでもモチベーションをあげるために、特にレベル1は、非常にエネ
ルギーを要します。貴重なエネルギー資源、大切に使いましょう、と言っているわけ
にもいきません。エネルギー放出しっぱなし。地球環境に悪い事、この上なしです。
私の脳みそは、完全に温暖化現象を起こしています。

ただ、逆に、日本語に興味ある生徒は、たとえレベル1の生徒でも、日常生活の中で
も、間違いを恐れずに、積極的に日本語を使ってくれます。

昼食時、目の前のハンバーガーに対して、神妙に合掌し、「いってきます」と食前の
挨拶をする生徒。確かに発音は似ていますが、もちろん、被食者であるハンバーガー
は、「いってらっしゃい」とは応えてくれません。

レベル2以上の生徒になると、嬉しいことに、どの生徒も日本語や日本文化に対して
興味を持ってくれています。

それに、「日本語を勉強している」という誇りさえあるようで、ホームルームのよう
に、日本語の教室に入り浸る生徒の中には、授業後、「さようなら」の代わりに、
ちょっと得意気に、「いってきます」を使う生徒もいます。

実際、日本語を母国語としている私でも、日本語は難しいと思うのに、皆、さじを投
げる事なく、よく頑張っていると思います。テストや宿題は、些事だと投げている生
徒はいますが、大目にみましょう。

基礎の数字くらいは、どの生徒も喜んで覚えます。そんなに大変な事ではありませ
ん。「いち、に、さん、よん・・・・」と、嬉しそうに数える生徒の口は、真夜中の
上弦の月。しかし、ここで、序数詞が登場します。「ひとつ、ふたつ、みっつ・・
・」と数える生徒の口が、正午の上弦の月となってしまうのも、仕方のない話。

それでも、たとえその時その場限りでも、一生懸・・・一所懸命覚えようとしてくれ
るのです。

余談ですが、日本人にとって、”a”や”the”などの冠詞がややこしいのと同様、日
本語学習者にとっては、この序数詞が、本当に苦しいようです。

例えば、人数についての序数詞。「ひとり、ふたり」とあっても、でも「みり、よ
り、いつり・・・」とは続かない。では、一人と二人は例外だと割り切って、せっか
く、「さんにん」と変えても、次の四人は、「よんにん」ではなく、「よにん」。

「ついたち、ふつか、みっか、よっか、いつか、むいか、なのか、ようか、ここの
か、とおか、じゅういちにち・・・」「ひゃく、にひゃく、さんびゃく、よんひゃ
く、ごひゃく、ろっぴゃく、ななひゃく、はっぴゃく、きゅうひゃく」。普段は漢字
を敬遠する生徒も、この時ばかりは、漢字サマサマです。中国の方々に、謝謝。

さて。9月は、レベル1については、生徒に慣れる事(もちろん、初年度は全レベ
ル)、そしてレベル2以上については、夏休みの間に、成層圏の彼方に飛んでいった
過去の学習事項を、オーイと呼び戻す事から始めなければなりませんでした。

そんな9月の3週目には、オープンハウスといって、生徒の保護者に対して、授業の
説明をする機会があります。各クラス、わずか10分間の説明会なのですが、初年度
は、少なからず緊張していたのを覚えています。

「日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字という、3つの文字体系(アルファベッ
ト)があり、例えば、”air plane”は、『ひこうき』『ヒコウキ』『飛行機(フラ
イング・ゴーイング・マシーン)』」
と、ややハイ・テンションで、日本語について導入すると、「ワーォ。うちの子は、
そんなに難しい事を勉強しているのか」と、感心されていました。

「子は、親の鏡」とはよく言ったもので、外見はもとより、中身も面白いほど両者似
ているので、オープンハウスから後々、カンファレンスとよばれる親子面談(1年に
6日間)や各種の行事で、保護者に会う機会も幾度かあるのですが、それほど苦もな
く、誰がどの生徒の親かを覚える事が出来ました。ブッシュの子は、ブッシュ。

ところで、アメリカのカンファレンスが、どのようか言いますと、懇談ならぬ、混
談。生徒用の広々とした食堂(カフェテリア)に、全教師が2メートル間隔に座り、
自分の名前の入った札を立てて、保護者が来るのを待ちます。

部屋には教師と親子の当人だけ、という日本と違い、他人に聞かれることなど、こち
らの人は誰も気にしません。

授業を受講している生徒の数が多ければ多いほど、当然、保護者の数も増えるわけ
で、英語や数学、科学やスペイン語の先生の前には、長蛇の列が出来ているのです
が、日本語教師の前に列が出来るということは、まず、ありません。

保護者が来ない時は、自分の仕事が出来て都合いいのですが、芸能人のサイン会のよ
うで、隣のスペイン語の先生の前に出来ている列が、私の前までのびてきていると、
飛鳥さんの隣のチャゲさんのような気分にさせられます。

それにしても、朝7時半から、午後2時半まで授業があって、その後、3時から8時
まで親子面談ですから、さすがにグッタリです。ここはひとつ、チャゲさんのように
サングラスをかけて、一眠りZZZ、といきたいところですが、保護者の手前、そうは
いきません。

ただ、こちらの保護者の方は、とてもフレンドリーで、日本ほど構える必要がないの
で、気分的に楽です。

特に、私は外国人ということもあってか、色々助けてもらいますし、面談の度に
ティッシュペーパー(学校からの許可有り)を下さる方もいます。それにしても、な
ぜにティッシュペーパー?日本に帰国する前に、理由を聞いておかなければなりませ
ん。

生徒の保護者にも対面し、新年度に少しずつ慣れてきた10月の初め、ホームカミン
グという、愛校週間が始まります。

この週は、各種イベントがあるのですが、中でも目玉行事は、フットボール(金曜日
の夜)と、ダンス(土曜日の夜)でしょうか。

昔から、スポーツ観戦には興味はないのですが、さてフットボールとなると、ルール
さえ全く分かりません。

しかし、いくら分からないとはいえ、0対40の試合ともなると、どちらが優勢か劣
勢かぐらいは分かります。ホームカミングなのだから、ちょっとぐらい、相手高校も
八百長してくれたらいいのに。毛布をかぶりながら、日本人は、そんな事を考えてい
ました。

そして、ダンス。といっても、社交ダンスではありません。クラブ系のダンスです。
ミラーボールこそありませんが、大掛かりな照明もセットされて、学校の体育館が、
ダンスホールに早変わりします。

大音量の音楽と照明の中で、踊食いの海老のように暴れる生徒から、利尻島の昆布の
ように揺れている生徒まで、楽しみ方は様々です。アフリカン・アメリカンの生徒
は、血のなせる業でしょう、プロ顔負けのダンスのセンスです。

ちなみに、日本語の生徒の多くは、昆布にさえなれずに、ただの群れる棍棒と化して
いました。

ホームカミングのメインイベントは、上記の2つなのですが、他にもコーヒーハウス
という募金活動(ファンド・レイズ)もあります。

コーヒーハウスでは、有志による軽音楽部や寸劇が上演されます。講堂ではなく、照
明を落とした狭い教室で行われ、観客は地べたに座るなど、なかなか雰囲気がありま
した。

今年度は、このコーヒーハウスで、ちょっとしたハプニングがありました。

寸劇で、「昔々、来る日も来る日も米ばかりを食べる民族がありました。猿と一緒に
住み、変わった服を着て、理解不可能な言葉を喋り・・・」と、いかにもアジア文化
を小馬鹿にしたものがあったのです。ストーリーも、稚拙極まりない。

有色人種に対する人種差別は、未だにアメリカの根強い問題ですし、それを高校生が
考えなしに取り上げたに過ぎません。それでもここまで表面化されると、さすがに相
手が高校生とはいえ、私も腹が立ちました。

こちらのアジア人の生徒は、中国人や韓国人を抜いて、圧倒的に多いのが、モンとい
う東南アジアの民族です。カンボジアでの大虐殺やタイの難民キャンプに関係してい
たりする上に、英語にも不自由し、大抵の家は低所得のために、苦労をしているとい
う生徒が多いのも事実です。

ESL(第二言語としての英語)のクラスを人種別で見ると、モンの生徒より多いの
が、メキシコ系移民の生徒で、家族を故郷メキシコに残して、渡米している生徒もい
ます。

そして、数はそこまで多くはないものの、アフリカから移住してきた生徒の中には、
家族を守るための銃の構え方は分かっても、勉強するという概念さえ分からないとい
う生徒までいます。

英語を喋り、アメリカ人としての生活を送ってはいても、韓国や中国から養子縁組で
来たために、両親はおろか、自分の出生した国さえ見た事がないという生徒も。

職種、社会を見れば、アフリカン・アメリカンと白人の間には、やはり差があります
し、危険と言われる地域の住民は、悲しいことに十中八九アフリカン・アメリカン。
お金持ちの学校に行けるのは、ほんの一握りだけの生徒だけ。

貧富の差が激しいアメリカですから、生活に追われて、遊ぶ事を知らない生徒も数多
くいます。そういった生徒を対象に、ポットラックという、持ち寄りのパーティを学
校側が開いたりもするのですが、それにさえ参加出来ない生徒がいるというのも現状
です。

人知れず苦労をしている友達の事を思いやるどころか、小馬鹿にするとは、何という
ことか。高校生のうちからこんなでは、アメリカが、本当の意味で、「人種の坩堝」
と成り得る日など来るわけがありません。

腹が立つと同時に、何ともいえない悲しい気持ちで、では一体、観ている生徒はどう
思っているかと観客席を見渡すと、目を疑うような光景が飛び込んできました。

ちょうど教室の反対側に座っている生徒達が、頭を真下に下げて、観劇拒否の姿勢を
示していたのです。その数、2、3人ではありません。誰が先導したかは分かりませ
んが、10人以上。さらに驚いたのは、全員、私の生徒、あるいはその友達だったの
です。

頭を下げて観劇拒否をするなど、いかにも子供っぽい反抗なのですが、少なくとも、
他国の民族・文化を尊重しようとする姿勢に、胸が熱くなりました。

いつの日か、習った日本語は忘れてしまうかもしれませんが、その姿勢だけは忘れな
いでほしいと、心の底から願います。それだけでも、私がここに来た意味があるはず
ですから。

ところで、コーヒーハウスは、ファンド・レイズの小さい活動の1つですが、こちら
の学校では、年間を通して、各種のアクティビティーやコミュニティーによる、様々
なファンド・レイズが行われています。

例えば、バンドやオーケストラ、聖歌隊(クワイアー)のコンサートがそうですし、
上記したフットボールやダンスはもとより、水泳や野球、バスケットボールやバレー
ボールの試合、それにミュージカルや劇など、ほぼ全てのものに入場料が要ります。


日本では、学芸会や体育祭にまで入場料が要るという事はあり得ませんが、総じて寄
付が好きなアメリカ人からすれば、「入場料が募金になるんでしょう?面白いものが
観られる上に、寄付も出来るなんて、素晴らしいじゃない」ということになるようで
す。さすが、太っ腹。お腹のお肉も寄付可能なアメリカならでは。

幸い、教職員は、入場料免除の顔パスですし、生徒も熱心に誘ってくれますから、そ
ういったイベントや、放課後の活動にも、出来る限り顔を出して、生徒の活躍を観る
ようにしています。もちろん滑厄の時もありますが、猿だって木から滑るくらいです
から、気にしない気にしない。

2月には、GOFA(ゴーファ)という募金強化週間があり、ダンスやタレント
ショー、手品、アカペラや催眠術ショーなど、様々なイベントや催されます。プロ
フェショナルの人も招かれ、アメリカのショービジネスのレベルの高さを、垣間見る
事が出来ました。

聴力のないダンサー達が、スピーカーの音の振動だけを感じとって、全員一糸乱れ
ず、激しいアップビートの曲を踊っていたのを観た時は、言葉が出ないほど、感動し
ました。

そして、正式な顧問というわけではないのですが、国際交流クラブ(グローバルコネ
クション)というアクティビティーには、わりと頻繁に参加しています。色々な国の
料理を調理実習したり、劇やダンスなどのパフォーマンスを観に行ったり。これもま
た、移民の国、アメリカならではのアクティビティーでしょう。

日本人、ということで、和食の指導を頼まれた事もあります。肉じゃがの味がアメリ
カ人に分かってもらえるだろうか、とか、焼き魚をしようにも魚がないではないか、
などとしばらくは頭を悩ませていました。

が、いざその日になると、指導したのは、おにぎりとお味噌汁。まるで、『料理の鉄
人』に使われそうな御題です。ちなみに、この番組は、『アイロン・シェフ』といっ
て、アメリカでも大流行です。

「一口におにぎりといっても、具は発想次第、お味噌汁にしたって、だしや味噌な
ど、こだわればキリがないはずだ。これぞ芸術。」

鉄人なら、そのようなコメントをするに違いありません。

が、指導したのは、いかにも凡人メニュー。おにぎりの隠し味は、「大人のふりか
け」ですし、お味噌汁も即席インスタント。飯盒炊爨でもあるまいし、お米さえ炊き
上がっていれば、5分もあれば十分な献立です。何故、1時間もかかるのか、諸君。


それにしても、見た事がないというものは恐ろしいもの。

米を洗えと言った瞬間に、洗剤を手に取る生徒。ふりかけを混ぜ合わせる際、餅でも
作るかのごとく、ご飯をかきまわすミキサー・スチューデント。

フルパワーでもって握り締めたために、出来上がったおにぎりは、指紋の跡まで見て
取れそうな、ピカソなおにぎり。個性的という点では、手の平でバシンバシンと叩い
た、ザブトンおにぎりも負けてはいません。

インスタントのお味噌汁も、せっかく小分けにされているというのに、わざわざ1つ
の鍋に入れ、超強火で加熱。ゴボゴボゴボと湧き上がる、灼熱地獄のお味噌汁。風味
や香りは、私達の嗅覚には届かない、遥か天高い所に舞い上がっていました。

それでも、「おいしいね」と、満面の笑顔で、それらを完食する生徒。あなた達こ
そ、グルメ・リポーターの素質があります。

和食に限らず、このアクティビティーでは、アジア、ヨーロッパ、中東、アフリカ料
理など、色々な地方の、珍しい物を食べる事が出来ます。春巻きとザッハ・トルテ
(濃厚なチョコレート・ケーキ)が、同じ1つのお皿にのっていようが、異文化交流
万歳です。

平日は、朝から昼まで授業があって、そこから夕方までは仕事をしつつ、放課後組の
生徒に付き合い、時には夕方からアクティビティーに顔を出したりすると、遊ぶ時間
などないも同然ですが、そのかわりに、こちらの学校は休日が多いので、仕事のホル
マリン漬けという感覚はありません。せいぜいピクルス程度です。

初年度、10月の3週目には、ダルースという北方の町に行ってみました。ここは、
世界最大の淡水湖、スペリオール湖(五大湖の1つ)の近くにある、丘の町です。地
平線の見える大地が、紅葉で真っ赤に染まっているのを見た時は、卒業式の金八先生
にも負けないほど、感動しました。

本格的な冬が到来し始める11月には、4日間、あるいは5日間にもなる黄金週間
が、なんと2回もあります。

そのうちの1回に、サンクスギビングという収穫感謝の日(4週目の木曜日)があり
ます。御存知の方も多いと思われますが、これは、1620年、メイフラワー号でア
メリカにやってきた初期の移住者が、過酷な環境の中、ネイティブ・アメリカンの助
けを借り、作物を収穫出来た事を神に感謝したことから始まったとされています。

日本の正月料理と同じく、各家庭のアレンジはあるものの、基本的に、ターキー(七
面鳥)、スクワッシュ(裏ごししたカボチャ)、グレイビーソース、クランベリー
ソース、マッシュポテト、スタッフィング(料理の鳥などの詰め物料理)、キャセ
ロール(厚手鍋を使った、シチュー料理)、パンプキン・パイが食卓に並ぶようで
す。

12月の3週目から冬休み休暇が始まり、25日にはクリスマスがあります。クリス
マス料理のメニューは、クリスマス・クッキーが加わるものの、サンクスギビングと
ほぼ一緒です。一体、何羽の七面鳥が、このホリデー・シーズンに、店に召された事
でしょう。

個人的には、キャセロール料理の1つ、ミネソタ特産のワイルド・ライス(黒い米)
を使った、マッシュルームシチューが、美味しかったです。寒い冬に食べるシチュー
は、また格別です。

「寒い」というよりは「痛い」ミネソタの冬については、先回触れましたので、ここ
では、この時期の娯楽・イベントについて、述べましょう。

まずは何といっても、ウィンター・カーニバルです。セントポールの街に、巨大な美
しい氷の彫刻が並び、広場には、アイスパレスという、文字通り、氷のお城が建造さ
れます。ミネソタに1万以上ある湖が氷るのですから、資材は無限なはずです。夜、
ライトアップされた氷の城は、何とも言えず、神秘的でした。

あまりにも寒かったので、長い間見物するというのは、物理的に不可能だったのです
が、現地の人に倣って、10セント硬貨を、氷の壁にはりつけてみました。

ピタッと氷にはりつく硬貨を見ながら、小学4年生の頃、真夜中にコッソリと、冷凍
庫のアイスキャンディー(牛乳に砂糖を入れたもの)を、製氷器ごと舐めようとした
私の姿が思い出されました。

愚かとはまさにあの事で、製氷器が舌にはりついたのです。冷静になって、水をかけ
れば、何ということもなくとれるのですが、当時の私は、そんな事を思いつきもせ
ず、舌を血まみれにしながら、製氷器から無理矢理はがしました。ベロデロデロ。

愚かな事と言えば、もう1つ。中学1年生の時、宿題をしながら、ジュースを飲んで
いた時の事です。

飲み終わったグラスを口にあてて、グラス内の空気を吸うと、それは見事にピタッと
密着するのが面白くて、宿題もそっちのけで遊び始めました。

やがて、グラス内の空気を吸い続けて、真空状態にすれば、手でコップを持つ必要も
なくなるという事に気付き、コップを口にはりつけたまま、私は宿題に戻りました。


半時間ほど経った後、だったでしょうか。そろそろコップを口にはりつけているのに
も飽きて、息をコップ内に吐き出して、ソロソロとはずしてみました。

すると。

口の周りには、直径10cmの丸いコップの跡が、クッキリハッキリ。さらに、円の
内部は、真空状態による鬱血により、暗紫色になって腫れ上がっていました。もちろ
ん、唇だけ無事というわけにはいかず、賞味期限の切れた、博多の辛子明太子。

翌日も翌々日も翌々々日も、マスクをして登校した私を、風邪だと心配してくれた友
達、ありがとう。でも、良い子も悪い子も、マネしないで下さいね。

そう、マスクと言えば、さすがにスケートをする際には、顔マスクをするミネソタ人
もチラホラいるようです。

痛みを覚えるような寒さの中、何を好き好んで、屋外のスポーツ、しかも、わざわざ
寒風をきって、氷の上を滑走しなければいけないのか理解不能ですが、「天然のス
ケートリンク(湖)」という言葉の響きに負けて、私も中古のスケート靴を買ってし
まいました。

アイスホッケーをする友人(プロ級に上手)が、恐れ知らずにもホッケーを教えてく
れるのですが、そもそも後方に滑るのもやっとの私に、スティックやパックを操るな
ど、到底無理な話。「アイツボッケー」、そんな事を思われていない事を祈ります。


寒いのならば、大人しく屋内にいればいいのですが、人間、やはりたまには外の空気
を吸いたくなるのです。

というわけで、年末には、知人宅で、屋外のジャグジー風呂を楽しみました。ミネソ
タで露天風呂。これは何とも言えない贅沢だったのですが、ミネソタだけに、湿気を
帯びた髪は凍りつき、暴走族も泣いて黙る程のバリバリ・リーゼント。

お湯の温度も、どう頑張っても35度以上にはなりません。35度というと、半身浴
には適温ですが、外気がマイナス20度ともなると、明らかに、ぬるすぎ。半身浴な
どしようものなら、半死浴になる事、確実です。

それに、バスタブから出ると、セブンセンシズに目覚めたかのように、全身から舞い
上がる、真っ白の蒸気。怒れる孫悟空。ハーッ!

大晦日は、衛星放送で朝7時から紅白歌合戦を観て、日本気分を味わいましたが、紅
白の後で昼食を食べるというのは、何とも奇妙でした。

年越しは、モール・オブ・アメリカという全米一大きいモールで花火(ミネソタで
は、花火は違法なので、備え付けの花火のセット)を観たり、友人とささやかなパー
ティを開いたりしました。

テレビで、ニューヨークのタイムズ・スクウェアのカウントダウンを観て、大いに盛
り上がったのですが、「ハッピーニューイヤー!!」と、大地を蹴って叫んだ瞬間、


「でも、ニューヨークは東部時間だから、私達(ミネソタは中部時間)のカウントダ
ウンは、1時間後だよ。」

と、友人の冷たい一言。・・・つまり、アメリカは、4回、カウントダウンがあるわ
けなのです。

日本と違い、こちらでは、お正月は大した行事ではないので、1月2日、あるいは3
日から学校が始まります。一般の会社などは、大晦日もお正月も、全く関係ありませ
ん。

そして、1月の3週目。極寒の中、1学期(ファースト・セメスター)が終わりま
す。私は決して獄官ではありませんが、ここで、単位を落としてしまう生徒も、何人
かいます。

2月の最終土曜日には、ジャパン・ボウルという、日本語を学習している高校生の大
会があるので、この頃から、参加者は、放課後に残って準備を始めます。これは、全
米規模の大会なので、優勝したチームは、ワシントンDCの本戦に出場する事が出来
ます。日本の高校野球と同じ、といったら分かりやすいでしょうか。

出題項目はというと、作文と文法、漢字、カタカナ、ことわざ、擬態語(擬音語)、
文化に関する問題、です。準備は、全て各高校の教師に一任されていますので、頑張
ろうという生徒のためにも、私としても、資料や教材作りに力を注ぎはしたのです
が、この「文化に関する問題」というのが、曲者。

一応、「有名人」とか「政治」、「経済」や「祭り」など、特定された題はあるので
すが、それにしても、あまりに範囲が広すぎるのです。「有名人」と言われても、モ
ン娘からサブちゃんまで。「政治」と言われても、小泉首相から三権分立まで。何が
出題されるのか、皆目見当がつきません。

それでも、私なりに考えて、去年は資料を作ったのですが、いざ、大会で出された質
問はというと、

「ピカチュウは、何色でしょう?」

これは、おそらく、「アニメ」という項目からの出題でしょう。インターネットを
使って、ドラエモンや鉄腕アトム、ちびまるこちゃん、サザエさんやトトロなどの情
報を集めた記憶があります。

しかし、日本語を選択している、していないに関わらず、アメリカの高校生で、この
質問に答えられない生徒は、いないはずです。

私の教室にも、ピカチュウ人形が、デーンと居座っています。取り外し可能な頭部
が、本棚の上にのっていたり、水性ペンでモミアゲやヒゲを書かれたりもしますが、
とにかく、皆のアイドルです。私の苦心も、水の泡でした。

もっとも、一人でバブル崩壊している私をよそに、生徒達は生徒達なりに楽しんでい
たようです。和太鼓や空手、合気道などのワークショップもありますし、何より、日
本語を習っている、他の学校の高校生に会えた事が、いい刺激だったようです。

当たり前ですが、他の学校にも、もちろん日本語の授業はあり、時々、コーヒー
ショップやレストランに集まって、日本語教師同士、情報を交換し合います。

会議というほどかしこまったものではありませんが、明らかに私が一番の若輩者なの
で、教育に熱き情熱を傾ける、先輩方の熱き討論に、耳を傾けるばかりです。首を傾
げるなんて、恐れ多くて出来ません。

私の高校でも、1ヵ月に1度、水曜日に職員会議がありますが、会議時間は、たった
の1時間。会議を進める校長もノンストップですし、1つ1つの議題についても、会
議参加教員の意見や案を聞くというよりは、決定事項を伝えるという感じなので、進
行速度が、とても速く感じられます。閉店間際の回転寿司。カラカラカラ。

しかし、この1ヵ月に1度、たったの1時間の会議にさえ、「時間の無駄だ」と文句
を言う教員もいますから、つくづく国の差異を感じます。

ジャパンボウルが終わると、3月に入ります。最高気温が氷点を上回る日もあって、
心はすっかり春気分です。真冬の神戸よりもよほど寒いというのに、慣れとは、本当
に恐ろしいものです。

そんな、気分だけは春を先取りしている3月の3週目、約1週間の春休みがありま
す。

去年は、この春休みを利用して、ニューオリンズに行きました。昔から、アメリカに
旅行するとすれば、絶対に、ニューオリンズかニューヨークと決めていました。ラジ
オ英会話で、ニューオリンズを舞台にしたお話があり、大好きだったのです。

そんなわけで、ミネソタ在住のこけし娘。南アフリカ共和国出身の友達と一緒に、い
ざ、ディープサウスへ。

ニューオリンズは、フランス・スペインの支配による100年あまりの植民地時代の
歴史があるので、どこかヨーロッパを思わせる街並みでした。そして、奴隷制度の悲
しい過去があるものの、アフリカン・アメリカンのパワーも加わって、独特の雰囲気
がありました。

それに、なんといっても、ジャズの本場。スペイン風の鉄レース細工が美しいバルコ
ニーが並ぶ、フレンチ・クォーターのバーボンストリートには、ジャズの店が軒を並
べていました。さらに、店はもちろんのこと、ストリートのジャズマンの質も高く
て、ついつい聞き入ってしまいました。

電化製品店の店頭、サンプルのテレビなどで、面白そうな映画を上映していると、つ
いつい立見してしまう私。「ライオンキング」や「ターザン」などは最初から最後ま
で観てしまいましたし、長編「タイタニック」も完全制覇。足、イタイタ肉。

そんな私ですから、ニューオリンズの大道芸人に、目を奪われないわけがありませ
ん。くいだおれ人形のような顔の手品師も、一輪車のお兄さんも、赤パンツを穿いた
ダンサー達も、体を銀ピカに塗ったロボットおじいちゃんも、ほぼ毎日見ていたため
に、今でもしっかりと顔を覚えています。

普段は、あまりお酒は飲まないのですが、せっかくのニューオリンズに来たのだから
と、皆の真似をして、ハリケーンというお酒を片手に、街をブラブラと散歩していま
した。

何ということもない光景かもしれませんですが、ミネソタは、戸外の飲酒は禁止され
ているので、これはちょっとした経験でした。ミネソタで、日本式の花見でもしよう
ものなら、宴もタケナワ、全員が、オナワを頂戴するでしょう。

ジャンバラヤやガンボスープなど、世界的に有名な、ニューオリンズのクレオール料
理やケイジャン料理も、しっかりと堪能してきました。ナマズやザリガニ、カキと
いった名物も、もちろん忘れたりはしません。

中でも、私は「ポー・ボーイ(“Po Boy”)」という、カキフライのフランスパンのサ
ンドイッチが、特に気に入りました。

しかし、この美食談を生徒に報告した時の事です。私の英語の発音が悪かったせい
で、とんでもない話になってしまいました。

私 「ニューオリンズは、とても良かったですよ。・・・(中略)・・・
『ポー・ボーイ(“Po Boy”)』 が、忘れられないほど、美味しかったです。」
生徒「・・・貧しい少年 『プアー・ボーイ(“Poor boy”) 』が、美味しかった? 
先生?」

誤解です。プアーではなく、ポーです。はい、はい。ポー。ポー。ポー。ポー。

ニューオリンズからミネソタに戻ってきた時は、あまりの寒さに、開いた口が塞がり
ませんでした。そして、開けている口も、寒いのですぐに閉じられました。

ただ、4月になると、さすがにもう雪が降るということはありません。激しい寒暖の
差に、体調が崩れる事もありましたが、惨寒刺怨の冬に比べれば、何のその。

カミナリ様が逆上したような稲妻が、雷雨を伴って、暗雲立ちこめる広大な空を、縦
横無尽に駆け抜ける様は、確かに恐ろしいです。が、それでも、カミソリ様のような
痛い寒さの方が、よほど辛ひ辛ひ。

冬季には不可能だった、ファイアー・ドリルという避難訓練も、行われるようになり
ます。日本の避難訓練も緊張感があるとは言ませんが、こちらのそれは、紅白歌合戦
のキムタク級に、さらに緊張感に欠けます。

授業中、ブザーが鳴って、ダラダラと校舎の外に出て、数分後、再びダラダラと教室
に戻るだけ、というもの。消防署の方々が見られたら、小林サッカーのようなキック
が炸裂する事でしょう。

腰をかがめて、とか、ハンカチを口にあてて、とか、そういった事をしている生徒な
ど、一人もいませんし、そもそも、ハンカチという習慣が、こちらにはありません。
ハンカチのない、長身のアメリカ人。有毒ガスを深呼吸です。スー。

しかし、たかが避難訓練と侮ることなかれ。火事は、もちろん大願ではありません
が、と同時に、決して対岸でもないのです。

ある日の早朝、4時。アパートの防音効果が高いのか、耳をつんざくような音ではな
かったのですが、けたたましい火災報知機のサイレン音に飛び起きました。

しかも、ちょうどその時は、日本から友人が来ていました。普段は、あまり肝が大き
い彼女ではないのですが、その時に限って、「大丈夫。きっと誤報だよ。」と、やけ
に肝が据わっていました。サイレン音を無視して、再び寝ようとする友人。逞しい限
りです。

しかし、そうはいっても、住人の私としてはやはり気になったので、偵察に行くこと
に。そして、廊下を出て、階段を下りていくと、「火事だー!逃げろー!」という叫
び声。買い物袋の底の生卵のように、グシャっと肝が潰れました。

アクション映画のように、2段とばしで階段を駆け上がり、部屋に戻ると、友人が、
「けむりクサイ」という、何ともまあ状況に適した意見を述べてくれました。窓の外
には、煙がモクモク。

色々大事なものを持って行きたい、という誘惑を蹴飛ばして、パスポートと鍵だけ
持って、外に飛び出しました。もちろん、タクマシイ友人も一緒。命あっての物種で
す。

これは11月の話で、もうすでに寒かったので、他室の住人は、車に乗って暖を取り
つつ避難していたようですが、私達は、寒さにブルブル震えながら、建物の前で、ボ
ケーと火の元を見上げていました。

驚いたのは、出火した部屋の番号が、404だったのです。そして、私の部屋番号
は、504。

アパートには、200以上も部屋があるというのに、なぜ、よりにもよって、私の階
下の部屋から出火?!小学生でも知っている通り、炎は上に上って行きますから、私
の部屋だけが、◎コゲになってもおかしくありません。そう考えると、肝がキンキン
に冷えました。

消防士の方に許可をもらって部屋に戻りましたが、ベランダは、ガンガンすさまじい
ハンマーの音がしていますし、寝耳に水をかけられて、すぐに眠りにつくという事も
出来ません。

ハリウッドスターならぬ、ミネソタスターのように、消防車からの強烈な照明を当て
られ、二人して某然としながら、リビングの窓から、しばらく消防活動を見ていまし
た。

決して、好んで災厄を招いているわけではないのですが、人生、明日には何が起こる
か分かりません。君子、危うきに近寄らずといっても、危うきが君子に近づいてくる
場合は、どうしようもないのです。しかも、私は、ただのトモコ。キミコではありま
せん。

この日記とは別に、私は、阪神大震災の一週間前から、個人的な日記をつけているの
ですが、これも、「明日の事は、誰にも分からない。だから、今日一日を大切に過ご
そう。」といった思いからです。

震災の1週間前の日記には、「今日、ファッション雑誌を2冊も買ってしまった」
「とうとう、雲のジュ-ザがやられた(アニメ『北斗の拳』の再放送)」などと、自
分でも泣きたくなるほど、つまらない事が書かれているのですが、日記の内容も、震
災を機に、一転。高校生の私には、ショックだったに違いありません。

滅多に日記を読み返す事などありませんが、それでも、一日の終わりに、その日を振
り返って自分の行動や気持ちを書く、というのは、決して悪い事ではないと思いま
す。

「日記は、文句や不満が呪詛のように続いて、根暗な気分になるので、つけたくな
い」という方もおられるようですが、私の日記は、正反対の正反対の正反対、540
度違います。

もちろん、たまには怒りのコメカミマークも登場していますが、基本は、いたって
ハッピーライフ。辛くたって、メゲナイわ。だって、辛デレラですもの。

例えば、お金がなかったせいで、歩きに歩いた、去年の夏のヨーロッパ貧乏旅行。記
憶では、あの時、「もう、足を前に出すのも辛デレラ」などと思っていたと思うので
すが、日記には、

「今日は、街への往復20キロ歩いた後、登山をする羽目になった。てくてくてくて
く。暑かったし、しんどかったけど、街がゆっくり見えてよかった。それに、自分で
登ったおかげで、山頂からの眺めは、本当に感動した。ラッキー。(出典:『私の日
記』第13巻)」

と、書かれていました。・・・ラッキー?ノンノン、決してラッキーなどではありま
せん。使用法を間違えています。

誕生日など、嬉しいことでもあろうものなら、自分が幸せの★のもとに生まれたかの
ように、ペンを躍らせます。タラララ。辛デレラ、ラララ舞踏会デビュー。

宣伝するわけではないですが、ちなみに、私の誕生日は5月です。ようやく本物の春
の到来です。春の麗のミシシッピ河も、陽光を受けて、キラキラ輝きます。

放課後には、生徒達が、誕生日パーティーを開いてくれました。しかも、セントポー
ルにある、有名カフェのチーズケーキを、わざわざ買いに行ってくれたのだとか。
神々しいまでに純白なケーキ。アメリカ人が大好きな、赤や青、緑や黄色の原色万歳
・虹色ケーキとは比べようもないほど、美味しかったです。

そして、生徒全員からの色紙。誰かが、「おたんじょび、おめでと」と書けば、後の
全員が、「おたんじょび、おめでと」。普段だったら、うううと唸りながら、赤ペン
で「う」「う」「う」「う」と書き込むところでしょうが、この日ばかりは、素直に
感動しました。ううう。

さて。5月の3週目には、プロム・ダンスが開催されます。これは、卒業生(シニ
ア)のパーティで、参加者は目いっぱいに着飾って、友人たちと長い一日を楽しみま
す。高校生活で、最も大きな行事の1つと言えるでしょう。

この日は、朝からドレス・アップで大忙し。午後、正装した卒業生は、学校の講堂に
設置されたランウェイで、御披露目をします。そこからプロム・ダンスまでの間、各
自、洒落たレストランで食事をし、夜になって、プロム・ダンスへと出かけます。

ダンスの会場は、学校の体育館などではなく、ホテルやイベント・ホールが貸し切ら
れます。タクシーを使う生徒もいれば、リムジンをチャーターする生徒もあり。気合
十分です。

参加条件というわけではありませんが、このプロムには、男女のカップルで、という
のが通例のようです。ちなみに、流言蜚語を避けるためにも、同性同士というのは、
禁止されています。

ロマンチックな習慣だとは思いますが、パートナーを見つける事が出来なかったり、
たとえ見つけたとしても申し込んで断られたり、あるいはプロム直前に交際破棄とい
うカップルもいたりしますから、苦い思いをしている生徒も少なからずいるはずで
す。

悲しい事に、私の学校は女子校だったので、そういったほろ苦い思い出とは全く無縁
でした。

ここで、ちょっと私の青春日記におつきあい下さい。

「7時38分の電車の5つ目の車両に、カッコイイ人がいる」だとか、
「あそこのマクドナルドでは、○○高校の人に声をかけられる事がある」だとか、誰
が流したかは分かりませんが、とにかくそういう噂は、よく耳に入ってきました。残
念ながら、実際、そういう人は、目には入っては来ませんでしたが。

そのような環境でしたから、あれは本当の恋とは呼べないかもしれません。ですが、
高校一年生の夏、16歳の私は、一人の男性に、確かに心を奪われていました。

それは、「暇」「お金が欲しい」ということで、親には一ヶ月の約束で、アルバイト
をした時の事です。

学校にバレないように(ごめんなさいごめんなさいごめんなさい)、内緒で働ける所
を探したのですが、見つけられたのは、唯一、マクドナルド。しかも、神戸のメイン
・ストリートの入り口に、デデ-ンと構えているその店舗は、秘密どころか、まるで
ランドマーク。

学校にバレない事をひたすら祈りながら、「いらっしゃいませー、ご注文お決まりの
お方は、こちらのレジへどうぞー」と、マニュアル通り、オウムのように同じ言葉を
繰り返し、文字通り、機械と化して働いていました。

ほぼ3分ごとに、同じ事の繰り返しだったので、飽き飽きする事も時にはありました
が、まだまだ初々しかった私。たとえ、お客様に「スマイル2つ下さい」と言われて
も、「はいっ」と応えて、<笑顔一発目>→<能面>→<笑顔二発目>と応えていま
した。

そんな私の5メートル後方で、ポテトを揚げていたお兄さん。制服の紙帽子のせいで
顔もよく見えない上に、性格はおろか、名前さえ知りませんでした。が、当時の私に
は、このポテトマンが、とても格好よく見えたのです。

SサイズやMサイズのフライドポテトでは、「ポテトS、2つです」などと、私の一
方的な発話で終わってしまうのですが、Lサイズを頼むと、なんと、「ポテトL、揚
がります」という返事が、彼から返ってくるのです。マニュアルだから、当たり前な
のですが、私にとってはこの10文字が、コミュニケーション成立の証でした。

というわけで、お客様がLサイズを注文して下さると、レジの下でタップ・ダンスを
踊るほど喜んでいました。エル、エル、エルは何の?エル、エル、エルエルエルエル
 この注文に 燃える愛をのせて~♪

・・・いざ書いてみると、驚くほどつまらない話。恋に恋する、というよりは、故意
に恋する、と言った方が正確かもしれません。しかし、今日もどこかのマクドナルド
で、あなたのLサイズのフライドポテトの注文を待っている、という女の子ならば、
きっと共感してもらえるでしょう。

そして、6月に入ると、卒業生のために、それぞれの家でオープンハウス(もしく
は、シニア・パーティ)というホーム・パーティが開かれ、友達の他にも、親戚や近
所の人、教師までもが招かれます。

卒業生本人がそれを望むかどうかは別として、家中、「エリザベス(仮名)、卒業お
めでとう!」とデコレーションされたり、壁中一面にエリザベスさんの生まれた時か
らの写真が貼られたりします。

エリザベスさんには悪いですが、こんな恥ずかしい習慣が日本になくて、本当に良
かったと感謝しています。

私だって、写真から判断するに、幼い頃はそれなりに可愛かったし、小学校四年生く
らいまでは、まあまあイケてると思える容姿をキープしていたのですが、小学校高学
年から思春期に入り、サラサラだった髪も、いつの頃からか水爆のように変異し、肉
もつくつく・つくつくぼーし。

そして、まさしく暗黒時代の、中学校、高校時代。

「人は、外見でなく、中身で勝負」といいますが、いえいえ、外見だってけっこう大
事です。しかも、私の学校は、私服登校だっただけにタチが悪い。

高校を卒業してからしばらく後、写真を見た時のこと。大きなフリルのついた丸襟
や、レースいっぱいの靴下を履いた友人を見て笑うのも束の間、その隣の己自身を見
て、唖然。

変なワッペンのついた、淡い黄色のトレーナーを、わざわざ、ズボン(黄土色)の中
に入れ、ウエストを細く見せたかったのか、ベルトで、ギュギュギュと縛り上げてい
るのです。

しかも、そのズボンは、おそらくリバーシブルだったのでしょう。深く折り返した裾
から見えるのは、赤と緑のクリスマスカラーのギンガムチェック。もうこれ以上の色
を足すのは許されないというのに、足元は、ピンクのラインが入ったテニスシュー
ズ。

卒業という人生の晴れ舞台で、こんな私を、わざわざ白日のもとにさらすだなんて、
とんでもない話です。

もっとも、幸い日本に生まれましたし、既に高校も卒業しましたから、こんな事は心
配しなくてもいいのですが。

きっと、友達や親戚、近所の皆様に囲まれて、一見幸せそうに笑っているエリザベス
さんも、内心は複雑だったに違いありません。

もしも将来、結婚式の時など、過去の写真を提出しなければならない時が来たら、直
木賞選出のごとく、少しでも写りの良いものを厳選するつもりです。

傍から見れば、つまらない見栄かもしれませんが、これもイジラシイ乙女心。

そういえば、水泳の息継ぎの時に、鼻と口をフンガーと目一杯大きく開けた顔を、
プールサイドの友達に見られたくなくて、努めてオスマシ顔で息継ぎをしていまし
た。タイムや肉体的苦痛の犠牲なんて、乙女心の前には、関係ありません。ただし、
その分、水中の顔については・・・見ない方が良いでしょう。お止め心。

シニア・パーティと並行して、6月の2週目に、セントポールのコンベンションセン
ターで、卒業式がありました。

よく映画で見るような、帽子とガウンを身に着けた卒業生が、次々と入場する様は、
なかなか壮観でした。が、おそらく予算の関係なのでしょう、帽子もガウンも、ハ
リーポッターのようなビロード素材というわけにはいかず、汗吸収力抜群、皺残存度
抜群の綿100%。

何だか幼稚園のお遊戯会の大臣役のような衣装で、どうも安っぽい印象を受けたので
すが、それでも、卒業生は皆とてもいい顔をしていました。

「諸君は、今、ここで、ヘンリーシブリー高校を卒業した」という司会者の挨拶と同
時に、帽子を高々と投げるというパフォーマンスも、感動的でした。フライングで、
ヒョイヒョイ帽子が飛んでいたのは、ご愛嬌。

卒業式の後は、今度は学校でのシニア・パーティが、夜通しであります。

このパーティは、式後でお祭り気分の卒業生が、ドラッグやお酒の入ったパーティを
するくらいなら、学校に集めてしまって、徹夜でパーティをしようという発想から始
まったそうです。

私は、次の日に授業がありましたから、徹夜でパーティに参加するつもりではなかっ
たのですが、どんなものかと、ちょっと覗いてみました。

大人が本気を出した文化祭、とでもいったらいいでしょうか。とにかく、すごい。親
や地域のボランティアの方々の協力で、学校が文字通りアミューズメント・パークと
化していました。

壁という壁にペイントがなされ、普段の学校からは想像もつかないような華々しさ
で、ピザやシチュー、ファーストフード、ジュースやアイスクリームなど、食べ放
題、飲み放題。

体育館には、ゴーカートや、エアーの入った巨大遊具やレスリング・スタンド、ダン
スダンスレボリューションなどが入っていて、これらも遊び放題。ネイル・サロンや
タトゥー・コーナーは、女の子たちで賑わっていました。カラオケが入ったカフェが
あったり、本格的なカジノ(お金は偽物)まであったりしました。

日本のちょっとしんみりとした卒業もいいけれど、こういう底抜けに明るい卒業もい
いなぁと思います。

ところで、こちらの公立高校は私服なので、「せ・・・先輩、制服の第二ボタンを下
さい・・・」という、青春の1ページはもちろんありません。

以前、授業中にこの事について説明した時、「僕等は、ボタン・コレクターじゃない
よ」と、一笑に付されてしまいました。イジラシイ恋心と、ボタン・コレクターを同
じにしてほしくないものです。それに一言付け加えておくと、ボタンをもらうのは、
女の子です。少年、君達ではありません。

次の日には、パーティの跡形もなくなっていたので、下級生にとっては、この徹夜の
シニア・パーティというのは、ちょっとしたミステリーのようです。

シニアがいなくなって、学校は何となく寂しくなってしまいますが、残された下級生
は、そんな教師の感傷をよそに、期末テストにむけて、準備を始める・・と思うので
すが、日本と違って、期末テストといってもそれほど深刻なものでもありませんか
ら、これは疑問です。

6月の2週目、期末テストが終わると、9月からの学年は終わり、2ヶ月半の長い夏
休みに入ります。家族と旅行に出かけたり、各種のキャンプに参加したり、アルバイ
トに勤しんだり、各人各様の夏休みを過ごします。

宿題もありませんし、塾もありませんから、文字通り、勉強からの解放です。と同時
に、せっかく一年かけて学んだ事も、夏休みの間に潰崩してしまいます。夏休みが明
けて、「夏休み、日本語の勉強を頑張ったよ」と、快報が聞けることは、まずあり得
ません。

開口一番、彼等が言うことは・・・↑<ハジメニ モドル>

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