お腹が空くと機嫌がわるい
8月31日(日)
夏休みが終わる。しくしく、悲しい。
8月30日(土)
代稽古を行う。今日の担当である。諸手取りを中心に稽古する。相手に二本の腕で自分の腕を持たせる状況は、日常でも、ありそうでなさそうで、あってはいけないことである。感じたのは、動きよりも心の使い方が左右される技であることだ。心の動きが、即座に身体の反応に出やすいというふうにもいえるだろうか。
8月29日(金)
雨が降ったり止んだりの一日。気が重い。ひたすらに目の前のことをこなす。雑用をし、稽古し、片付けて、掃除して、洗濯して、稽古に出かける。ご飯を食べると、少し気が晴れる。
8月28日(木)
大学で借りていたいくらかの図書館の本を返し、新しいのを借りる。夏休みの大学図書館は、人が少なすぎるほど少なくてすばらしい。好きだ。おまけに図書館という場所柄、たいそう静かである。それもよい。誰にも会わず、のんびりと好きに本を選べるのは幸せなことだ。期待している本は、秋以降に入るだろうか。入るだろうと夢見て、読んでいる自らの姿を想像する。読みたいものがたくさんある。もう早くも読書の秋の前触れだ。
8月27日(水)
道場稽古日。賑やかななかにも、張りのある動きがある。その動きが各地でみられる。道場の方同士の交流がスムーズだと、これほどまでに稽古がうまくいくものなのかと、今日もまた、その思いをいっそう強くする。道場は、ほんとうにナマモノなのだなあと感じるばかりである。ナマモノを形成するのが、ナマモノそのものなのだから、ナマモノであるのは当然であるし、実際問題ナマモノ以外にありえないのだけれど。そういうことばで尽くしたことではなく、感覚というか気の問題での話である。
心地のよい夏の風は今日でおしまい。来週はもう9月である。
8月26日(火)
波の音が聞こえる。雨音と間違うくらいの大きな波の音がする。天気がよくないようだ。激しい雨は降っていないが、冴えない空である。明るくなったかと思えば、沈みがちな様子を浮かべている。雨は降らないが、なんだかぱっとしない空だ。
朝食をたらふくいただくと、またもや睡魔が襲ってくる。寸暇を惜しんで横になる。気がつくと深く眠っていた。まどろみから戻ると、また海に出る。すこし様子を見てから、海水に浸る。昨日よりもさらに冷たい。慣れれば何と言うこともない水温なのだが。
浜辺に出て、ぴちゃぴちゃと泳ぐ。昨日教わったこと、去年聞いて、思い出したことなどを少し繰り返す。波が高いので、まっすぐに泳いでいるつもりが、気がつくと波にきれいに流されている。
天気もよくないので、予定を早めに店を閉める。先達の仕方に習い、きちんと海水を拭き取り、海をあとにする。ことしも、ありがとうございました。一礼して、浜をあとにする。そのあとは、宿のご好意でお風呂をお借りし、ふたたび海水を洗い流し、お礼を述べ、宿を出た。
宿の玄関口で、「また来年もよらしてもらいます~」とは、海のツアコンひろやんの声。おおう、そうなのか。では、来年も来るとしましょう。楽しみである。ありがとうございます。
8月25日(月)
ことしも田辺市に行く。ここは合気道開祖植芝盛平先生の縁の地であり、生家跡や墓所のある高山寺が建立されているところである。植芝家の子孫の方もお住まいだそうだ。
変わらないJR紀伊田辺駅のホームには、着くなり「田辺の三傑」のひとりとして、植え芝盛平の名が上げられている(あとの二人は、南方熊楠と弁慶。すごい列挙の仕方である)。
たいへん有名で、いまでは田辺市あげての英雄なのであろう。今回は10月に開催される国際講習会のため、駅構内には、どでかい看板も据えられていた。
朝早く大阪を出発し、お日様がちょうど暑く照り始める10時ごろ田辺駅に着く。レンタサイクルを借りる。まずは市内西側に向かって移動。昨年同様、扇が浜公園内にある植芝盛平翁銅像を拝顔する。ことしもやって来ましたと手を合わせる。記念撮影。ぱちり。
よく見ると目の前は、田辺扇が浜海水浴場、通称カッパークである。昨年は、生家跡や銅像などを探すのに必死で、浜辺を見る余裕があまりなかった。ことしは浜辺に出てみる。舗装されて安全な海として作りかえられているものの、たいへん水のきれいな海である。お盆が明けたからか、ひともまばらである。海の音楽と称するものが高らかに鳴り響くこともない。いっそ足をつけてみたかったが、ビーチサンダルを履いてなかったので、ここは諦めて、海と空を眺めるのみ。
再び自転車に乗り、生家跡へと向かう。ペダルをこいでいると、昨年見た町の風景が懐かしく現れてくる。ことしは迷うことなく目的地に到着。昨年とほぼ同様のスタイルで一礼し、広場を拝み、空を眺める。そして記念撮影。違うことと言えば、撮影機種が携帯のカメラからデジカメへと変更したことだろうか。欲しいと願っていたデジカメ。仕事がらみでも必要になったので、思い切って買った。都合5年は使うことになるだろう。次はデジタルビデオカメラが必要なのだが、どこかに落ちてないものだろうか。
続いて高山寺へ。お盆明けのお寺は、おそらく静かなはずだろう。
ところが、お盆明けゆえにあちこちと舗装したり、修繕したりで忙しく工事関係の方々が出入りする姿がある。墓石が並ぶ通路付近には大きなトラックも停めてある。おそらく秋の講習会で大勢の方が参拝に来られることを見越してのお色直しなのだろう。
植芝盛平先生のお墓の前に来た。手を合わせる。ことし一年の報告とこれからの抱負をこころに抱き、手を合わせる。予め準備しておいて下さったお線香をあげ、蝋燭をたて、お供えをして、その火の光が消えるまで、静かに見入る(どうもありがとう)。
昼過ぎ、紀伊田辺駅に戻る。自転車を返して、電車に飛び乗り、いつもの海へと向かった。宿に着くと、すこしまどろんでくる。ごろんと横になる。ベランダから海が一望できる部屋には、静かに波の音が聞こえてくる。まどろみの中から戻ると、すぐさま着替える。
静かな海に溶け込むように、静かに合わせるように足をつける。また再びここに戻ってきたのだ。
8月24日(日)
明日からが楽しみである。
8月23日(土)
渡仏中の内田先生の代わりの稽古日。指導担当はエグチさん。指導担当がひさしぶりだからなのか、幾分緊張されていたのか、終始声が高かった。もっともはじめから声の高い人ではあるけれども。
稽古後は随分おなかが空くので、最近はおにぎりを握って、持っていっている。わたしは、おなかが空くと極端に機嫌が悪くなる。眠いのも同じくらいに機嫌が悪くなり、次第に、気づかぬうちに当り散らすことがある。あるいは、ところかまわず勝手に眠ってしまう。また、おなかが空くと、暴飲暴食に走りがちだし、まとまった思考もできなくなる。些細なことに苛立ちを覚えることもある。だから、わかりやすく空腹になるときには、おにぎりを持参している。きょうは梅かつお味にした。いくつか作っていたので、エグチさんにもあげる。
8月22日(金)
いまさらながらのことなのかも知れないが、書き加えておこうと思う。
実はこの日録、わたしが日々つけたものがいくらかまとまったら、内田先生にお送りし、ご覧いただいた先生が、そのお送りした分のタイトルとつけるというシステムになっている。というわけで(別に、わざわざお知らせすることでもないのかもしれないが)、日録の更新は、わたしではなく、先生にしていただいているのである。だから、ことしのように、長期にわたって、先生がフランスに出かけられるとなると、次回の更新まで、随分と間が空いてしまうことにもなる。
お知らせしたいのはもうひとつ。
先生がフランスに出かけられたからといって、別にわたしがサボって、何もしていないわけではないということである。フランス滞在中まで、わざわざお送りするようなこともないし、もっとも先生は今回、インターネット接続をできるような状況を設備されていないはずだから、お送りするのを控えているだけのはなしである。
ふと、いくらかでもいいから、短くまとまったものを書こうと思う。
8月21日(木)
『20世紀少年』の続きをひたすら読む。集中しすぎて読んだせいか肩が痛い。
50年に及ぶ歳月の中を動く話なので、出来事のひとつひとつの相関性を記憶にとどめておくのが疲れる。マンガを読んで肩をこらせてしまうほど、内容の濃い話である。日本のなかの、ある一世代の空気を感じるには、いいマンガかもしれない。一読をお勧めする。
8月20日(水)
合宿明けの稽古は、さすがに身体がよくこなれているのか、全体的に話のとおりがいい。
これまでなら、その時点で、こちらのでき得る限りのことばをつくしてみても、相手に届かない、あるいは響かないことが多かった。だが、今日に限っては、これまでと同じことばを使ってみても、すんなりと身体に入り込んでいるという場面が散見された。
すごいことだなあと改めて思う。
たった一日という時間のなかで、同じ場所に泊まり、同じ場所で風呂に入り、ご飯を食べ、同じ時間に稽古しただけなのに。そうすることの効用を思う。全体的なバランスが一時的に向上したのだろうか。
合宿に参加された方のうち、今日の稽古に見えた方の進歩はすさまじいものがある。
残念ながら、合宿に参加できなかった方や今日の稽古に来られなかった方々とは、また違う感触があるのだろう、きっと。
改めて「そのとき、そこにいること」の重要性を思うこのごろである。
8月18日(月)
杖道会で留学する学生さんを送る壮行会。それから、新入部員を歓迎するコンパが同時開催される。
場所もいつもより広く、食事もいつもより多く感じられる。
8月17日(日)
『20世紀少年』をもう一度、最初から読みまくる。理解を深めるためである。
8月16日(土)
お盆明けの稽古である。
稽古のあと、シャワーを浴びても、あまりに暑いので、ちょっくら芦屋川のほとりの川遊びに合流することにした。ところが歩いているうち、突発的な雨に降られ、目的の川に辿り着く前に、身体の半分ほどがびしょぬれになってしまった。集中豪雨的な雨は、その一瞬だけのことで、すぐに止んだ。たまたま、その時間に歩いていたのは、とても残念なことである。仕方なく、駅のホームに上がって風にあたってみた。電車ひとつふたつやり過ごし、服を乾かすその間に、川で足をつけながら飲むはずの三ツ矢サイダーをぐぐぐいっと飲んだ。