エフゲニアのこと

4月23日

「5月のフライトはキャンセルした」
 ロシア人のママ友であるエフゲニアから、そんなメールを受け取ったのは、3月の終わり、ちょうどウォール・ストリート・ジャーナルのアメリカ人ジャーナリストである、エヴァン・ゲルシュコビッチがロシアでスパイ容疑で捕まってからまる1年が経ったと大々的に報道された直後のことだった。

 エヴァン・ゲルシュコビッチは、ソビエト生まれのユダヤ系移民の両親を持ち、ニュージャージ州で生まれ育ったアメリカ人だった。ロシア語を母語とする両親のもと、英語とロシア語のバイリンガルで育ったというバックグラウンドも手伝って、エヴァンはロシア語とその文化的知識を使ってジャーナリストになりたいという夢を持ち、六年間ロシアで、そしてウォール・ストリート・ジャーナルのモスクワ支部の記者として働いていた人物である。そんな彼がスパイ容疑で逮捕されたのが、昨年2023年3月29日のことだった。
 エヴァン逮捕に先立ち、アメリカのバイデン政権は猛烈にロシアを批判し彼の早期解放を求めていたが、その拘束は延長に延長を重ね、結局この一年間、エヴァンはモスクワにあるレフォトボ刑務所で1日のほとんどを小さなセルのような独房で過ごす身となってしまったのである。

 逮捕1年目となったこの日、ウォール・ストリート・ジャーナルは紙面に大きく真っ白な空白部を掲載し、本来ならここにエヴァンの記事が載るはずだったと、彼の不在に対する不条理を強く訴える記事を掲載したが、私はこうした一連の騒動の記事の一つを、ロシア人の友人であるエフゲニアに転送すると、彼女はその返答としてたった一言、「5月のフライトはキャンセルした」と送ってきたのだった。

 ところで、私がエフゲニアと出会ったのは5年前、マディソンでのことだった。「ミートアップ」という共通の目的をもつ人が集まるプラットフォームの「マディソン、映画好き」という集まりで、彼女と隣同士に座った事がきっかけで、エフゲニアはそこで、「映画好きであるとともに女優志望だ」と自己紹介した。私は女優志望ではないが、ロシア映画が大好きだったので、私たちは同世代で同い年の子供を持ち、同じように異国で住む上に、映画好き...という諸々の共通点ですぐに打ち解けると、毎月のように飲みに行く友達になったのである。

 女優(あるいはモデル)志望だったので、エフゲニアは、FacebookやInstagramの投稿の頻度が高い女の子だった。一緒にどこかに出かけると必ず、彼女は私に自身の写真を撮るように求め、それは何度も撮り直しを重ねて、後日それぞれのソーシャルメディアにアップされるのが常だった。
 身長が低いことを気にして、「足が長く見えるように撮ってほしい」と恥ずかしそうに声を顰めて言うこともあったが、エフゲニアは時々、ソーシャルメディアを拠点として広告塔のようなことをしてみたい、と私に熱く語ることもあった。マディソンのローカルなお店の商品を自分が使用し、それをソーシャルメディアに流すことによって地域を活性化させ、マディソンに貢献したい。ローカルな映画制作チームに協力して映画に出演したこともあるが、またそういうこともやりたい。もっともっとやりたい計画があるのだと、彼女はよく私にそう言った。異国で、何をすべきかと試行錯誤する姿勢も、それから子育てが忙しい気持ちもわかる分、私はこの一生懸命なエフゲニアのことが大好きで、私たちは会うといつもたくさんのことを語ったものだった。

 だけど2年前、エフゲニアは突然、Facebookからアカウントを削除した。彼女はその頃、Facebookを削除した理由は、忙しくて見ている時間がないからだと私に語ったが、その言葉を反映するかのように、それからエフゲニアはほとんどInstagramも更新をしなくなった。私が日本に帰国してからも、ポツリポツリと私たちはInstagram上でメールのやり取りを続けていたが、今年の2月になると、彼女は今度は、「Instagramを削除するから別の媒体でやり取りをしたい。」と送ってきたのだった。
「退屈だから」
 どうしてInstagramを削除するのかという質問に対して、エフゲニアはそう短く答えたが、Instagramはインフルエンサーのメインツールとして必要ではないの?という私の質問には答えなかった。その代わり、彼女はInstagramに替わるやり取りとしてWhatsAppというメールアプリで連絡を取りたいと言うと、そこから、LAを拠点にバレリーナとして活躍していたアメリカとロシアの二重国籍をもつダンサーがロシアで「反逆罪」で逮捕されたという記事を私に転送してきたのだった。

「だからInstagramを削除することにしたのね」
 WhatsAppから私がそう尋ねると、彼女は「yes」と言った。「私もヤバ(娘)も二重国籍だから」と。だけどその1ヶ月後、事態はまたしても暗転し、彼女はついに先月末、私からのエヴァン・ゲルシュコビッチの記事の返事として「5月のフライトはキャンセルした」と短く書き送ってきたのだった。

「5月のフライト」というのは、エフゲニアが毎年家族で母国であるロシアに帰国し、そこで数ヶ月ほど滞在する恒例の春の旅行のことだった。母子家庭で育ったエフゲニアは、毎年この時期に母親と過ごす時間をとても楽しみにしていたが、ウクライナとの戦争が始まってからは、アメリカ人である旦那さんが同伴することがなくなり、エフゲニアと娘のヤバの二人だけが、トルコ経由でロシアへ戻って過ごしていた。だけど今年、刻一刻と変わる情勢の中で、きたる5月の旅行を前に、エフゲニアの心は、これまでに感じたことのない大きな不安に揺れ動いていたのである。

「旅行のことを考えると本を読むこともできない!」
 既に買ってしまったロシア行きのチケットをキャンセルする前、エフゲニアはそんなことを言って帰国すべきかどうか葛藤していたが、私は、彼女が結局ロシアに戻らない選択に踏み切ったことを喜ばしく思っていた。というのも、今、ロシアで不当に逮捕されている外国人はエヴァンだけではなかったからだ。10月にもアメリカとロシアの二重国籍を持つアルス・クルマシュワという女性のジャーナリストが逮捕され、彼女は病気の祖母を見舞うために2週間ロシアに滞在しただけだったが、エヴァンと同じくスパイ容疑をかけられている。

「I just miss my mom(母親に会えなくて寂しい)」
 エフゲニアは私にそう言った。
 だけど次に一体いつ、エフゲニアは母親と再会できるのだろうか?
 ロシアによるアメリカ人ジャーナリストの逮捕が冷戦後初であることから、エヴァンの逮捕は「分岐点的な出来事」だと書いている人も居たが、エフゲニアもまた、今年は結婚してから初めて、ロシアに帰国しない5月を迎えようとしていたのである。