フランス的個性の効能

 8月18日。パリに来て、一年ぶりに日本人の美容師さんに髪の毛を切ってもらうことが出来た。ヘアカットの問題は、海外で暮らす日本人にとっては大きな悩みの一つではないかと私は思う。一年前に渡米してからこれまで、私は二度、現地の美容院を恐る恐る訪れたことがあったけれど、どちらも日本の美容室のクオリティに比べたらすこぶる期待外れだったからだ。マディソンで行った一つ目の美容院では、途中からいきなり「スタンドアップ!」の号令がかかり、鏡の前で立たされたままカットされるという驚きの展開を見せたし、二つ目の美容院では、シャンプー台は痛い上に、まだぽたぽたと髪の毛から水が滴る中カットが始まる始末だった。

 「日本の美容院の技術は世界一ですよ。」パリで紹介してもらった日本人の美容師さんにその話をすると、彼はそう言った。「フランス人にとっても、日本人の美容師がわざわざフランスまでカットを学びに来るのが不思議らしいですよ。」個人宅で口コミだけの流しの美容師をしている日本人美容師である通称「ダッツさん」は、日本式の素晴らしいシャンプーを施してくれながらそう教えてくれた。渡欧5年、パリコレなども経験し、最終的に個人でひっそりとサロンを開いている彼は「でも僕は日本でやるよりは、パリで切る方が性に合ってて好きなんですよね。」と語った。ダッツさんにとって、海外で切ることの醍醐味は、「フランス人の個性」に触れることだそうだ。彼らはいつも「自分をよく知っている」とダッツさんは言う。フランス人は自分に一番似合うものを知っているから、流行に流されない。確固とした自己を持っていて、それをちゃんと主張する術を知っているのだそうだ。

 ダッツさんの話を聞きながら、私は「そういえば。」と思い当たる。フランスでは買い物をするとき、私が迷っていると店員がとにかく「こっちがいい」ときっぱりと主張することが多いからだ。アメリカだと、たいていこちらが迷っていると適当なことを言われた後ほっとかれるのが関の山だが、フランスでは「あなたはこっちがいいわよ。」と気持ちがいいほど押し切られることが多い。ほとんど命令口調だが、だけど不思議とそのアドバイスは正しかったりする。また、一度はパン屋さんでクロワッサンを二つ購入しようとしたマダムが、ケースから取り出す店員に「違う、それじゃない。奥から三つめのその隣のクロワッサンを取って。」と細かく指示しているのも聞いたことがあった。私には、そのケースに入っているどのクロワッサンも同じ色と形にしか見えなかったので(おそらく味も一緒だと私には思えた。)、その時もフランス人のこだわりの奥深さに驚嘆したものである。彼女にとっては、ショーケースに並んでいるクロワッサンの一つ一つのも、個性があったのだろう。

 だからこそ、街ですれ違うフランス人の行動にもどこかしら「確固たるもの」があるようにも私には感じられる。知らない人同士が、まるで知り合いであるかのように堂々と自分の意見を言い合ったり、言葉をかけあう瞬間を見ることがあったからだ。今日も、ダッツさんのサロンに行く途中のメトロでちょっとした事件があった。実は、私の乗っていたメトロに、少し頭のおかしい黒人の男の人が、何か怒鳴りながら乗車してきたのである。彼は私が座っている座席とは反対方向へ歩いていき、そこに座っていた小学三年生くらいの白人の男の子に向かってなにやらまくし立てたのである。小学生の男の子からしたら知らない頭のおかしいおじさんである。隣には若くて美しい男の子の母親が座っていた。だけど次の瞬間、最悪なことに、その頭のおかしい黒人が小学生の男の子の頬をパチンと軽くはたいたのだ。私は恐怖で身がすくんだ。見ると、男の子も顔をこわばらせてはいたが、母親は何も聞こえてないふりを決め込み、男の子に何やら毅然とした態度を取るように話しかけていた。黒人の男はなおも何か男の子に向かって話しかけようと試みていた。その時である。見かねて後ろから中年のおじさんが立ち上がったのである。フランス語なので何を話しているのか分からなかったが、彼は黒人とその小学生の間に滑り込むと、男の子を守るように立ち、誰もが注目しているのもお構いなしに黒人に向かって長いこと怒鳴り返した。それを皮切りに、後ろから黒人を責め立てる女性の声も聞こえてきた。まるで絡まれた母子を守る正義のヒーロー達である。

こんな正義のヒーローは日本でも起こり得ることだろうか?もしかするとあり得ることなのかもしれない。だけど私は、こういう公の場所で自分がふと「こうした方がいいのではないか?」と思ったことを、ストレートに信じてふるまうということの難しさについて考えてしまったのである。お客様に自分が「こっちの色の方が似合っていますよ」と強く勧めることも、誰にも理解されないかもしれないけど「このクロワッサンがクロワッサンの中で一番美味しそう」と店員に主張することも、あるいは「子供を守らないといけない」という当たり前のことを行動に移すことも、すべてが私にはとてもじゃないけれどなかなか出来るものではないし、恥ずかしさや自己防衛に駆られて表には現れない感情の一種に思えたのである。だから、こんな風に迷うことなく自分の信じた意見を知らない人にさえ言えるということが、私には「自分」という哲学を持っているフランス人の、フランス文化の、ある種諸刃の剣のような美徳に感じられたのである。