「武士道というは、死ぬことと見つけたり」
8月20日
夏合宿の2日目。
朝起きたけれども、やはり異様に暑い。
「何だこれは」と思うほど暑い。
早朝のお稽古では呼吸法をいろいろ行い。朝食後のお稽古では正面打ちの技をいろいろ行う。
やはり今日も少し動くだけで暑くなってくる。
日曜日の午後からは恒例の審査・・・なのだけれども、3級審査・1級審査・初段審査とあまりにも人数が多かったため全ての審査を見ることができずに泣く泣く帰ってきた。
つっちーの3段審査と、K和田氏とK藤氏の4段審査は是非とも見たかったのですが。。。
8月19日
夏合宿に行く。
荷物をまとめて、杖と木剣を持って、上越新幹線に乗って越後湯沢まで行く。
既にこの時点で、移動しているだけで暑い。
越後湯沢に着いて、迎えに来てくださった宿の方のマイクロバスを探す。
宿の方が「女性の方が後3人」いらっしゃいますと言っていたので、後輩のOGの誰かなのだろうと思い試験勉強などをして時間をたらたら潰していると、今は苗字が「K藤」になってしまったまっすーと、K谷さんとI嶋さんと一緒に、多田先生も一緒にいらっしゃったので、突如として緊張して背筋が伸びる。
そこから宿まで多田先生の隣に座らせて頂いたが、緊張していて何か話したいことがあったはずだけれども、何も話すことができずに終わってしまった。
それからオムライスを食べて、午後のお稽古。
午後のお稽古は諸手取りを中心にいろいろな技を行ったけれども、これまでに経験したことがないくらい異常に暑かった。
お稽古が始まって30分くらいたって、髪の毛の立っている昨年の主将のI藤くんなどを相手に入身投げなどをやっている最中に、「これはやばい。根性が足りなくて気持ち悪くなったのではなくて本当に熱中症かもしれない」と思い、急いで外に出て頭から水をかぶる。
暑さにやられたのはわたくしだけではなくて、他の人もかなりのダメージを受けているみたいなので、多田先生も途中で体術のお稽古を切り上げ、気の感応のお稽古や杖のお稽古に切り替える。
もう大量にお水を飲んでいるのだけれども、飲んだ後からすぐに汗になって体外に排出されるという感じ。
ごはんを食べた後に、多田先生のお話。
今回は、高橋重敏氏が「新武道」に寄稿された「鍛錬に極みなし」のプリントを元にいろいろとお話をされる。
この「鍛錬に極みなし」という文章は、第二次世界大戦中の最中に、一切の武道の教授を止めて茨城県の岩間に隠棲した植芝先生を高橋氏が訪問した際のことが書かれている。
植芝先生がどうして一切の武道の教授を止めて茨城県の岩間に隠棲したのか。という理由は、「武道は敵を倒すのに最も効果的な武道であるので、他の武道の教授を止めて合気道のみを教えることにしたい」という軍部の要請に対して「合気道は人を殺すための道具では無い!」と激怒されたことがきっかけである。
その事から「心法の道」(社会的に要請される人間の育成の道)と「心学の道」(「世界」と個人との結びつきを強化し、世界の真理や命の源を探究する道)が時に相反する事があるということを仰られる。
今の時代は、第二次世界大戦中と同様に「心学の道」が非常に軽視されているという懸念から、このようなお話をされたのだろうと個人的になんとなく思った。
それと、最後に多田先生は「武士道というは、死ぬことと見つけたり」という「葉隠」の一節の意味について説明してくださった。
ここに書かれている「死ぬ」というのは実際に死ぬということではない。。
「死ぬ」のは個人の矮小な自我や欲望であり、重要な選択をする際には、自分の利益となる選択ではなく真の道を選択するということが武士としての生き方なのだ。というのがこの言葉に込められた意味だのだそうだ。
8月15日
まりりんたんと一緒に舞台「噂の男」を見に行く。
わたくしは一昨年の大河ドラマ「新選組!」を見て以来、ずっと堺雅人さんのファンだった。
(ちなみにまりりんたんは一昨年の大河ドラマ「新選組!」を見て以来、ずっと山本耕史氏のファンだ。)
なので、堺さんが出演するお芝居があると聞いて、チケット購入希望者が殺到する中何とか2人分のチケットを手に入れて今日の日を迎えたけれども、、、お芝居を見終わった後はものすごくイヤーな気分になってしまった。
おそらく演出のケラリーノ・サンドロビッチ氏が見終わった後ものすごくイヤーな気分になるような演出を行ったのだろうけれども、「8000円出してチケットを買ったのに見終わった後ものすごくイヤーな気分になるのはちょっと嫌だ」と思ってしまうのは、お芝居を見る修行がまだまだ足りないのだろうか。
8月5日
毎年恒例のものを燃やす会を実施。
今回はわたくしのお誕生日祝いも兼ねるということで、アイスクリームのケーキとシャンパンも用意しておく。
ケーキを買ったときに「ロウソクは何本必要ですか?」と聞かれたので、自棄になって「30本お願いします。」と答えた。
そのローソクを気合でケーキの外周に立てて、全部のローソクに火をつけて、それから「Happy
Biethday」を歌って、一気に吹き消した。
「自分が大人になったときには、こういうことをやっているような大人になっているとは思わなかったな。。。」という思いが少し頭をよぎったけれども、それでもけっこう楽しいような。
その後、ローソンで買った品々やすてきまん氏が持ってきて下さった餃子と珍しい焼酎などを飲みながらいろいろ話した後、ものを豪快に燃やす。
「ものを燃やすということはどうしてこんなに楽しいのだろう」とみんなで言っていたけれども、ものを燃やしていると自分の中の何かがすっきりしていくので、こんなことを書くと人々にドン引きのだろうなと思うけれど、やはり楽しい。
7月29日
朝日カルチャーセンターで内田先生と釈先生の対談「現代霊性論」を聞きにいく。
3月の内田先生と平川克美氏の対談の時には、職場の引越しとお仕事の忙しい時期が重なってしまって、思わずして日時を間違って記憶してしまい聞くことができなかったので、今回はものすごく楽しみにしていた。
しかし当日になってみると非常に調子が悪く、何かしようとしても普段かかる時間の2、3倍はかかる。
それでも何とか新宿の住友ビルにたどり着いた時にはすでに対談が始まっていて、内田先生がUFOを見たというお話をなさっていた。
それから、わたくしが覚えている限りでは、
・何故今「現代霊性論」という題で何かを語ろうとしたのか。
・ネタばれ厳禁であるが、「スーパーマン・リターンズ」でスーパーマンは実は○○○○である。
・「嫌われ松子の一生」は日本人の心の琴線に触れる霊的な映画である。なぜなら前編が既に亡くなった「松子」の語りという構成になっているからだ。
・最近の人々の死者に対する扱いがひどくなっている。お棺に入っている仏様の写真を携帯カメラの写メールで撮影する人もいるし、釈先生が「お骨はどうしましょう」と尋ねると「宅急便で送っといてください」と答える人もいる。
・どうして「成人式で若者が荒れるのか」と疑問に思う人もいるが、それは現在の成人式がやるだけ無駄だからだ。成人式というのは、行う前と行った後で成人式を行った若者に対する周囲の扱いが「子供」から「大人」へと変化しないといけない。
・(上の話題に関連して)現在では人々が成長に伴って「改名する」という習慣も失われてしまった。
・(質問コーナーでの回答として)仏教には「薫習」という言葉がある。良い行いや良い言動を重ねていると何となく良い「本当の薫りではないけれども、何となく良い薫りのように感じられるもの」が体やその周囲に染み付いていき、悪い行いや悪い言動を重ねていくと「何となく悪い薫りのように感じられるもの」が体に染み付いていく。この「薫習」というものは本人が死んでも後々までずっと残る。
というような話題があった。
内田先生の公演を聴くのは久々のことでしたが、面白かったです。
7月23日
何だかんだ言っていてもまた日記を書いていない。
「文章を書く」ということを欲する脳の部分が著しく退化してるいるらしいので、おうちのCDラックの中から「頭の回転が驚くほど速くなるCD」を取り出して一通り聞いてみると、何となくちょっとましになったのかな?という気もしてくる。
今日は入浴した後、もう一度改めて「私家版・ユダヤ文化論」を読んでみる。
わたくしも加藤典洋氏と同様に、「なぜいまユダヤ文化が問題なのか、まぬけなわたくしにはよくわからなかった。」
しかしこうしてもう一度「私家版・ユダヤ文化論」を読み返してみると、この本には非常に重大なことが書かれているのだということが分かった。
ある種の知的負荷から逃れようとしたり、自分の存在していることに対する責任を免れようとする人々は、知的に愚鈍であることを選択し、自らの立ち位置を「子供」に設定する。
自分以外の人間から「恐れ」「憎しみ」「畏敬」の感情を向けられ、それを引き受けた人間は立ち位置が「大人」に設定される。
19世紀〜20世紀にかけて欧米で工業化・都市化が進み、そのことに対する様々な弊害が生じた時、反ユダヤ主義者となった人々はそれらの弊害を、全てユダヤ人によって引き起こされたものと考えた。
「19世紀〜20世紀にユダヤ人が非常に憎まれるようになった理由」というものが今までよく分からなかったけれども、工業化・都市化が進むことによって生じた負の現象が全て「ユダヤ人の陰謀」とされたのだということを知ると、この時期にシオニズム運動が盛んになったということの理由も腑に落ちるようになった。
今の世の中も現在進行形で情報化が進み、そのことによって大きな変革を迫られることになる。(そして情報化による弊害を最も大きく受けるのは日本だと予測されている。)
この「変化」に対して、「他者」に全ての責任をなすりつけるのであれば自らを知的に愚鈍である「子供」として自我を確立することになり、自分以外の人間から向けられた「恐れ」「憎しみ」「畏敬」の感情を引き受け、「変化する状況」に対して自分自身の選択によって何かをすることが可能であると捉えるならば、「大人」として成熟することが可能になる。
このことはきちんと心に留めておこうと思った。
7月16日
日記を書くことを再開しようと思ったけれども、この1か月間いろいろなことが起こっていたので、なかなかおうちに帰ってからパソコンを立ち上げてテキストを打つような気分にもなれず、というような感じだった。
「時間的に余裕がない」というよりは「精神的に余裕がない」という感じで、普段ここに書いているような文章というのは、業務中に頭に浮かんだり外を歩いていたりするときに頭に浮かんだりしていたテキストを文章に起こしているのだけれども、書きたいことはあるのだけれども2週間近く全くテキストが頭に浮かんでこないという状態が続いていた。
日記を書くより、プライオリティの高いことがあったので仕方がない。
しかし、これからは少しずつでも文章は書き続けようと思う。
6月24日
大宮合気道倶楽部のS田様の御好意で、お稽古に参加させていただく。
おうちから大宮までは「駅すぱあと」で検索したところ40分強だったので、一時間くらい時間を見ておけば余裕かな?と思って1時間15分前におうちを出かけて、とことこ出かけていったら乗り換え等や駅から道場までの歩きの部分で予想外に時間がかかってしまって、道場に到着したときにはすでに15分ほど遅刻してしまった。
「どうしよう。これは申し訳ないことをしてしまった」と思ってものすごくあせったけれども、道場が広くて立派で、剣道場・弓道場なども含めていくつか道場が存在するため、どこでお稽古が行われているのかよくわからない。
さらに10分ほど右往左往したところで、ようやく2階の道場で呼吸が行われているのを発見する。
「呼吸をやっている間は道場に入らない」というのがお約束なので扉の前でじっと待っていると、花香師範の奥様に声をかけて頂き、中に入れて頂く。
それから、呼吸をして、膝行をして、杖を振って、横面打ちの技をいろいろ行う。
一番の感想は、「道場が広い!」ということだった。
普段のお稽古では、どうしてもお稽古中に人とぶつかったり、杖を振っていると隣の人と杖がぶつかったりということが頻繁に起こってしまうけれども、普段お稽古で使用している駒場の第一体育館の柔道場と同じくらいの広さの場所を10人前後で使っているので、思う存分投げたり杖を振ったりすることができた。
お稽古のあとに、S田様にライムサワーなどを奢って頂く。
本当にありがとうございました。
うつ病をこじらせたり袴を無くしたりした関係でしばらくご無沙汰することになってしまいましたが、またなにかありましたらよろしくお願い致します。
6月18日
今日は久しぶりに本部道場に行って、合気道のお稽古をする。
しかし、お稽古があまりにも久しぶりであったのと、最近妙に身体が疲れやすかったということもあって、思うようには身体が動かない。
準備運動をしていても、足捌きをしていても「何というかいまいち体に粘りとキレが無いよなあ」と思ってしまう。
それに、「取り船」をしているうちにおなかの底から何やらけったいな気体のような物がぼわっと湧き上がってきて、その湧き上がってきた物を吐いてしまった。
そのけったいな気体のような物を吐いてしまった後は少し楽になった。
あれは何だったのだろう。
邪気の塊だったのだろうか。。。
6月17日
棒茄子を収穫したこともあるので、パソコンを買うことにした。
いままではお友達のまーべらすちゃんから無期限貸与を受けていた東芝のDYNABOOKを使用していたけれども、さすがにスペック的に微妙な感じになっていて、Skypeを使ってみようと思ってダウンロードしても使えなかったり、その他何か新しいソフトをダウンロードして動かしてみようと思っても使えなかったりしたので、さすがにもう少しスペックの高いマシンに買い換えることにした。
大昔はSONYのVAIOを使用していたけれども、そのマシンは34万円だった。
それに比べると、今回買ったemachinesのマシンは7万8千円だったのでかなり安くなっている。(ノートパソコンとデスクトップの違いはあるけれども)
おうちに帰って、配線を繋いでみるとやはり起動の速さが違う。
マシンが新しくなると、なんか嬉しい。
大切に使っていこうと思う。