済州4・3映画『ハラン(寒蘭)』報道資料

 アジア・太平洋戦争終結後、東アジアで次々と大虐殺が起きました。その一つが、済州4・3です。現在は韓国の一行政エリアとなった済州島で起きた大虐殺について、国内では長らくタブーとなっていましたが、水面下で事実の発掘作業が模索され、民主化を経て公となりました。初めて商業映画として済州4・3を描いた『チスル』公開は、2014年です。「チスル」とは、現代の済州島では商品にならない「ジャガイモ」を意味します。収穫後の畑に残っている、小さなジャガイモです。
その次に2025年映画『ハラン』が公開されました。「ハラン」とは「寒蘭」の韓国語発音で、冬に咲く蘭を意味し、極限状態を生き抜こうとした人びとを象徴しています。日本では、『済州島四・三事件 ハラン』というタイトルで2026年4月3日から上映が始まり、予想を大きく上回る反響がありました。日本での公開前に、報道用資料とパンフレットへの寄稿を依頼されました。日本各地での映画上映も一段落したようですので、公開していなかった報道用資料をこちらで掲載します。パンフレットは、報道用資料を一部削除したものですので、こちらの方がやや長いです。

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「済州島四・三」とは
1945年の日本敗戦に伴い、朝鮮半島にアメリカ軍と旧ソ連軍が進駐、分割占領した。南朝鮮ではインフレや食糧不足が深刻化し、民衆の不満が募っていた。1947年、済州島で行われた三・一節記念集会で警官の発砲により民間人が死亡したのを機に、島民はアメリカ軍政への反発を強めるが、これに対し軍政と結託した極右集団や警察による弾圧が激しさを増していく。1948年、アメリカ軍政が南朝鮮の単独選挙を決定すると、反発した一部の島民が4月3日に武装蜂起。国防警備隊や韓国軍、警察、極右集団が長期間にわたり島民を弾圧した。同年10月に焦土化作戦が始まると弾圧は苛烈を極め、1954年9月までに30,000人近くが犠牲になったとされる。政府の反共路線の中で長らく真相が伏せられていたが、2000年、真相究明と犠牲者の名誉回復がなされることとなった。
(監修:伊地知紀子/大阪公立大学)

報道資料:映画『ハラン』
 映画『済州島四・三事件 ハラン』の日本上映で初めて済州4・3に出会った人は、なぜこのような大虐殺が1948年に済州で起こったのかと疑問を持つかもしれない。日本は、アジア・太平洋戦争の敗戦国として米軍政下にあった時期だが、米軍政の範囲は朝鮮半島南部にも及んでいた。済州4・3は、日本とは別世界で起きたのではない。日本による朝鮮の植民地支配の崩壊と米ソを二極とする冷戦体制の始まりを一気に強いられた地が、済州であった。
劇中、島の中心にそびえる漢拏山に残された日本軍のダイナマイトが示すように、日本による植民地支配下の済州は、対米戦争の最終決戦地とされていた。1945年8月15日を迎え、解放朝鮮では、各地で自分たちの手による国づくり(「理想の社会」づくり)が活発化した。だが、朝鮮半島部での自立的な動きは、日本の次にこの地に踏み込んできた米ソとその手先となった人びとにより次々と弾圧され、済州は最後の標的地となったのである。
 済州4・3の「4・3」とは、1948年4月3日を示す数字だ。この日、南北分断につながる南朝鮮単独選挙への反対、また米軍政・警察・右翼による横暴への抗議から、300人ほどの島民(済州4・3の歴史では「武装隊」と呼ばれる)による武装蜂起が決行された。同年10月、韓国軍による「焦土化作戦」が始まる。国軍の指揮権は駐韓米軍司令官にあった。海岸線から5キロ以上の山側エリアは「敵性区域」とされ域内にいる人間は殺戮の対象となった。解放前に立命館大学を卒業した武装隊司令官・李徳九は49年6月に戦死したが、朝鮮戦争の最中にも虐殺は続き、武装隊の最後の一人が逮捕される57年4月までに3万人近くの島民が犠牲となる凄惨な結末を迎える。政府軍(済州4・3史では「討伐隊」)による犠牲者が8割という事実は、半世紀後の95年に初めて明らかになった。残り2割の中には、武装隊による犠牲者もいるということだ。
 劇中、何度も出てくる「理想の社会」という言葉は、もちろん全ての島民にとって同様に掲げられていたのではない。家族を探しに下山しようとしたイチョルは、途中で出くわした村人らに政府軍への密告を疑われ、「家族が死んだら理想も何もありません」と返答するが射殺される。同様に娘を探しに下山しかけた主人公である母・アジンは、自分たちを標的とする政府軍に銃や槍で立ち向かおうとする人びとに対して叫ぶ。「理想の社会」を掲げても「復讐したらあなたも彼らと同類です」、と。政府軍とて一様ではない。「助ける」と自首を促す政府軍のビラを見て山から降りようとする村人に、「山へ戻ってください」と話かけた軍人は、上官に直ちに射殺された。殺された軍人は済州語を話しており、地元出身だったのだろう。
 済州4・3は、韓国歴代政権のもとで半世紀近く正史から消されてきた。韓国という国家の正統性を揺るがすものだったからである。『済州島四・三事件 ハラン』は、済州4・3のなかにいた人びとの姿をくまなく描き出そうとする、限りなくノンフィクションに接近したフィクションである。済州4・3を描き出そうとするとき、加害と被害をきっちり分けることは凄まじく困難であることを多角的に映し出す。

 済州4・3の最中に、父・兄・姉を殺された安基男さんの家に30年以上通いながら、各村むらの体験、またこの時期に渡日した経験を数多くの人びとから聞いてきた私にとっても、劇中で描かれるシーンごとにお一人おひとりの姿を観るようだった。安基男さんの父は、同じ村の人の密告により政府軍に殺された。日本の植民地期に小金を稼いで脱穀場を経営していた父への妬みが理由だったという。村の18歳から35歳までの男性が集められ小学校で政府軍に集団虐殺された中に兄もいた。姉はお腹の子どもと共に政府軍の流れ弾に当たり手当てもできないまま、腹の子どもと共に亡くなった。朝鮮戦争が始まる前に同じ村の女性と結婚した安基男さんは、政府軍の男性に妻を奪われた。政府軍に殺された者の家族は「暴徒」、つまり共産主義者の遺族となる。安基男さんは、国是が「反共」である韓国で生き延びるために、朝鮮戦争勃発後に韓国軍に志願したのだった。
 生き延びるために向かった先に、日本がある。ただ、村を出るのは容易ではなかった。劇中に触れられるように、「通行証」を持たずに村から出ることは禁じられた。アジンのような女性たちはどのように生き延びたのだろうか。村の領域ではあるが、済州の女性たちが多く従事した海女仕事のために、海に入るにも厳格な時間制限があったという。当時12歳だった新村里の金徳仁さんは、ワカメや海苔、ヒジキを海辺で採集し粟と炊いた。腐ったイモも団子にした。「生きてきたのが不思議だ」と語った。
 大林里で大海女だった李性好さんは、父や兄姉のいる大阪での工場労働を目指して解放前に渡日し、結婚のため帰郷、済州4・3では夫婦で武装隊側の北西部地域の代表として活動した。日本語を話し土地勘のある李性好さんは、武器の調達を依頼され大阪へ密航し、銃を一丁入手し再度密航船で済州に戻る途中、同乗者に銃の存在を知られ海に投げ捨てた。上陸するや否や警察に拘束され拷問を受けながらも署内にいた親戚のおかげで釈放、大邱の刑務所に収監されていた夫の元へ向かうも瀕死の状態であった。夫を荼毘に付し、身の危険を考え兄のいる大阪へ渡った。
 東日里で生まれた姜京子さんは次兄と次姉が武装隊に入り母と自身は村に残ったが、母は警察で激しい拷問を受けた。釈放後に次兄と遭遇した時に、彼が「お母さん、ごめん」、「僕らのために、お母さんこんな目に遭わして」と泣いた。母への拷問のあまりの酷さに祖母が母娘で日本に行くように勧め、父・長兄・従兄が解放前から在住する大阪に向かった。
 兵庫県西宮市で生まれ高等女学校を卒業した高蘭姫さんは、解放後一家で本籍地の新村里に向かった。新村の学校で教員をしていた李徳九に誘われ、武装隊との連絡係を担当した。そのことを密告され、父が高蘭姫さんを母方叔父のいる大阪へ逃す手配をした。密航船に乗船した時に、港に来た李徳九が「君たち、良心があったら今すぐ降りろ、こんな大事な仕事の途中で自分らだけ逃げて、どうするんや」、「おまえらは逃避者や」と叫んだ。高蘭姫さんは父の願いと李徳九の声の狭間で葛藤しながらも大阪に到着、その後、父は娘の身代わりとして政府軍に「代殺」されたのだった。ある女性は、政府軍による強姦の噂を聞き、便所に溜まっていた糞尿を体や部屋に塗りたくり気が違ったふりをして襲撃を逃れたと語った。その後、直ちに彼女は大阪に密航した。いずれも、私が大阪で伺った話である。

 間に一人置けば、みな親戚姻戚あるいは知り合いだというほど人間関係が密な済州社会の中で、加害と被害が錯綜し、「暴徒」遺族と記録されれば就職も困難な時代を生きてきた人びとは、声を奪われ、感情を潰されてきた。その姿を、小説『火山島』を代表とし済州4・3を書き続けてきた作家・金石範は「悲しむ自由」さえなかったと表現した。脚本・監督の両方を務めたハ・ミョンミが「身体的な体験に焦点を当てること」に注力したと述べるように、もう一人の主人公であるアジンの娘・ヘセンは、済州の人びとの身体感覚を体現するかのようだ。政府軍の一斉射撃により、集められた村人は次々と倒れていった。祖母と共にいた6歳のヘセンだけが偶然銃弾を受けずに生き延びる。その後、ヘセンは声を発することも表情を変えることもなく、難を逃れるために漢拏山に上がった母・アジンのもとへと向かう。
『済州島四・三事件 ハラン』の登場人物たちが放つ言葉は、虐殺に正当な理由などあるのかという、歴史的にも現在的にも世界各地で繰り広げられてきている不条理に向き合うことを促す。二度とこの悲劇が繰り返されないために、アジンがヘセンに語る言葉は観る私たちへと向けられている。

 読み書きができるようになったら、今日起こったことを書き記しておいて。話し言葉
は消えても文章はずっと残ると、あなたの父親が言っていた。読む人がいなかったとし
ても、この恐ろしい惨劇をあなたと私が忘れてしまったら誰が記憶にとどめると言う
の?ヘセン、生きるのよ。生きてほしい。

 済州では、毎年4月3日に漢拏山の麓にある済州4・3平和公園で「済州4・3犠牲者追念式」が開催されている。映画『済州島四・三事件 ハラン』を観て、済州4・3についてより知るために関連書籍を読んだり、現地の追念式や済州4・3平和公園内に設置された資料館を訪れるのもいいだろう。すぐに済州に行くことが叶わなくても、毎年4月に東京と大阪で済州4・3の慰霊祭が開催されている。2026年は東京では4月25日に「追悼の集い」が、大阪では4月19日に「慰霊祭」が予定されている。大阪には、2018年に天王寺にある統国寺に建立された「済州4・3犠牲者慰霊碑」がある。済州4・3に出会う場は、日本の中にすでにある。