11月25日(月) 『コンビニ人間』についての身も蓋もない論

 今日なんとなく『コンビニ人間』はエイセクシュアル(他人に対して全く性欲を抱かない人間)なのだろうかどうなのだろうか、ということを考えた。それで、ちょっと違うのではないかと思った。主人公の古倉恵子(以下K)は橋本治の定義によれば「性欲でしか動けない人間」だと思う。Kにとっての「他人の都合」は、「他人ができるだけ幸せになるように」という視点で必ず終結する。しかし「他人に幸せになってほしい」というのはKの都合でしかなく、それゆえにKの行動原理はすべてK自身の都合によって支配されている。

 例えばKが死んだ小鳥を見ていきなり「これ食べよう」という場面。

"私は、父と母とまだ小さい妹が、喜んで小鳥を食べているところしか想像できなかった"

-『コンビニ人間』p13文春文庫

 これはKが他人の幸せを想像している場面である。

"父も母も、困惑していたものの、私を可愛がってくれた。"

-『コンビニ人間』p16文春文庫

 これはKが他人の行動を説明している場面だが、Kには「よくわからないけど、父や母は私の幸せを望んでいる」という認識しかできない。

 "私は、白羽さんの存在が自分にとって有益かどうかどうか考えていた。母も妹も、そして私も、治らない私に疲れ始めていた。変化が訪れるなら、悪くても良くても今よりましな気がした。"

-『コンビニ人間』p109文春文庫

 これはKが結婚について考えている場面だが、ここでいう「まし」とは「疲れのない状態」、つまり、「今より幸せな状態」の一種だ。

 さて、そのようにKの行動を読めばKの視点はなんとも涙を誘うほど思いやりの深い視点のように思えるが、ちょっと待ってほしい。「他人」とは、常に自分の幸せを優先して行動するものなのだろうか。「他人」とは、Googleマップが目的地への最短距離を計算するようにつねに幸せへの最適解を探索し続けるものなのだろうか。違うはずだ。人間は自分の健康を害ったり、自分を傷つけるようなことをあえてする不思議な存在である。つまり、「他人」は不幸を追求することもある存在であり、「他人の都合」は幸福と矛盾することもある存在だということだ。「他人の都合」には、「幸せにならないように行動する都合」が織り込まれているのである。この点をKはつねに見落とし続けている。

 Kは「幸せと矛盾する他人の都合」がわからない人だ。その意味において、 Kは「他人の都合」がわからない。「あえて不幸を追求する人間」の意味がわからない。これをキッパリ言ってしまうと「性欲でしか動けない人間」になる。

 さて、『コンビニ人間』についてなぜこんな分析をしないといけないのか。それは、まさに今僕が暮らしているブダペストの「普通の人たち」が他人の幸せを最大化するように行動しているからだ。ブダペストだけではない。今や世界中の人が、「みんな幸せになったらいい」と思って行動していて、特に疑問も持たずにそれを「いいこと」だと思っている。特に家族は身内の人間に対して「幸せになってほしい」と思いがちだし、先生は生徒に対して「幸せになってほしい」と思いがちだし、グローバリストは海外でがんばる他のみんなに「幸せになってほしい」と思いがちだ。しかし待ってほしい。我々には、その「他人を幸せにしたい欲」を裏切ることは許されていないのか?