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2004年12月 アーカイブ

2004年12月04日

微熱の日々

12月3日
今日も祖母宅にお泊まり。

実は、ここ3日ほど、またまた微熱が取れない。
そもそも風邪気味だったのだから、当たり前である。
朝になると下がるので、寝ている場合ではないため出勤したりしていたが、今朝は朝になっても下がらない。
困った。
やはりまだ少し休養が必要なのか。

母に言われていたのだが、自分の身体の方が大事なので、たん熊のお稽古をあきらめ、午前中を身体を横たえて過ごす。
ああ、明日から雨だから洗濯したかったのに、その気力もなかったなあ。

午後になって、漸く動きだし、先週血液検査をしてもらったので、結果を聞きに主治医のところに行く。
「うーん。こんな事言うのも何やけど、結果は風邪やな」と言って笑いながら、「風邪らしいから検査したから、当たり前やなあ」と続ける。
ぶっと吹き出してしまった。
ただ、身体の免疫力が落ちているらしいことが伝えられ、ついでに鉄分不足とも言われた。
ここで検査が出来ないが、どうも肺結核になりかねない感じなので、今すぐとか結核になっているとは言わないが、念頭に置いて、咳など気になるほどひどくなれば、専門医にレントゲンを撮ってもらいなさいとも言われた。

笑いで気分がとても紛れたので救われたが、少しショック。
けほけほ。

12月1日
早いもので、もう師走。
師でもないが、私もばたばたと走り回っている。

映画の日、及びレディース・デイなので、そろそろ終わってしまうであろう「隠し剣・鬼の爪」を、早退して見に行く。

誠に申し訳ないが、「たそがれ清兵衛」とダブることが多く、二番煎じに見えて仕方ない。
また、「チャンバラ」シーンが相変わらず少なくて、もう「殺陣」はチャンバラの醍醐味として位置づけられないのであろうか、それともやはり動きが出来ないせいか、と少しばかり悲観する。
ついついそこに目がいくのは、おそらく私の専門としているところであるからであり、他の観客はそんな風には見ていないのかも知れない。
観客も結構ご年配が多く、映画終了後の感想に聞き耳を立てると、「映画館で時代劇を見るのが久し振り。やっぱりいいねえ」といった事を言うてはる。
おそらく映画全盛期に、洋画もいいが、時代劇も楽しみに一つであったのであろうと推測し、参考にしたいと思ったが、さすがに話しかけることは出来なかった。
小心者である。

さてさて、映画に話を戻すと、「ナンバ走り」(パンフレットにも記載してあったが)を強調するように描かれていたのは、ここ最近の流行の取り入れか?
でも、メインとなる侍たちには指導したのであろうが、その他大勢の人たちはもちろんのこと全く出来ていない。
これも時代の流れで仕方ないのかも知れないが、方言に力を入れているのは分かるが、あちこちで現代語の台詞が耳について仕方がない。

まあ、矛盾が多々あるのは、いつの時代も変わらないのでそこは楽しんでみているが、妙なところで「リアル」に見せようとするだけに、どうしても目についてしまう。
荒唐無稽でもいいではないか。
それを、或る場面ではいかにも、当時を再現しようとしたこだわりが、悪く言えば誇張的に見えてしまうため、全然出来ていないところが結局対照的に浮き上がってしまう。
永瀬君も頑張っていたが(私はずっと彼の演技を高く評価してきた)、時代劇向きではないのか、それとも時代劇をするために稽古する時間がなかったのか、ちょっとね。
やはり目を引いたのは、田中みんである。
舞踏家の身体運用が今回も生かされていた。

そういえば、映画で思い出したが、「ゴジラ」が50周年、ファイナルだとか、映画殿堂入りだとかで騒がれている。
ハリウッドに出たゴジラの着ぐるみ(だよね)をTVでみてがっかり。
初期のゴジラの姿よりも、ハリウッドがリメイクして製作された「爬虫類恐竜」にしか見えないゴジラに近かったからである。

そんなにゴジラがアメリカで受けているとするのなら、最初1954年に生まれたゴジラの第一作をちゃんと見ているのだろうか?
ゴジラがどうして生まれたのか、あの映画の悲哀を理解しているのか?
ゴジラは「水爆」という人間が作り出した愚かな兵器故に生まれてしまった、いわば戦争被害者の別の形ではなかったか。
あれは、単なる娯楽特撮映画と位置づけるだけでなく、平和を願い、水爆(原爆・核兵器)に対する批判の映画としても位置づける作品である。
それを、核兵器を作り続け、自称世界警察として、他国を脅かし、また批判だけはすぐするくせに、自国の核実験だけは棚の上に上げている国がもてはやしているとはどういう事だ。
リメイクでよく分かる。
単なるエンターテイメント、キング・コングや恐竜と同じ扱いで、水爆による悲劇によって生まれた哀しい怪獣の運命なぞ、全く伝わっていない様に思われる。
たしかに、私のゴジラ主張もかなり主観的で正しいものであるとは言い切れないが、ゴジラがアメリカでもヒーローとなるのなら、世界平和を見直して欲しい。
核兵器の恐ろしさをきちんと理解して欲しい。
そんな憤りを覚えなくもなかった。
複雑な心境。

11月30日
昨日はお稽古日。
そして今日は「能特訓日」であった。
そのため日文研は両日お休みし、昨晩は祖母の家に泊まったばかりでなく、昨日はお稽古の他、1日祖母に付き合うことになった。
祖母の希望で、夕食を作って欲しいといわれ、また大叔母に初携帯を持たせるために、携帯ショップに付き添ったりしていたのである。

夜中になって漸く少し自分のことをしていたが、どうも疲れが溜まってきたのか捗らなかった。
朝ご飯を用意して、祖母が病院に行っている間、居間で仕事を少ししていたが、やはり捗らない。
実は、いろいろな締め切りが迫っており、こんな悠長なことをしている場合ではないのだが、情けに負けてしまう。

能特訓日では、やっと能の手順を最初から最後までお稽古した。
「船弁慶」は、結構長い演目であるので、シテの謡を覚えたと思っていても、動作が伴うと、初めて習う所作に気を取られ、謡を忘れる。
前シテをようやく通して習い、そちらに気が行ってしまい、既に何度かお稽古がすんでいるはずの後シテをど忘れしてしまし、またもや叱咤される。
能楽しかも初能でするにはよっぽどお稽古に時間を割かなければならないと諭されるものの、かといって就職浪人の私としては、優先順位のトップに「お稽古」を持ってくることは出来かねる。
はあ、やりがいのあるお能で、誠に楽しいのは事実であるが、通してお稽古をすると、この上さらに装束・面がつくことを想像すると、ほんまに出来るんやろか、と嘆息。
先行き不安である。

11月28日
しんどい。
昨日と本日にわたる西山祭典が無事終了。
こんな事なら、西山祭典をこの日記でもっと宣伝すべきだった。

西山祭典というのは、昨年秋に京大桂キャンパスがオープンし、移ってきた工学部の大学院生が中心となり、昔から京大のある吉田山、すなわち「東山」に対抗して(と思われるのだが)、地域や企業と密着し、西山文化を発信していこうという構想の第一歩である。
第一歩というのは、西山祭典というのを開催し、どのようなことを西山にある大学や研究機関が行い、知ってもらうための試みとして企画された「学園祭」を大きくしたようなものであり、もちろん今回が第1回であった。
西山にある大学で古いのは、京都市芸大であり、次に研究センターである日文研、そして昨年越してきた京大工学部の大学院である。(もちろん他にもあるが今回メインとなった3機関がこれである)
大学同士は早くから話を打ち合わせ、テーマを「科学×芸術」と掲げ、かなり綿密なプロジェクトを企画していたのだが、日文研はやはり研究センターであるがゆえ、学生中心になってというほど、簡単には事が進まない。
企画の中心となった人が、日文研の先生にコンタクトを直接取り、その先生が多忙ゆえ実際に動くスタッフとして連絡するようにと言われたのが、実は8月末だったか9月初め。
すなわち、11月末に既に日程も決定し、おおまかなプログラムの構想も出来上がっていた段階で、話を振られたので、非常に対応に戸惑い、また9月はほとんど逃亡生活を送ることになる私は、同僚と院生に実質的な仕事を託し、連絡だけしたままほとんど手伝わず、当日にスタッフとして参加というずるい輩となりはてていたのであった。

さて、いざ本番になってみると、第一回のためいろいろハプニングが起こるのは予想してはいたが、それを上回る連絡ミスが多発。
こちら(日文研スタッフ)としては、当然、事前準備の段階で確認して当たり前であろうと思われる些細なことだが、初歩的なことが多々抜けていたことに、愕然としたのである。(例えば、出来たばかりのキャンパスなので、どこに何があるか矢印や表示をあちらこちらに立てておくとか。何処の大学祭でも外部の人が来るのを前提にそれぐらいしているものだと思いこんでいた。)

だが、私は当日飛び入りスタッフと変わらない立場ゆえ、そんな事をいえるわけがない。
おまけに、土曜日の記念講演会には、お世話になっている日文研の先生の一人がされることに決まったので、実行委員としてお手伝いするよりも、結局は先生のお世話係の方がメインとなってしまった。
私の手落ちなのだが、一体実行委員がその先生にどのような連絡をしているのか全く知らなかったので、先生に質問されても、これまた私もよく分かっていないという悪循環に陥り、そのため忙しく立ち働く実行委員の人に、当日になって質問し、かなり手を煩わしてしまった。
スタッフ参加どころか、足手まといになったことに深く反省。
また、フィナーレと併行して行われた「黄昏コンサート」の事を日文研スタッフが誰も把握できておらず、また、そのコンサートに是非ご出席願いたいという連絡を、実行委員が所長と最初にコンタクトを取った先生にしていたことすら知らされ

2004年12月18日

ウチダに無視される(してないってば)

12月17日
ううっ、寒い!
といっても、これが12月本来の寒さか?
いや、もっと寒いよねえ。
けれど、ついつい阪神間の暖かさで寒さ対策をしてしまうため、夜の日文研を後にして、バス停で待つ間、凍えて死にそうになる。
しもうた。
京都の山をなめとった。

あまりにも、いろいろなことを欲張って同時にしようとしてしまった結果、要領の悪い私は、殆どどれも満足に達成せず、中途半端に宙づりで、絶体絶命。
(ああ、何度この台詞を吐き続けたことか。
ええ加減、学習せえよ)
とりあえず、一つづつ落ち着いて片づけなくては、と、まわりに笑われ、アドバイスを頂きながら、なんとか今年中に絶対終わらせないといけないことを、明日に一つは決着つけることとなった。

一つね、まだ、たったの一つ。
せやけど、これが肝心。
さて、次の一つ・・・ああ、締め切りが!!

頭がふらふら。
ボーリングと能特の疲れが出てきたのか?

そういえば、夕方に、プロジェクト室に現れた先生と
「昨日、能特訓日だったんですよ。
面つけて、ただ歩くだけの稽古をしていると、酸欠になって、息苦しくて、ふらふらになるんですよね。
ちゃんと腰が入ったすり足が身に付いていないのに、視界が限定され、身体が硬くなるから余計にしんどくて。
それで、まだこれに装束付けないといけないのにそんなことでどうするんですか、叱られて、足や腕が疲弊しています」
と無駄話をしていた。
「やはりそうなって酸欠でふらふらになると、ほらだんだんトリップしてくるから、舞うのにちょうどいいじゃない?」
「そうか。アドレナリンがどばーっと出て、トリップして漸く亡霊として極められるんですね。うーん。能楽は奥深いですねえ」
しばし、伝統芸能の身体運用について語る。

きっと、この会話を横で聞いていた後輩には、「何アホな事言うてん」と思われていただろう。

12月16日
能特訓日。
昨日、言い渡されていたように、早速面をつけて、まず歩く稽古。
普段は、15分ぐらい右・左まわりに、速度を変えながら歩く稽古をしても、汗ばむことはあっても息切れすることはない。
ところが、面をつけると、視界が目の穴と鼻の穴しかないから、距離感が麻痺して、タダ歩くことすら恐ろしくなる。
そこで、初めはゆっくりと方向を確かめながら歩いているが、スピードを上げるように言われると、とたんにぐるぐるとまわりが回ってしまい、視界にすべての神経が集中してしまう。

もちろん、歩く稽古というのは、普段歩いているような西洋的な歩行ではなく、腰を入れ、すり足で、上半身や腕を揺らさず、静かに歩くことである。
そのような事は、まだ身に付いていないので、視界に集中すると、身体がふらつき、身体を保とうと腰から下、次に上半身、そして腕と考えてしまうと、スピードが落ちる。
そのうち、だんだん身体に力が入ってしまい、自分で自分に負荷をかける。

スピードを上げて、円を描くように歩いてみると、西洋的な歩行であると、身体が斜めに傾く。(バイクや自転車でカーブを描く感じである)
もちろん、それは御法度。

15分も歩いていないと思うが、息が上がってしまい、身体ががちがちになって、肩でぜいぜい息を切らし、汗が出てくる。
まだ、歩いているだけで、舞を舞っているわけではない。
本当に、これに装束をつけて、能楽を一番舞えるのだろうか?

そんな様子を冷ややかに見られながら、休息の暇なしに、すぐに前シテのお稽古。
漸く、道順を覚えたところだから、謡を謡いながら次の動作を頭で考えると、謡を間違える。
前回、注意されたところを気にすると、仕草を忘れる。
叱咤の嵐。

続いて、面をはずしてもらい、後シテのお稽古。
後は長刀に刀だから、まだ面をつけてするには、身体が舞を覚えていないので、徹底的に、動きを繰り返し、身体に刷り込む。
しかし、そう簡単に出来るわけがないやん。
「まだ、頭で考えている。身体で覚えることをしなさい」と叱られるものの、理屈は分かっていても、出来ていないものは仕方がない。
ただ、反論の余地なく、小さな声で「すみません」と謝るばかり。

「装束をつけたら、もっと大変ですよ。
面もつくんですよ。
そう簡単に舞えるものではないのですから、甘く考えていたら、大間違い」
それは、分かってますって。
誰も、甘く考えていません。

せやけど、お稽古だけしていれば他は何もせんでいい、なんてええ身分やないんですよ。
ああ、もどかしい。

12月15日
所長杯。

今日は忙しかった。
朝一でお稽古に行き、後ジテのお稽古。
1時間ほど、繰り返ししていただき、細かいところ、型の格好が悪いところなど、やればやるほど、雪だるま式にいろいろ増えていき、どんどんパニックになる。
明日は能特訓なので、今日はここまで。

帰る支度をしているところへ、内田先生に久し振りお会いする。
挨拶をして、「東京で、先生の御著書が平積みでしたよ」と、別にお世辞ではなく、「売れていますね。ご多忙ですね」という何気ない気持ちで発言したのが、お気に召さなかったらしい。
途端に、無視されてしまいました。
そんなあ。
(ウチダ注記:無視したんじゃないんだよ。人から「本面白かったです」と言われれば、「おや、どこらへんが?」と訊きたくなるけれど、「本売れてますね」と言われても、僕には別にコメントのしようがないでしょう)

気を取り直し、「ダニエル」でケーキを買うて、日文研にゴー!
少し、仕事をして、少し、自分のことをして、先生がいらっしゃったから、お茶を入れて、ケーキ・タイム!

実は、この少し前にハプニングが。
多少、のせられ、はめられた形で参加することとなった、今日の所長杯=ボーリング大会。
私は、はっきり言って、ボーリングがめっちゃ下手である。
どうしたらそんなスコア出せんねん?と、みんなが首をひねる、なんと一桁スコア(もちろん1ゲーム10回(正確にはストライクを取らないと20回か)投げてである)の持ち主。
ただひたすら、溝掃除をしていた過去を持つ。
だから、最初はずっと断り続けていたのに、ひょんな事から、プロジェクト室のメンバーと先生で参加することになってしまった。
もう、悪あがきは出来ないので、チームカラーで落ちをつけて乗り切ろうと、アホなことばかりを考えていたのに、突然今日になって、チーム得点は得点として、投げるレーンはチームで固まらずにばらばらになったと、あらたなるメンバー表を渡された。
ええ!!
それでは、下手だから嫌だって言ったのを、みんなと一緒だからと言い聞かせてきた私の口実がなくなってしまうではないか。

「いやや。絶対嫌。そんなん、おもろない。
ああ、お腹いたなってきた。
ケガしたらあかんし、いけへん。
小川は、もう帰る。
あかんたれでもええもん、絶対いやや」
と、さんざん駄々をこねて、すねていたのであるが、結局、みんなでお茶を飲んでいるうちに、丸め込まれ、なだめすかされてしまった。

さて、所長杯。
うちのキャプテンが、私の最低スコアをすでにばらしていたために、一部の職員に知れ渡り、くすっと笑われる。
顔見知りの人には、冗談で「あ、今笑いましたねっ」とすねて見せていたが、練習タイムの4回ともGと、真っ青である。
何をしたかというと、ちょっと開き直って、「ナンバ」によるボーリングをしようと、ねじらない、ためないといった、一重身投げとかしていたのだが、全然成功しなかったのである。
ボーリングというと、軽く助走をつけて、玉を転がした後の姿は、人によっては、右手が前に、左足が後ろ、あるいはななめ後ろに伸び、極端な人はS字のような形になる。
そう、なげるまでためて、投げた後は逆に身体がねじれる格好になるまで反動をつけた身体遣いと、解釈できる。
それを、覆そうとしたのだが、もともと古武術的な身体遣いが今稽古中なので、いきなり出来るわけがない。
しかも、内輪のチームで1レーン囲んでいたら、ギャグですまされるところを、知らない(というかよく知っている人もいるが)人たちと同レーンになると、そうもいかず、ただ、ひたすら、皆が己のスコアを伸ばすことに集中される。
はあ。
それでも、まだあがいて、助走はせず、しずしずと前に進み、少し半身で、押し出すように玉を転がし、その時に、身体の重心を落とすなど、手裏剣を打つときにいま工夫して、模索している身体遣いで試す。
ただ無心になっていると、これが結構いけるが、おっと思い、次はピンのあの辺を狙ってと、欲が出ると、すぐにGの嵐。
きっと、よそから見ていると「あほやで。何してるんや。やっぱり噂のスコアはほんまらしいで」と思われていただろう。
2ゲーム中、1回だけストライクを取ったとき、まわりが「ええー!」と両隣のレーンの人にまで驚かれ、かなりショック。

結局、100も行かず。

懇親会にて、終わってホッとして歓談していると、私の論文副査をつとめて頂いた先生が、すーっと隣にやってきて、
「最近の立て続けに出た内田さんの本は、素晴らしいですね」といわはる。
あまりに出し抜けであったため、
「え?」と2回も聞き返し、ちょっと間をおいて「あ、内田先生ですか」と気付く。

すんません。
別に、今朝無視されたから、失念していた訳やないんですよ。
日記読者以外は、あまり内田先生のことを私に言う人が、最近いやはれへんによって、ちょっと、ボーリング後でぼーっとしてたんですわ。
ちょっと、言い訳ですが、だそうです、先生。
不肖な輩も、拝読させて頂き、勉強させて頂きます。
ああ、だからいつまでたってもアカンたれやねんな、私は。

でも、後の懇親会で判明したのだが、ブービーでもなかった。
(一応、最下位でもないことは分かっている。嘘ではない)
ふむ、ナンバ投げ?は、まだまだ開発する余地があるかも知れへん。
最近、舞の稽古以外は、そういう動きをしてへんさかいなあ。
たまには、手裏剣打つとか、刀を抜くとか、木刀を振るとかしないと、身体が出来へんわなあ。

12月12日
朝、帰阪。
一風呂浴びて、楠公さんへゴー!

下川先生の「春日龍神」を拝見し、とくに後の素晴らしいキレを見て、「ほう」と感嘆したと同時に、「はあ」と嘆息をもらす。
ああ、あの完璧な先生が、明日からの稽古でふにゃふにゃの私の舞を許してくれるわけがなく、叱咤されることは確実である。
稽古が出来ていないのが自分のせいなのであるだけに、反論の余地がなく、これからが末恐ろしい。(ありがたいことであることは、心に刻んでおります。)
狂言で「かはは」と笑って、こわーいお話の能楽「善知鳥」を拝見。
シテは家元である。
「善知鳥」の謡は知っているが、おそらく能楽を見るのは初めてではないか?
見ていたとしても、きっと寝ていて覚えてないのだろう。
ちょっと迫力に押され、これまた息をのんでみてしまった。
能楽って眠くて、理解できなくて、つまらない、難解などと思っている人も多いかも知れないが、今日の2番見ていると、ダイナミック!と感動するであろう。

いやいや楽しい。

しかし、帰りに父の誕生日だったので、実家で夕食をともにし、その後、家に帰って、祖母の家に泊まりに行くと、もう限界。
実は、さっきまで、2階に上がったまま、失神に近い状態で、ベッドに坐っていたはずが斜めにねじれて、倒れていたのである。
母からの携帯で起こされて、あわてて階下に降りると、もう祖母は寝る準備をしていた。
ちょっと、おしゃべりしてから、明日の稽古に備えて、お休みの挨拶をして、また、2階に上がってきたのである。

やはり、この歳で夜行バスは、きついわ。

12月9日
東京の空の下。

昨晩の夜行で、東京入りしたのである。
昨日は、1回生が「自主ゼミ」というのを始めたため、その発表を聞きに行く。
とはいえ、一度家に帰って、それから荷物を持って大阪に行ってバスに乗らないといけないので、質疑応答は、途中で失礼させてもらった。

朝、いつものように定宿の友のところに行き、荷物を置いて早稲田に調べもの。
最近、日文研と家の往復とか、お稽古と家、あるいは祖母宅の往復しかしていないので、久し振りに「学生街」の活気ある町並みに触れた気がする。
いいなあ。
食べ物も安いし。

ゆっくりしたいのだが、土曜の夜行で帰るので、実はあまり時間がない。
でも、明日には、以前そこで仲良くなった女の子(この春卒業したから、もう学生さんではないのだが)が、仕事が休みだから夕飯を食べに、遊びに来てくれるそうな。
うれしいなあ。

12月7日
『薄桜記』をみて、好き勝手に話す。
この映画は、と言うより、どんな映画でもそうだが、素材にするとつっこみどころ満載。
すなわち、さまざまな切り口でいくらでも語れてしまうため、話題豊富。
何本もの論文が書けてしまうのだ。
しかし、その切り口を絞らず、あれもこれもと手を出すと、収拾が全くつかず、横道にそれ、リンクで果てしなく遊んでしまうネット状態にもなるため、心してかからないと危険でもある。

本日は、あえてその切り口満載の抽斗をたくさん羅列して紹介、報告に留める。
後は、それでさらに思いついてくれることを質問して頂き、自分の課題を増やす。

話は尽きず、すっかり遅くなってしまい、家に帰ると23時過ぎ。
呆然となってしまった。
ボーゼン・・・

12月4日
午前中から、祖母と一緒におめかしして、心斎橋に出かける。
実は、従兄が経営しているこだわりの紙(カードや封筒、便箋、名刺サイズなど)のお店が今日オープンなのである。
一号店は東京で、それが成功しているところから、地元大阪での2号店オープンとなった。
祖父に見せてあげたかったと、行く前からしきりに祖母が言う。
そうやね。
経営者の孫やさかい、その成功ぶりを、働きぶりを見せたかったやろうね。
きっと、涙腺緩くなって喜んでいるよ。

なかなかおしゃれなお店なので、こだわり名刺やカードや、なんかの案内状などでよろしければ使ってやって下さい。

ホームページは、
http://www.winged-wheel.co.jp
です。
名刺、転居の知らせ、結婚式の招待状、子供が生まれたお知らせ、パーティーの案内などなど、オリジナルな紙やカード、あるいは葉書に出会えるかも。

昨日の、「ちちんぷいぷい」にも取材で、出たそうです。
よろしゅう。

従兄の両親、すなわち伯母夫婦に祖母をはじめ、今朝集まった親戚はみな、お昼をご馳走になった。
美々卯のうどんすきである。
めっちゃ、久し振り。
ごっついおいしかったわ。
ほっほっほ。

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