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2004年10月 アーカイブ

2004年10月02日

10月1日 Aujo

10月1日
Aujourd’hui, grand-papa est mort.

私が日記を書く事が出来なかった一つの理由である。
といっても、とても大変だったわけではない。
よい日もあれば、悪い日もある。
私が泊まる日もあれば、顔だけ出す日もある。
安心して、全く顔を出さない日もあった。
ヨーロッパに行く前と、帰ってきた日では、祖父の顔が全く変わっていた。
急激に弱ってしまった。
それでも、「順子」と言ってにっこり笑ってくれる。
骨と皮だけになってしまった手で、ぎゅっと力強く手を握り返してくれる。
全く起きられず、ベッドの上で上半身を起こして、その後ろに回り、背中を支えて、栄養価の高いドリンクや、薬を飲ませる事もあった。
背骨がごつごつ伝わって、やせた祖父の身体に触れるのが辛かった。
ここ2~3日、少しは食事を取るようになり、「奇跡が起こるかも」と言う期待感が皆の胸を膨らました。

今朝、9時50分(と思われる)頃に、祖母、二人の実の妹(私の大叔母)、長男(叔父)とヘルパーさん二人という、6人に囲まれながら、誰も気付くことなく、静かに息を引き取っていたらしい。
祖母も一度起きたが、まだ眠くて寝てしまったのだと思っていた。
祖父を支えていたヘルパーさんが、あごのところが妙に冷たい気がして、祖母に異変を伝え、あわててかかりつけの医者に連絡し、5分後に到着したときには、すでにこときれていたそうだ。

私は朝一に映画に行く予定だったが、なんだか家でぐずぐずしていたら、母から携帯に連絡が入り、驚愕・動転して、自転車で駆けつけた。
祖父は眠っているようだったが、黄疸が全身に広がり、黄色くなっていた。
そして、冷たい手はまだ柔らかく、握って声をかけたが、反応してくれず、手も握り返してくれなかった。
昨日、顔を出さなかった自分を呪った。
今朝、家でぐずぐずしているぐらいなら、朝早く顔を出さなかった自分が恨めしかった。

誰よりも、私を可愛がってくれた祖父。
恐くて、優しい祖父。
親戚が、続々やって来る中、勝手が分からない親戚の中で、出来る限りの雑事をしたが、それ以外は、祖父が寝室からうつされた畳の間で、線香の火が絶えないように、隅っこで座って眺めていた。
ともしびの炎と、線香の煙のたゆたいによって、祖父の布団が、まるで息をしているように動いて見えた。
そのたびに、はっとして目をこらし、ぴくとも動いてない事に気付いた。
本当は、一晩付き添いたかったが、叔父たちが泊まるので、明日の朝、早めに来て朝ご飯を作る事だけ言われ、帰るように言われてしまった。
帰りがたく、そっと、布団に手を入れて祖父の手を握ってみた。
朝「冷たい」と思っていたのは、嘘のように、本当に冷たくなっていた。
こんなに冷たいなんて、そして、少し握ろうとするのがためらわれるかたさがあった。
布をのけて、顔をもう一度拝むと安らかな顔だが、蝋人形のように冷たかった。

きっと、実の親が死んでもこんなに泣かないのではないか?と言うほど涙が止まらない。
介護の義務を負担と思って、あまり泊まりに来られなかった事を悔いた。
もっとそばにいたかったのは、私の方であった事に気がついた。
何もかも、手遅れだった。

明日がお通夜で、明後日がお葬式。
祖父は、9月決算を過ごして、週末の秋晴れの日にしずかに息を引き取った。
みんなが「見事な最期」といい、大往生だと私も思った。
でも、私の中には蟠りと、哀しいとか寂しいという感覚と少し違ったものが残り、涙が止まらない。

笑って、見送ってあげなくてはならないのに・・・

9月22日
今日も、京都映画祭に通うが、最初の予定よりはかなり変わってきてしまった。
見たのは、「勝鬨」と「鞍馬天狗横浜に現る」の2本。
2本目は、既に見た事あるが、またもや見てしまった。
今、(じゃなくてもいつもか)いろいろな事が私の頭のキャパシティーを超えてしまっているため、ちょっと、物忘れが激しい。
どっちだったかなあ。
多分「勝鬨」だったと思うけど、忍者が出てくるシーンがあったのだが、横っ飛びに二~三人を飛び越すシーンがあった。
無声映画はチャンバラシーンがどうしてもちゃかちゃかと速く写っているように見える。
ところが、そのシーンだけなんとなくスローモーションに見えたのだ。
こ、これは!どこかで見た事あるぞ。
そうだ。
黒澤明の『姿三四郎』だ。
邪推は承知、でも似ている。
映画は映画を作り出す。
こんな風に、あとで思い出すのも楽しい。

では珍道中の続き。
ストレスを抱えながらも優しい親友のありがたみ
スペイン語が分からないから何とも言えないのだが、なんとなく、家族、親戚間の会話が、声を荒げているように見える。
12年ぶりにあったのだし、お互い留学時のおそるべき太りようよりは、すっかり、やせているので、常がどんな風なのかは見た事がない。
しかし、私は彼女がかなりのストレスを抱え込んで、やつれているように見えた。
夜中に迎えてくれて、彼女の両親のマンションに連れて行ってもらい、留学中にレメを訪ねてきたご両親と再会・挨拶し、部屋を一部屋用意してくれていた。
不眠気味の私は、とにかく眠るしかない。
鎮痛剤といつもの薬を飲んで、眠りに陥った。
翌日、朝早く目が覚めてしまった私は、顔を洗い、どうしてよいものやら分からないので、とりあえずドアを開け放して、本を読んだり、仕事をしていた。
レメのご両親はスペイン語しか話さない。
歓待してくれて、気を使っていろいろ話しかけてくれるのだが、「おはようございます」しか言う事が出来ない自分がもどかしい。
実は、こういう事を予期して出発前にスペイン語旅行会話も入った電子辞書を購入していた。
さあ、これで片言スペイン語を挑むぞ、と張り切ったものの会話が速すぎて、辞書で一つの単語を調べているうちにもう違う話題に変わっている。
なんの、役にも立ちませんわ。
幸い、クリスが起きてくれていたので、英語で説明してくれるし、間に入って話をつないでくれるのでありがたい。
聞くと、夜中にルカ君が泣きやまず、夜中1時頃まで、外を散歩してあやしていたとの事。
そうか、大変やなあ。
レメがまだ寝ているらしいのはそういう事か。

実は、出発の1週間ぐらい前に、レメから突然メールがあり、共通の友人であるアメリカ人のジムがレンタ・カーを借り、レメのご両親がもっているビーチ・サイドのセカンド・ハウス(まあ、別荘かな?といってもマンションの1部屋を借りているので一戸建てではないが)に泊まる事になっている。
レメのN.Y.時代の同僚であり、ドイツ・アメリカのハーフであるジェシカと私には、お金をかけさせたくないので、ちょうど3部屋のベッド・ルームがあるので、二人ともジムと一緒に行動してはどうか?ホテルはキャンセルしてくれて構わない、とありがたい提案を言うてきてくれた。
我が事で何も下調べが出来ず、とりあえず飛行機の日程と時間だけレメやホスト・ファミリーに知らせただけで、何も計画を立てていなかった。
なので、一体今日はどういう予定で、何をしていいのかも分からず、ただレンタ・カーを借りて一緒に行動する事になっているジムとレメに一任するしかない。
なにせ、ヴァレンシアの地理も分からず、足がないので誰かについて行くしかなかった。
しかも、日本人的思考と欧米人の思考は違う事は百も承知。
キッチンで美味しいスペインのコーヒーを2杯頂いてから、リビングに座っていいのやら分からず、とりあえず寝かせて頂いたお部屋で、ドアを開け放って静かに仕事をしていた。
11時頃かなあ。
レメが起きてきたらしく、「なおこ、ちょっと来て」と呼ぶので、リビングに行くと、昨夜一瞬会ったアメリカ人のジム(実はジムは二人いて、こっちは一緒に行動しない方)と彼女(婚約者)のカーリー、そして、私がこれから一緒に行動を共にするジムが来ていた。
しばし、歓談。
レメのおばさんも到着。
12時になったので、みんなで近くのカフェに行くという。
よく分からないので、とりあえずついて行き、朝6時頃から起きていた私は、てっきり昼ご飯だと思い、みんながサンドウィッチを食べるにあわせて、あまりお腹が空いていなかったが少しばかりつまんでいた。
事情が呑み込めず、レメはルカ君と忙しいみたいなので、ジムとクリスと共に、昼にチェック・インをする米国からの来客の手続を横目に見ながら、時間を潰す。
「なんか、手伝おうか」と言うが、みんな「いいよ」と言うので、何も出来ないでくの坊。
15時頃、レメの実家のマンションに帰ると、クリスのお父さん家族(クリスのお母さんとは離婚していて、再婚した家族であった事があとで分かった)も一緒に来て、今からランチだという。
ええ?さっき食べたのは、朝ご飯やったん?
さすが、スペイン、昼ご飯を家族で囲みながら、ビールにワインに、食後のコーヒーと食後酒のオン・パレード。
やたら勧めてくれるのだが、お腹空いてないので、困惑。
スペイン語で話しかけられ、とても気を使ってくれているのが心苦しい。
食後、また何もする事がなくなってしまったので、何処にいてよいものやら、とりあえず部屋の片隅に静かに座っていると、レメとクリスが何やら打ち合わせして、ついでに私に質問された。
そこで、判明。
披露宴の席順を決めていたのだ。
ああ、ルカ君は泣き出すし、その合間でまだ披露宴の席順を決めていたり、一体誰がいつ何時頃に到着するのかなど、レメのストレスは手に取るように分かる。
それでも、彼女からしたら遠い日本から、自分の結婚式のためにはるばるやって来てくれた12年ぶり再会の親友に、気を使わずにはいられない。
夕方、少しばかり二人で話をする機会を得たとき、私は「結婚式というのは、準備ですごくストレスが溜まるし、まだ赤ちゃんなんだから育てるのに大変なのは分かるから、もう私の事は気にしないで」と言ってみた。
少しは楽になったのだろうか。
気の使い方は少しは減った気がするが、それでも結婚式まで彼女の気使いが痛いほど身にしみた。
私がもし少しでもスペイン語が喋る事が出来たら、もっと彼女に気を使わす事がなかったのに、と言語能力の乏しい私は自分が恨めしかった。

9月21日
今日は午後からのプログラムを見る予定だったので、ずっとお休みさせて頂いている日文研に少しばかり顔を出す。
なんとか、無事に帰って参りました。
おみやげをプロジェクト室に持って行き、メール・チェックなどし、皆さま・先生に無事返ってきましたと挨拶だけして、早々に日文研をあとにし、弥生座にゴー!
『きさらぎ無双剣』『新選組鬼隊長』の2本を見たところで、疲弊している自分がもう絶えられない事に気付き、『丹下左膳決定版』をあきらめ、家路につく。

御飯を食べるが、その後、疲れて呆然。

さておき、珍道中の続き。

ルフトハンザの長い旅:最悪のフライト
7日の夕方より近畿地方を台風が直撃。
明日の朝、飛行機は飛ぶのか?関空への橋は渡る事が出来るのか?
そんな不安を抱えながら、ぎりぎりまでレメやホスト・シスターとe-mailで連絡を取り、ほぼ徹夜で朝まで仕事やパッキングをしていた。
8日朝には朝日がきらめき、ほっと胸をなで下ろして、JR尼崎まで母に車で送ってもらい、そこからバスにて関空へ。
知人に「ルフトハンザは機内でスパークリング・ワインが出るよ」と言われ、機内では当然ながら注文する。
それにしても、どうも座った席が悪かったのか、待遇がなんだか。
2回出る機内食とも、既に選択肢なし。
しかもその途中で配られていた軽食(おにぎり・サンドウィッチ)も、何故か私の席(の列)だけ、ものの見事に無視された。
まあ、別に特に食べたいわけではないが、何となく複雑な気分。
フライト中は、主にのばして頂いた原稿の書き直しと読書に費やす。
さすがに徹夜に近かったので、2時間ぐらいは眠れたのが嬉しい。
フランクフルトにてトランジットをすました頃からにわかに体調が悪くなる。
原因は女性の中でも一部の人はとても苦しむ生理痛である。
荷物をチェックされたとき、薬の種類を英語で説明する事が大変なので、最低限の薬以外はトランクに入れていた。
そう、迂闊にも鎮痛剤もそこに入れてしまっていたのだ。

元気なときの私なら、フランクフルトにて5時間待ちだったので、免税店をうろつき、空港内のバーで「ドイツ・ビール」を飲みながら、仕事あるいは、読書をゆっくりしているだろう。
もちろん、行く前はその予定だった。
が、あまりの腰痛・腹痛とだるさで、ビールどころでなく、とにかくゲート近くのベンチに座り込み、気を紛らわすために仕事や読書に取りかかろうとするものの、じっと座っているのも辛い。
脂汗を流しつつ、とはいえ、やはり諸外国。
荷物が気になるし、意識朦朧となる事も出来ず、苦しみ抜く。
ああ、日頃の行いが悪いんやろうか。

やっとミュンヘンまで飛んで、このあとの乗り継ぎは1時間ぐらいだったので、気力で乗り継ぎ、漸くバレンシアへ。
ミュンヘンからのフライトで、何気なく窓の外を眺めていたら、真っ暗な中でひときわ明るいところがある。
よく見ると、なんだか蜘蛛の巣状に光の筋が伸びている。
うん?なんだか見た事あるような。
もしかして、あれはパリではないだろうか?
間違っているかも知れないけれど、なんだか一人で綺麗だなあと感動してしまった。
もう、腰痛などは麻痺して、フランクフルトまでのフライト以来、何も口に出来なかったので、夜食としてすぐに運ばれてきた機内食を、またもや懲りずにスパークリング・ワインや赤ワインでいただく。
ルフトハンザとスペイン系の航空機(名前を失念)との共同運行と言うより、どちらかというとスペインの方が主流。
飛行時間が短いために、すぐに出されたせいもあるだろう。
パンも軽いおかずも本当にやけどしそうなぐらいあつあつだったので、疲れた胃にはなんとなく暖まって、美味しかった。
漸く、バレンシアに到着と思っていると、アナウンスが流れ、なんだかトラブルが発生したために、すぐに着陸できないとのこと。
飛行場の上を10分ほど旋回して漸く、着陸。
予定時刻よりも20分ほど遅れて、空港を出ようとすると、「なおこ!」と叫ぶ声が外から聞こえる。
レメだ!
走るように出てきて、かわいいルカ君と旦那さんのクリスと初対面。
もう23時になろうとしているのに、しかも式をひかえて大変なのに、わざわざ空港まで拾いに来てくれて、12年ぶりの再会は感動的。
しかも、10分も経たないうちに、もうついこの前まで一緒に会っていたような感覚に。
持つべきは親友なり。

9月20日
はあ、はあ、はあ。
自律神経がいってもうている。
やばい。

予測していた事だが、やはり外遊は全然バカンスにならんかったね。
ちょっと、帰ってきてからも心がかりになること在りし。
そんなこんなで、倒れました。

へえ。
漸く、今日復帰しました。
ええ、復帰しても、身体が震えて、自律神経いかれてる状態ですわ。
それでも、今日は京都映画祭にも行って、映画も2本見たし、シンポジウムを見たし、他人とコミュニケーションを取ったし、人間に戻りましたんやわ。

さあ、相変わらず不眠ですわ。
仕事をしつつ、外遊の中、さまざまなる事柄起こり、ちょこちょこと書き記してみたものあり。
それをもとに、「珍道中」をご披露したい。
但し、日程は前後する。

題して「小川順子のヴァレンシア&スウェーデン珍道中」の始まり。
(残念ながら相棒がいないの・・・)

今回は、全く余裕がないまま旅立ってしまった。
先にも書いたが、今回の旅行の目的は、親友の結婚式に参加するため、そしてついで(といってもスペインとスウェーデンでは遠いんけど)にスウェーデンに帰る?ためである。
さて、前ふり。
以前書いたかも知れないが、88年~89年にかけて約1年、スウェーデンに留学していたのである。
行ったのは、小さな田舎町(失礼!ヴァームランド州の州都なので小さくないか)カルスタッドである。
そこでスウェーデン人家族にお世話になり、地元の高校に通っていたのである。
ああ、もう15~16年前。
遠い昔の物語。
その時、同じ町に何人かの留学生がいたが(高校は2高あり、わかれて配置された)、その中でスペイン人のレメ、とベルギー人のミリアム、そして日本人の私がなぜか、大の大の親友となり、いつでも3人でつるみ、有料公衆便所では、2クローネ(この前行ったら5クローネになっていた!!)を惜しんで、2人ないし3人で入るという仲の良さ。(どんなたとえやねん!でも、事実である。)
大学3年を終え4年になる間の春休み、もう一人日本から留学していたよしこちゃんと、当時、ブリュッセルで働いていたミリアムと、留学していたレメが同居していたところに遊びに行き、その時もスウェーデンのホスト・ファミリーを訪ねて、外遊したのが最後。
実に12年ぶりの再会となる。
しかも、連絡が途絶えて約10年。
昨年、博論締め切りを目前に控えた11月初頭、実家にレメから一通の葉書が届いたのこが、この長~い前ふりの発端。
「結婚するから、式に来てほしい。とにかく連絡が取れるのか?メールしてくれ」との事。
なんともはや、今から思うと先の話であった。

彼女の話によると、スペインの国立使節団なるものにてN.Y.に渡り、働いていたときにクリスという米国人外交官と知り合い、婚約し、ワシントンD.C.に移り住むとの事。
その後、「妊娠したの~!!」とメールが入り、3月に出産。
修了式の頃、可愛い男の子ルカ君の写真が添付されてきた。
で、9月に結婚式という通知も。
そのころの私は先の不安だけを抱え、でもなんとなく9月はじめ(オリンピックが終了してから)から二~三週間外遊して、ヴァカンスをとってやれと目論んでいた。
でも、現実は厳し。
優先させる事柄多くて、漸く日程が確定したのが7月末だったっけ?
9月8日出発、10日のプレ・ウェディング・パーティーと12日の本番の結婚式及び披露宴に出席するためにヴァレンシアに滞在、翌13日にスウェーデンに渡り、16日に後にし、17日に日本帰国というハード・スケジュール。
これでは、典型的日本人ツアー「ロンドン・パリ・ローマ8日間の旅」みたいなのりではないか!!とほほ。
しかも、格安航空券をネットにて探し求めるものの、どれもキャンセル待ち。
お盆明けに漸く、航空券をゲットしたものの、8日早朝出発、関空からフランクフルト、フランクフルトからミュンヘン、ミュンヘンからヴァレンシア(夜11時前着)という最悪な乗り継ぎ。(ルフトハンザね)
13日は昼にBAにてヴァレンシアを出て、ロンドン:ヒースローにて乗り換え、ストックホルムに着くのが夜9時半頃。(この日はストックホルムに住むホスト・シスターのマンションに泊めてもらう事になった)
帰りは、また早朝にカルスタッドからストックホルムに飛び、国際線乗り換えでフランクフルト、フランクフルトから関空、17日朝8時頃着というもの。
これだけみても、かなり疲れる。

と、ここまで書いたものの、
すでに深更にいたり。
出発前も平均睡眠時間2~3時間であったが、後に記すが外遊中も最高4時間の生活で、帰国してから、倒れたとはいえ、実際眠った(頓服して)のは、やはり4時間前後。
ほんまに不眠はなおらんわ。
まあ、おかげで時差ボケにならんかったけれど、貧血、体調悪しなどで、何事も手に着かず、ぐだーっとソファに倒れ、短時間瞬発的に洗濯、荷物整理、仕事をしては、ぼーっと無気力鬱状態に陥っておりました。
ほんまに、もう、と思いながらも、一応今日から復帰して明日も、引き続き京都映画祭なので、ええ加減に眠りたい。
かなり前に服薬したのだが、何故眠くならない?
やはり、書きたい事が山のようにあるから、こうしていると興奮してるんかなあ。
反省して、今日は前ふりだけで自重する。
ああ、ほんまは、今日見た映画についても喋りたいねんけど・・・

睡眠って努力してするもんちゃうよね。はあああああああ。

9月17日
はあ、ただいま~。
へろへろ~。
そんな事言うてる間ないねんけど。
はよ、原稿おくらな・・・
ああ、めまいがする。
ちょっと、休んで仕事します。

そ、それにしても、暑い。
なんで、関西こんなに暑いねん。

2004年10月21日

10月20日 は!?

10月20日
は!?
何かとばたばたと過ごしており、その一方で心ここにあらず状態を続けていると、20日になっていた。
祖父について語らなければ、なんとなく自分が壊れそうな気がする。
しかし、語りすぎても、まだ近くで見守ってくれている祖父に何か失礼があってはとためらってしまう自分がいる。

とりあえず、朝の挨拶にお参りしてこよう。
お寺さんが来るまでには、まだ時間があるのだから。

おはようございます。
またもや、台風直撃ですか。
よう、来ますな。

昨晩は、祖母の家に泊まった。(祖父母といってしまう自分がいるがかめへんか。)
皮肉な事に、祖父が亡くなってからの方が泊まっている回数が増えている気がする。
もう、言ってもしゃあないのだがやはり、このぐらいの調子でもっともっと泊まりに来るべきだったのだが、遅い。

私は熱心な信者でもない。
ほとんどイベントの感覚で、寺社仏閣、教会などを訪れても、その事について深く考察したり、信仰した事はない。
なので、一体どうやって振る舞っていいのか、少々戸惑っている。
うちは浄土真宗なので、ほとんど何もしなくていいという。
その何もしなくていいという事すらよく分からない。
ただ、見よう見まねで、祖父の遺影とお骨、戒名などがまつられた祭壇の灯をともし、巻線香に点灯し、お水をかえ、朝のお茶をお供えし、いつも読んでいた新聞を備える。
「おはようございます」と語りかけても、もちろん何も聞こえない。

ずっと、さまざまな思いが巡っている。
私がヨーロッパに遊びに行くと、実は偶然にも近親者が亡くなっている。
例外はフランスの語学留学+αの時だけだ。
スウェーデンに留学したときには、大叔父が事故で亡くなった。
(偶然だが、よくして下さった知人や昭和天皇、ダリや美空ひばりも亡くなった。)
次にスウェーデン及び留学時代の友達を訪ねて外遊したときには、父系の祖母を亡くした。
入院中であり、旅行に行く前に挨拶に行き私を認識したのが、意識が最もはっきりしていた最期であったとも聞くが、帰国しようかという私の問いに対して両親はその必要はないといったために、私は葬儀に参加していない。
そして、この度、またもや留学時の友人とスウェーデンへ旅行し、帰国すると驚くほど祖父が弱っていた。
私が帰国して、ちょうど2週間後に祖父は逝去した。
9月末に台風が直撃し、運悪く同時に私の身辺にも大嵐が起こり、そのために翌日自分の事で頭が一杯になって、毎日祖父を気遣って電話なりしていた行為を怠った次の朝、祖父はこの世を去った。
私の動揺はただならぬものであった。
なんで、その日に限って。
なぜ、あの日に起こったのか?
すべてが自分の業の気がして、お骨になるまで泣きに泣いた。
親友は、宗派は違うが「お骨になるまでは泣いてあげる事が手向けになる。けれども、お骨になってしもうたら、もう泣いたらアカン。死者の霊を留める事になるから、心残りを作る事になるから、涙はずっと連れ添った祖母だけのためにしてあげ」と慰めてくれた。
この解釈が、正しかろうとそんな事はどうでもいい。
それ以来、祖父の遺影の前では泣くのをやめた。(こらえる事はあっても)
49日の意味もよく知らない。
勝手な解釈(調べればいいのか)で、49日が過ぎて漸くあの世に霊が渡るのであるのなら、49日は11月17日に当たる。
私の誕生日の翌日だ。
見守ってくれるのだろうか。
強引な思い込みと偶然だとはいえ、私は縁の深い孫だったのかも知れない。
そう思わなければ、やってられない自分がいるのだ。
死と自分の行いを結びつけていたら、罪悪人になると親友に言われたが、私は自分が極悪非道人である事が身に沁みて、自分に都合のいい解釈を施してバランスを保ちだした。
こうして、泊まりに来るのもその一つ。
七日七日のお参りに参列するのもその一つ。
罪滅ぼしにならんかもしれん。
でも、そうでもせんと落ち着かないのだ。
最も近しい人を亡くし、その一連の祭儀に立ち合い(今もそうだが)身近にその事態を受け入れる事は、私にとって初めての体験といってもいい。
ただ、ひたすら事態を受け入れるしかないのだ。

まだ、起きてこないが、ずっと気丈に振る舞っている祖母も心配である。
薬を変更して、だいぶんと楽になったそうだが血圧が高くて、しんどいそうだ。
仲のいい夫婦ほど追いかけるに・・・という話を聞く。
フェリーニとジュリエッタ・マシーナのように。
他人の話だとまるで美談のように聞いていたが、とてもじゃないが今の私はそんな状況が訪れてほしくない。(それこそ受け入れられないだろう。)
あ、起きてきたようだ。
挨拶してこよう。

昨日からの雨で、キンモクセイの花が散ってしまい、オレンジの絨毯みたいだ。
ほのかに香りだけが残っている。

一気にため込んでいた思いをつづったが、別に毎日毎日ふさぎこんで引き籠もり、うちひしがれて呆然と過ごしていたわけではない。
どちらかというと、ものすごく活動的に過ごしてきた。

葬儀の翌日、以前から取っていた「平成中村座」を通しで観に松竹座に行き、次の日はかねてからの約束通り、ぷち・宴会をし、翌日も以前からチケットを取っていた町蔵のライブにも出かけた。
日文研にも、なんとか通い、仕事や研究報告も一応こなし、お稽古も行き、手裏剣も打ち、読書会も、食事会も積極的に参加してきた。
さすがに体力持たず、倒れたり、微熱が続いたり、挙動不審(あ、いつもか)な事もあるし、チケットが入手できなかった「中島らも追悼ライブ」に当日券で並ぶ根性もなく、友人の発表や講演会も逃したが、別にこれも普通の事である。

しかし、人の心を映すのか?
家に帰ると、何となく家がすさんでいる。
このままでは、新たに研究の一歩が踏み出せないと危機感に陥り、精力的に資料整理と掃除を開始したのだが、なぜか余計に散らかっていくように見える。
うーん。
要領が悪いのか、それともなんだかんだと出かけてしまうために、資料整理が常に中途半端な状態で放置されているからだろうか。
そうか、頭が悪いんだ。

今日は午前中にお寺さんが来た後、お稽古の予定なのだが、台風でいけるのか?
まあ、中止なら中止で、家で大人しく片付けをしたい気もするが。
やる事をリスト・アップしないと、もう頭のキャパを超えている。

私が自分の思うとおりに出来ずにぐずぐずしているのを、祖父の死への哀しみとスリ違えたは、それこそ叱咤されるであろう。
そう、今こそ立ち上がらなくては・・・

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