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Enero 09, 2006
虎の威を借る狐たちの物語
「歴史を勉強してなんになる!」
なんて青臭いことを言う奴ぁ、もういないんだろうか?
かつてテレビで、中学生が「英語なんて勉強しなくていい。俺は日本人だし外国行かないから関係ない」と言っていたのを聞いたとき(言わされていたのかもしれないけど)、私はごく真面目に、「まぁそう自分を安くつまらなく見積もるなよ」と、こころンなかで突っ込んだ。
縁あって日本に来た別嬪で気立てのよいアメリカ人(うちの義姉のことだ)に恋をする(うちの兄のことか?)かもしれないじゃあないか。
海岸を歩いていて見つけたボトルのなかの紙片に、なにか読んだらすごくワクワクするに違いない英文が書いてあるかもしれないじゃあないか。
なぜかいきなり手渡された5分間で正しく操作しないと地球ごと吹っ飛んでしまう最終兵器の説明書きが英語だけかもしれないじゃあないか。そのとき、地球を救えるのはお前だけかもしれないだぜ?
と書きつつ思い出したのだけど、私はすごくひねこびた子どもで、小学5年のときSF作家の星新一に宛てて、「あなたの本は全部好意的に読んでいますが、最新作はどうしてもいただけません」というような手紙を送ったことがあった。
その翌年の正月、星新一から年賀状が届いた。びっくりした。
それを受け取ってはじめて、私は自分の書いた文章が本当に星新一に読まれるんだということをまったく想像していなかったことに気づいた。「どうせ私なんかの手紙とか読まんとばい」、そう思っていたのだ。
失礼だ。もちろん相手にもものすごく失礼だけど、私にもひどく失礼だった。
そういえば私は、「モル濃度とかサインコサインタンジェントなんて知らなくていい」と言っていたクチだった。私自身が、そういう自分に失礼な奴だったのだな。
というわけで、スペインの歴史なんかも、たまにはどうぞ。
あっ、前回の予告と違って、スペインにおけるイスラム勢力の栄枯盛衰の話です。
レコンキスタの続きは、たぶん、次回。
■フェルミン・マリーンはこう云った:
「そして結局セウタ提督フリアン伯はどうなったかって? 知らなーい」
5世紀のローマ帝国衰退後、最初は南仏トローサ(トゥールーズ)に、やがてフランク王国に破れた後はイベリア半島中央のトレドに都を置き、栄えた西ゴート王国。
といっても、もともと遊牧民であったため、部族間の競争が激しく、どこも自分のところから王を出そうとするために策略・弑逆・シュラシュシュシュが絶えず、王の平均在位年数は2、3年だったという。
710年に即位した、情熱のアンダルシアはグラナダ出身のロドリゴ王も、そういう西ゴートの王のひとりであった。
即位の翌年、最短で14kmしかない海を挟んで向かい合う北アフリカはセウタ提督フリアン伯が、ロドリゴの王位を簒奪せんと、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったイスラム勢力の長ムサに援助を依頼。
たぶんニヤリと笑っただろうムサは、ジブラルタル領主タリク(Gibraltarは、アラビア語で「タリクの岩」が語源)に命じ、ベルベル族を率いて半島に侵入させる。
タリク及びムサは首尾よくロドリゴを打ち破り、そして当然のごとく、フリアン伯も放逐したらしい。まあねー。ハリウッド映画でも、姑息な裏切りを画策した奴ぁ真っ先に殺される運命なのだから。
(ハッ、高校のとき友人から「『身から出た錆』ってあんたのためにある言葉のごたる」と言われた私っていったい……)
こうしてスペインは、ダマスカスを首都とするウマイヤ朝イスラム帝国の一州となる。
しかし直後から、イスラム諸族・派閥間のポスト争いが激化。各々が虎の威を借りんと帝国各地から有力部族を招聘したため、スペインはイエメン人、エジプト人、シリア人、レバノン人などが入り乱れて収拾のつかない状況になった。
そしてちょうどそのころダマスカスで、アッバース家がウマイヤ家に替わって帝位に就くという激変が出来。
迫り来る皆殺しのブルースから逃れ北アフリカまでやってきたウマイヤ朝の廃太子アブデラマン(アブド・アッラフマーン)を、スペイン領内で優位に立ちたいイエメン人が招聘。
アブデラマンは(おそらく)ほくそ笑みつつ招きに応じ、アブデラマン1世として即位して中央からの独立を宣言するや(いわゆる後ウマイヤ朝)、一族郎党を呼び寄せて周囲を固め、一挙に独裁体制を整えた。
アブデラマン1を利用しようとしたイエメン人は、逆に利用されてしまったというわけだ。
虎の威を借るキツネは、虎にばっくり喰われてしまうんだぜ、と、歴史は語る。
それを聞いて私は身の竦む思いがする。
他人事じゃないぜ、気をつけろよ私。これが「身から出た鯖」ってやつだ。……えっと、生き腐れに注意、だっけ?
■リカルド・アブランテスはこう云った:
「アルハンブラ宮殿は、泥でできています」
時は移って10世紀。上記の初代王の曾孫となるアブデラマン3世は、栄えに栄える国力を背景に、ついにカリフ(預言者の代理人)を名乗る。ムハンマドをも恐れぬ所業、といったところか。
彼らの宗教戦争、つまりはレコンキスタに対するレコンキスタも、この時期はキリスト教国の弱体化もあって大きな成果を挙げている。
当時の最重要都市であったトレドや、さらには「モーロ人殺し」(まぁお下品)の異名をもつレコンキスタのシンボル・聖ヤコブを祀る聖地サンティアゴ・デ・コンポステラまでをも、首尾よく再々奪回して、意気揚々だった。
このカリフ帝国の首都が、アンダルシアのコルドバである。
現在は人口約35万だが、当時は人口50万~100万(誤差大きすぎ!)。300あまりのイスラム寺院があり、ヨーロッパ世界よりも約2世紀早く大学が作られ、アレクサンドリアと並び称される大図書館があった。
ちなみに、地元出身の思想史教授オルデンも、また私もおすすめなのが、世界遺産指定メスキータ前にあるレストランEl Caballo Rojo「エル・カバージョ・ロホ」。夏はコルドバ独特の、喉が詰まるほど濃いガスパチョ「サルモレホ」をどうぞ。
しかし花の命は短くて。アブデラマン3世の死後、息子のヒシャーム2世がダメな野郎だったのに対し、出来すぎる宰相アルマンソールが華々しい戦績を挙げて、領国の半分を支配するようになる。
そうなると、もうどうしようもない。
1031年、ヒシャーム3世が死亡するや、それまでも子息を宮廷に送り込もうとして反目しあってきたイスラム貴族の思惑と、強いカリフの不在とが重なって、帝国はあえなく解体。スペインは、各々の貴族が支配するタイファという小国割拠の時代に入る。
歴史を学んでいなかったのか。
あるいはそういうことが繰り返して起こることこそが歴史の本質なのか。
スペイン全土に20~30ほども分立し、互いに反目しあう諸王国はどうしたか。
自国を守り他国に対して優位に立つため、それぞれ北アフリカからベドウィン(遊牧民)の部族を招いたのだ。
時期によって異なるが、彼ら、ムラービト、ムワッヒド、ベニメリンなどは、請われてスペインに入るや、当然のごとく居座り、それぞれ社会的に高い地位を独占してしまう。
このようなゴタゴタを利用して、キリスト教徒はレコンキスタをどんどん進め、やがてグラナダを除いた半島全域を支配下に置いてしまった。
1240年、グラナダのナスリ王朝は、カスティージャ王国への多額の朝貢を約して降伏。かたちだけは独立を保持するものの、1492年、その気になったカトリック両王によって軽く滅ぼされてしまい、これによってスペインからイスラム勢力は駆逐された。
とはいうものの、グラナダ王国は250年、つまりは江戸時代よりちょっと短いくらいのあいだ、続いていた。もちろん明治維新から今日までより、ずっと長い。
万年雪を頂く3,000m超級のシエラ・ネバダ山脈(まさに「雪冠山脈」を意味)の雪融け水が潤す耕地では、アラビア由来の果実や野菜が作られ、盛んにヨーロッパに輸出されていたという。グラナダの語源を、ザクロ(同じくgranada)に求める説もある。
カスティージャ王国の庇護下に入ったため、戦争をする必要もない。
戦争をしなくてもいいことになっている国が内部でどれだけ栄えるかというのは、私たちがよく知っているところのことである。
グラナダ王国は、栄えた。
しかしそれは、許された範囲内でのものであった。たとえば王宮建設のために、キリスト教国圏内から大理石や白御影石を大量に搬入することはできなかった。
彼らは手持ちの泥と土と水とで、つまりは日干しレンガぐらいを材料として、王宮を作らなければならなかった。まさに砂の城だね。
その建材の貧相さを隠すため、漆喰やタイルなどで、一面を覆いつくした。
スペイン語の[decorar](装飾=デコレーションする)は、[de](~しない)+[corar](掘り起こす)なのではないかと、私は考えている。
こうしてできたのが、「イスラム建築の精華」や「イスラムの徒花」と称される、アルハンブラ宮殿である。"Quien no ha visto Granada no ha visto nada."(グラナダを見てない者は、なにも見てないだ)という成句もあったりする。
美しい。とくに有名なのは繊細優美な列柱で有名なライオンのパティオだが、もともとは白い柱のあいだに色鮮やかな草花が乱れ咲き、現在よりも数段美しかったという。
しかし、伸びた根が土中から宮殿の床を持ち上げて壊してしまったため、数十年前に草花が文字通り根こそぎ抜かれてしまった。
ひょっとしたらそういう脆弱さもが、グラナダ王国の儚さとあいまって、妖しいまでの美を醸し出しているのかもしれない。
……と書いていて、新古今和歌集を思い出した。
アルハンブラ宮殿も新古今和歌集も、ともに13世紀の作品である。
続く14世紀、スペイン全土を異常気象による飢餓とペストが襲い、さらには「残酷王」カスティージャ王ペドロ1世と異母兄エンリケ2世の反目を発端とする内戦が近隣諸国も巻き込んで行われたため、国土が、壊滅的なまでに荒廃する。
スペインは現在もなお、そこから復興していないと言ってもいい。
ドン・キホーテが歩いた400年前のラ・マンチャ(カスティージャ)の大地は、今日もそのまま、すぐそこに広がっている。
投稿者 uchida : Enero 9, 2006 11:03 AM
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