三宅坂から新年のご挨拶
えー、新年おめでとうございます。
文字どおり盆と正月だけの更新になってしまっており
ますが、本年もご贔屓賜りますようよろしくお願いを
申し上げます。
日本劇団協議会の機関誌『join』に、演劇プロデュー
サーの北村明子さんへのインタビューが載っていた。
いつもロビーで天下を睥睨なさっているお姿を遠くか
ら拝ませていただいているが、ここに開陳された北村
さんの演劇制作に関する基本方針はまことに明快で真
っ当である。
要するに舞台は「プロフェッショナルの手に成る興行
」であるということなのだが、実はいまこういうこと
をはっきり言う人は少ない。
「人が入っても赤字になるような興行をしちゃダメだ
よ。入らなかったっていうんだったらわかるけどね。
そうじゃないんだったら、最低限黒字になる興行を打
たないとダメってことでしょ。」
「公演によっては、助成金を利用させてもらおうかな
というものもありますか?」
「うん。いわゆるかけるお金、舞台費だったりなんか
が、ある程度よりいいものをつくりたいという気があ
るときにね。採算ベースじゃないところでもうちょっ
とお金かけられるんだったらかけたいというところが
あって。でも、もしそれがダメだったら身の丈の予算
を立てるしかないでしょう。いずれにしろ、助成金あ
りきで予算を立てるというのは、ちょっとマイナーじ
ゃない。(略)木戸銭頼りにして成立しないものって
、どうなんでしょう。」
「身の丈の予算」というところにご注目ください。
「だって北村さんは早くから野田秀樹みたいな天才と
組んでたわけだし、客の入る仕掛けをしやすい恵まれ
た環境にあるからそういうことが言えるんだ、ブーブ
ー」という嫉妬の声が聞こえてきそうだが、そういう
ハナクソみたいなことを言ってはいけません。
日本で形成されてきたカッコ付きの「アート・マネー
ジメント」業界では、「どうやって資金調達をするか
」、ハイカラに言うとファンド・レイジングが大きな
テーマとして喧伝されてきたし、今もされている。
狭義には、企業からの協賛金や、各種財団・官公庁か
らの補助金や助成金をいかにたくさんもらってくるか
、そういうお金集めのスキルをどんどん研鑚しましょ
うというおすすめである。
これはさかのぼればあの有名な「あらゆる芸術活動は
経済的に自立できないものである」という命題に基づ
いているし、資金調達を徹底的にマニュアル化し、そ
れに習熟していることを制作者の必須条件としている
アメリカを一生懸命に追っかけている議論である。
また日本でも現に木戸銭だけでは到底やってけない所
帯がたくさんあるからそういう話題に食いつく人がい
るわけだが、これと「木戸銭でやってけない興行に果
たして意味があるのだろうか?」という北村さんの問
いかけとは真っ向から対立する。
なーんでか(@堺すすむ)。
アート・マネージメント、文化行政、文化政策、そう
いうアートにとっての「外部」を飛び交う言説は、興
行といういかがわしい語彙を徹底的に排除することに
よって成り立っているからだ。
オペラ・オーケストラから義太夫・講談に至るまで、
舞台公演のたぐいはいま官公庁的タームでは「芸術活
動」として括られる。
芸術は国家や社会にとって大変重要なものです。
ですからお金もあげましょう。ぜひがんばって芸術活
動を展開してください。
おおそうか。ワシらは社会的意義のある芸術活動を行
うのであるから、できるだけたくさんのお金を集めて
、少しでも規模の大きな活動を展開していかねばなら
ぬのだ。
私の目にはこういう発想が現在の舞台制作業界のメイ
ン・ストリームであるように見えてならないが、ほん
とにそれでいいのだろうか。
ヨーロッパ諸国のように文化を対外戦略の武器にする
のなら話は別だが、いま日本の業界で担ぎ回っている
社会的意義なんぞ「まあ結果としてそういう面も生じ
ますかね」という程度の話でしかない。
だいたい、たとえ資金調達のためのエクスキュースだ
ったとしても、社会のため、国家のため、なぞという
意識のちらつく場所で制作されたアートが、果たして
面白いことがあるだろうか。
だいたい「お客さん」の姿がちっとも出てこないのっ
て変でしょう。
「楽しいからやってんだべらぼうめ」「これやってな
いと生きてられないんだべらぼうめ」という極めて個
人的な衝動や欲望を体で表現する人たちがいて、その
ヘンテコな衝動や欲望を見たくてしょうがない人たち
がわざわざお金を払って集まってきて口をあけて見物
して帰る。
こういう一見プリミティヴに過ぎるような「興行」モ
デルが維持できないのであれば、それはもうホントは
「誰にとってもいらないもの」なのではないのかね、
と北村さんのはるか後方から出たり引っ込んだりしな
がら「そうだそうだ」とヤイヤイ言ってみたりなんか
するのである。