舞台の舞台裏
フィレンツェで大変お世話になったN島先生からメー
ルをいただいた。
N島先生は20年来フィレンツェに住み、大学の日本語
講座で教鞭をとられるかたわら、翻訳・エッセイでも
ご活躍。
先生のフィレンツェネタエッセイは、あの小さな町の
石畳の路地に立ったときの温度と匂いを、余すところ
なく伝えて類をみない。
お人柄も誠に温厚篤実な紳士であって、かわいい女子
学生にはことのほか親切、というあたりにも心からの
共感を禁じえないのである。
N島先生のメールによると、なんでもこんど学生が卒
論として永井荷風の『雨瀟瀟』をイタリア語訳するそ
うだ。
『雨瀟瀟』はこういう話である。
語り手は荷風を髣髴させる「私」。
その友人が、なじみの芸者に宮薗節の稽古をさせて一
人前にしよう、あわよくば家元になれまいものでもな
いと力を入れて面倒をみる。
宮薗節は浄瑠璃の一派で、荷風に言わせれば「夢の中
に浮世絵美女の私語を聞くような」、しんみりとした
情趣はあるが大変地味で古風な音曲である。
それを見込みのある芸者にひとつみっしりと仕込んで
みようという、お旦那の道楽である。
芸者は大変スジが良かったのだが、ほどなく芸をない
がしろにするようになり、挙句の果てに活動写真の弁
士とデキてしまう。
がっかりした友人は芸者とすっぱり手を切って苦笑い
。
というような顛末を手紙でやりとりしながら、「私」
は孤独な生活を続けるのであった。おしまい。
「江戸の繊細な美意識」を「粗雑で無遠慮な近代」が
侵犯していくという話の構図は分かりやすいのだが、
俳諧・漢詩・フランス語の詩に加えてもちろん宮薗節
の詞章も多々引用されるという、ペダントリーてんこ
盛りの文章である。
この注釈者泣かせの『雨瀟瀟』がどのようなイタリア
語に変貌するのかはとんと想像がつかないが、その学
生さんおよびご指導にあたられる先生方のご健闘を心
からお祈り申し上げる。
〈ほんらい、技術屋と事務屋の対立関係というのは、
技術屋が採算を度外視してできるだけ質の高いものを
作ろうとし、それに対して、事務屋が「それではコス
トが合わない」と言って質の切り下げを画策するとい
うかたちで展開するのが「常道」である。〉
というウチダセンセイのおっしゃる常道は、舞台製作
などという浮世離れした場所でもちゃんと逆転してい
る。
プロデューサーになりたての頃、予算案を作るときに
「まず見合い180%で作ってみろ」と教わった。
見合いとは収支見合いのことで、収入額に対する支出
額の割合。
チケット単価を無視して単純に言えば、必要な経費を
まかなうのにどれだけのお客さんが入れば足りるのか
、という目安になる。
見合い60%だと、チケットの60%が売れた時点でトン
トン。
それ以上売れれば、売れた分だけ黒字になる。
満員御礼・チケット完売=100%だから、180%の見合
いを達成するためには、一回の公演に劇場の収容人数
の1.8倍のお客様が詰めかけるというSF的な計算がな
されなくてはならない。
まずそういう予算を作っておいて、うまく通ればもう
けもの、通らなければ予算のあちこちをカツカツと削
りつつ顔色をうかがう、という手順である。
中には見合い180%のまま通ってしまう企画もあったし
、削っても150%とか130%とかいう赤字覚悟出血大サ
ービスの企画がほとんどであった。
そういう予算立てが許された時代があった。
さらにその昔には「客席は空いているほど美しい」と
いう言葉を残したプロデューサーもいらしたそうであ
る。
もっとも私は「見世物は見てもらってなんぼ」だと思
っているのでそういうセンスはよく分からないが、「
良い公演さえ作れば赤字でもOK」というムードが長
年にわたってたちこめていたのは確かである。
さような甘美な時代が永遠に続くはずもなく、許され
る見合いの上限は150%になり、120%になり、やがて
「見合いは原則として100%を上限とすべし」とのお触
れが出されるに至った。
そんなの当然じゃないかとおっしゃられるかもしれな
いが、わが社の商品は「伝統芸能」などという因果な
シロモノであって、現在その興行によってお金をじゃ
かじゃか儲けるというのは構造的に不可能である。
「不可能である」とか言ってるからダメなのよ。現に
S竹は儲けてるらしいじゃないの。企業努力が足りな
いのよ。
とおっしゃる方には本来細かい事情をお話してなぜ不
可能なのかをご説明しなくてはならないのだが、色々
言いにくいこともあるので勘弁していただいて、実は
ほんとにそうなのである。
商業的興行は、儲かっているときはよいのだが、儲か
らないとなると容赦なく見捨てる。
伝統芸能が見捨てられ朽ち果ててしまうと困るから、
文化財保護政策の一環として伝統芸能の公開=公演機
会を確保する、というのがわが社の公演の基本的なス
タンスである。
したがってそこに投じられるリソースの質と量は、わ
が国の文化財保護政策の「真剣度」「腹のくくり度」
の指標であって、「見合いの許容範囲」はその一つの
下部項目である。
さて劇場のキャパシティが決まっている以上、見合い
の低減はほぼ確実に予算削減を意味するのであるが、
プロデューサーの立場からこれに対処するための方策
は限られている。
収入についていえば、「お客さんが確実にどんどん入
るようなウハウハ企画をどかどか立てる」という方法
も考えられるのだがそれはプロデューサーにとって永
遠の夢と謎なのであって、最も現実的で実効性の高い
方策は「入場料金を上げる」ことである。
ただしこれは見かけ上・書類上のバーチャルな収入で
あって、値段が上がったために逃げるお客さんがいよ
うとも、それはまた別の話である。
支出を減らすための手段はいろいろある。
出演者の人数を減らす。出演者のホテルのランクを落
とす。ギャラの高い出演者は出さない。遠くに住んで
いる出演者は出さない。大道具を簡素化する。演目数
を減らす。調査・交渉のための出張はしない。
恐ろしいことに、どのオプションを選んでもワリを食
うのはお客さんなのである。
スカスカの大道具をバックに、あまり上等でない、し
かも待遇が悪いので気乗りのしてない出演者が少しだ
け出てきて、下調べの行き届いていない演出のもとに
、ちょっとだけ舞台を見せたらあっという間に終わっ
てしまう。しかもチケットの値段は上がっている。
これが舞台製作における事務屋の圧倒的勝利の末路で
ある。
現場とはいえ組織の一員として働く技術屋は、「なぜ
これが必要なのか」をウソでもいいからまくしたてて
形勢を立て直さないといけないのだが、概して事務屋
は現場の技術屋より弁が立つ。
しかもモノが舞台などというふわふわした頼りないも
のだと、説得力のある主張(『こんなに便利』とか『
こんなに儲かる』とか)を繰り広げるのは大変に難し
い。
その「アートの言い分」を考えるのもアート・マネー
ジメントの一つのお題ではあるのだが、えてしてアー
ト系の技術屋とアート・マネージメント的なる言説と
はとっても相性が悪いんだなあ、これが。困ったもん
だ。