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Marzo 2007 アーカイブ

05.03.07

ブタさんからひさしぶりのイタリア便り

1月3日(水)

ブタの文化があるエミリア州に来てから、特に楽しみにしていたのが、ブタの解体。それが今日友人の友人のところで行われるということで、普段は9時過ぎに起きているところ、頑張って日の出前、5時半に起きて、ヴィデオカメラ持参で参加してみた。

うちの現在ガレージになっているところで、その昔、義父なども畜殺していたそうで、その名残として、今でも牛の鼻輪とつないで固定する取っ手の輪などが残っており、夫も友人もその手伝いをしていたそうだ。

それこそナイフで殺していたので、ブタなどもヒーヒーと鳴き、義母などはとても見ていられたものではないなどと言っていたが、今ではピストルで殺すらしい。それでは、心持ち気も楽かもと思い、出かけた。

まだ周りは真っ暗で、倉庫の前では、大きな鍋でお湯を沸かしているのが見える。

肝心のブタは?と聞くと、トラックの上にいるらしい。

男の人たち3人が道具をそろえたり、エプロンの紐の長さを調節したり、準備を整えていた。

ピストルを見せてもらうと、いわゆる普通のピストルとずいぶん形が違う。入れ込む弾は1発だけ、まっすぐな短い筒である。

いよいよトラックの上のビニールシートがよけられ、ブタが入った檻が見えた。寒いせいか、暗いせいか、何も知らないせいか、それともすべてをさとっているせいか、ブタは身動きもせずおとなしくしていた。

トラクターでブタを檻ごと地面に下ろし、男の人たちは倉庫に戻っていった。

さあ、いよいよブタと男の対決か!

と胸をふくらませて期待していると、ボスがピストルを持ってきた。

「(あれ?倉庫の中でブタを放して、それをピストルで撃つんじゃないの?)」

頭の中で?マークが点灯している中、檻に入ったままのブタの頭に筒を直接あてて、ポンッと乾いた音が一発。ヒヒーッとちょっと驚いたような声を出しただけで、何も起こらない。ナイフでのど元をサッと切ったときに、足をばたつかさせて、ヒヒーといやがったが、その一瞬の後、また何も起こらない。

どうやら、ブタが檻の中で頭をゆらしたため、打ち損ねたらしい。

よく見ると、弾は頭に当たっているのだが、打ち所が悪かったみたいだ。

ボスが弾を詰め直したピストルを持って戻ってきて、もう一度狙いを定めて頭に筒を当てたが、またブタが頭を揺らす。

ポンッ!

また、何も起こらない。

ボスが大きな銛であごの下のところを突き、頭を固定させて、助手がのど元を切ろうとナイフを差し出すと。今度は大きく体を揺らしてヒーヒー鳴いて嫌がった。その動きにビビッた助手は何もできず、「何もできやしない、檻の中なんだから」とボスが励まし、もう一度チャレンジしたところ、のど元が大きく切れた様だ。暗くてよく見えないが、血がボトボトと落ちているようである。ブタの口の中にも血がたまってきているようだ。ゴボッという音が口元から聞こえてくる。それでも、4本足でしっかり立ったままで、倒れない。苦しそうに、自らの血に足を滑らせながらも、必死で立っていようとしている。ブタの匂いがぷう~んと漂った。血の匂いなのか、いわゆる獣の匂いなのか。さっきまでこのような匂いを感じなかったのに、もしかしてブタが恐怖を感じて強い匂いを発しているのか。檻の中で暴れながら、苦しんで、最後まで倒れないブタの姿はさすがに胸が閉めつけらるようだ。男の人たちはすでに倉庫に引き上げ、その後の準備をしている。長い間のように感じられるその明け方の静寂の中、言葉もなく、出血死していくブタの姿をひとりでじっと眺めるしかできなかった。

ブタが動かなくなったころ、友人が倉庫から出てきた。

「動かなくなったよ」

「どれ?」(足でチョイチョイと倒れたブタの鼻先をつつく)

「やっぱり死ぬところを見るのは辛いね」

「でも、サラミを食べるときはそんな辛さは感じないんだろう?」

「・・・」

「僕はサラミ大好きだね」

「いつもこんな苦しんで死ぬの?」

「いや、プロは一発でコロリと死なせるよ、彼らは不慣れだからね」

「コロリと死んでくれるんだったら、いいんだけど」

「じゃあ、次回は僕が打つよ」

などと話をしているところに、他のメンバーも出てきた。

おおまかにその場で血を洗い流して、ブタを倉庫まで運び、熱湯をかけながら毛を剃り始めた。ひずめのところにS字型の取っ手をひっかけて、それを持ちながら足元から始め、耳の中までも切れ味がいかにもよさそうなナイフで男3人がかりで分担配分よく、きれいに剃っていった。

そして、また銛のようなものを持ち出して、4本足とも爪をひきはがし、

後ろ足2本にS字型の取っ手をつけて、トラクターでつるし、引き上げられた。

そろそろ薄日が差してきて、ブタにかけるお湯の湯気がもうもうと全身からたっているのが見える。

こうしてぶらさがっているブタ全身を見ると、結構大きいものだ。ちなみに重さは250キロ。少し大きめのものらしい。

さて、ここで開腹作業開始!というところで、わが手元のヴィデオファインダーより見える画面が真っ暗になる。

「(やばい!バッテリーが切れちゃった!)」

珍しい光景に夢中になって撮影していて、バッテリーの計算をすっかり忘れていた。というより、残りあと10分以上はあっただろうに、いきなり暗くなってしまったのである。久々に使うので、バッテリーが劣化してしまったのだろうか。

残念だが仕方がない。

少なくとも、この目ではしっかり見ておくぞと、カメラをしまった。

前日、友人は「汚れやすい状況だから、気にならない格好をするように」と言っていたので、普段のオーバーを着ることもできず、ペンキ塗りに使っていた服を重ね着してきたが、そろそろ寒さが身にしみてきた。

暖炉のすぐそばに移動し、そこから目をこらして様子を見る。

お尻の方からスパッとお腹を切り、内臓がズルズルと出てきた。

それこそ、ブタはお猿さんの次に人間に近いというし、ブタの内臓を人間に移植した話なんかもあるぐらいだから、人間の内臓もこんな感じなのかしら、と思いながら、興味深く見ていた。

内臓の各部位を切り分けて、お湯で洗い流し、さっと干していく。

見ていてすぐにわかるのは、肝臓ぐらい。あとは、あきらかに長い管の形をした腸かな。

あとは人間の体のことでもよく覚えていないこともあって、ちんぷんかんぷん。

なにやら、網みたいなものも広げて乾燥させていた。

こんなものも体内にあるんだねぇ。(横隔膜?)

そのうち、ひとつの部位に空気を入れて風船のように膨らませて干していた。

「あれは何?」

「膀胱だよ」

「どうして膨らませるの?」

「今やらないとカチコチになっちゃうからね、あれもあとで使用するんだよ」

一通り内臓を出してしまうと、のこぎりをだしてきて、ブタを真っ二つに切り出したが、なかなか重作業のようで、二人がかりで交代して行っていた。

そして、頭のあたりより、何かをつまみ出していた。

その皿に出されたものが少量のものが何の内臓なのかわからず、思案していると、友人が「脳みそだよ」

と教えてくれた。

他の内臓と比べると小さく、しかも、人間の脳みたいな(って実際に見たことはないけど)ある程度固まったものを想像していたので、チューブ状のそれが脳だとは想像ができなかった。

もしかしたら、白い管みたいなものは、つながっている神経みたいなものかもしれない。

これも、フライパンで炒めて(?)食べるらしい。

ボスは各部位の肉を切り下ろしていき、残りの二人はそこから脂肪分を丁寧に切り分けていた。作業がすすむにつれダレてきたのか、一人がちょっと大まかに脂肪を切り分けているのを見つけて、

「こら!ここにも赤身はあるじゃないか!それらを合わせるとサラミが何本できるやら」

ともう一人が渇を入れている。

彼らは自分たちが食べるものだから、自然とチェックが入り、作業も丁寧に行われているようだ。

彼ら曰く、このブタは脂肪分が少なく、いいブタだそうだ。

普通、あまりに脂肪がつき過ぎない180キロレベルで売られるケースが多いらしいが、彼らは250キロと少し大きめのブタを買ったのでそのあたりを心配していたそうである。つまり、お肉が多くて、サラミがより多くできるってわけだ。

6時から気がついたらもう12時前。

あっという間に時間がたったが、非常に興味深いものを見させてもらった。

(正直言うと、もっと動きがあって、血が飛び散るワイルドな場面を無知にも期待していたけど)

明日も是非撮影にやってくる、と約束して、ウチのお昼の支度に一足先に帰らせてもらった。

ブタの(苦しんで)死ぬところを見てしまったから、お店でみかけるお肉になっていくところを見るのもイヤになるかなぁと思っていたけど、不思議なことに、作業がすすむにつれて罪悪感みたいなのも消えていった。やっぱり私はヴェジタリアンにはなれないや。おいしいものはおいしいし。

撮影取り逃したところもたくさんあるし、是非次回も参加させてもらおう!(もしかして、悪趣味?)

1月4日(木)

今日は昨日解体したブタの各部位の処理、およびサラミ作り。

昨日の早起きが響いて、今朝は寝坊。10時前に着いてみると、すでにサラミ作りは作業半ば。おおっと、面白い場面をまたしても見逃してしまった・・・。

外ではドラム缶の中で、モツがぐつぐつと煮えている。

その横で大きな鍋をおじさんが辛抱強くかき回している。中身は、脂肪。その中で、コテキーノ(ソーセージ)とホロホロチョウが網に入れられてぶら下がっていて、イイ具合に煮込まれている。ローリエの小枝ごと突っ込んで香りづけられ、5時間じっくり煮込まれたこの脂肪鍋はその後ラードになる。

大きく切り取った各部位には塩と胡椒にスパイスを混ぜたものを刷り込み、1週間ほど寝かすらしい。

サラミの皮に使うのは、昨日取り出した腸の皮。

これを水などで洗い流したものを、さらに暖めた白ワインに漬けて洗い、使う。

いくら洗ったとはいえ、ここにはもともと大便があった場所なので、もちろんお肉が入るのは腸の外側、そして出来上がったサラミの外側が腸の内側だったものである。

そう言われてみて、ごもっとも、と大きくうなずく。

ワインに漬けた中から引っ張り出してきたものは、すでにちょうどいい長さに切って、片方は縫われているらしく、それをミンチが出てくる細いチューブにぴったり巻きつけて、空気が入らないようにミンチを押し出す人と呼吸を合わせてお肉を詰める。チューブにぴったりはめ込むところなんか、思わずセクシーッと思っちゃったけど、そこにお肉が詰まって行きだすと、形がいかにも「腸」の形になって、そのリアルっぽさに思わず言葉を失って見続けてしまった。なんというか、生々しい作業である。

そして、その袋の開いている側を紐で縛って閉じ、器用に周りにも紐をかけていく。

作業に見とれているうちに、あっという間に干し台にサラミが一杯になった。

脂肪鍋で煮あがったコテキーノと改めてオーブンで焼かれたホロホロチョウ、モツ鍋で煮あがったものもコリコリムチムチしていて、非常においしい。

お塩だけでいただくのが正解。シンプルがベストよね。

ブタの解体の「匂い」をかぎつけた友人たちもチーズやワインなどを持ち寄り、男の人たちの手づかみダイナミックな昼食の中の紅一点として、「もっと食べなよ」の言葉に甘え、パクパク頂いちゃいました。

おうちのお昼の準備をしないといけなかったので、早々に退散しちゃったけど、モツ鍋と脂肪鍋の残り物は漉されて、圧縮して、チッチョラータになるとか。

ほんとつくづく、ここのブタって、日本人のクジラと同じように捨てるところなく使われるのね、と感心する次第。

(おおっと、クジラを食べるって大きな声で言っちゃだめだったね。)

1月12日(金)

前回塩でもんでおいた部位の形を整えて縫って、紐をかけて、地下の貯蔵庫に干せる状態までが今日の作業。

膀胱の袋なんかが各部位を入れる皮に使用されて、ちゃっちゃと大きな針を使ってざっくり縫い、サラミの時の同様、器用に紐をかけていく様子などをカメラにおさめた。

それよりなにより、今日のヒットはやっぱりクラテッロの3年物かな。

ここまで熟成させたものを食べる機会はそうそうなく、聞くと、お店ではだいたい3~6ヶ月もたてば店頭に出してしまうらしく、そういや、これまで食べたものはもっとやわらかくて、明らかに若いものだったなぁ、と思い起こす。(もちろん、やわらかくて舌の上でシュワッと溶けてしまうのも美味しいが。)

地下から持ち出してきたそのクラテッロをクンッと嗅いでみるとカビの匂いばかりで、ハムらしい匂いがしない。

「(もしかして、食べるのが遅すぎたか・・・)」

と友人の顔も曇りだすが、ボスが、ハムの熟成検査などの映像ではおなじみだった長い針みたいなのを取り出してきて、中に突き刺し、嗅いでみて、OKサインを出し、私にも嗅がせてくれた。確かに、中身はかびていないようだ。

皮をはいで、薄くスライスしたものは、赤みもとてもきれいで、一口かじってみると、香ばしさが違う!味が濃縮した感じだ。乾燥しているので、思わずそれこそポテトチップスのようにパクパク口の中に入れてしまいそうだが、3年物とくれば、キロ当たり150ユーロはいくだろうか、ブタの部位の中でも一番値段が高いところだし、出費にも参加していない私が大口あけて食べるのはさすがにハシタナイと思い、スピードを落とすが、ちびちびと食べては思わず手を伸ばしてしまう。

ほんとは、ちょっと味見をさせてもらったら、昼食の準備のために家に帰ろうと思っていたのだが、結局おなかがいっぱいになるまで、居ついてしまった・・・。(あとで、義母が食事の準備もせず、、、と愚痴っていたらしいが、夫が私のことをカバーしてくれて、食事も作ってくれたことを知り、ちょっと反省。でも、今回は友人の車で来ちゃったからお楽しみ中の友人にも言い出しにくくって・・・(いい訳かな))

彼ら左官屋さんの冬のお仕事としての、昔はブタ解体をする人も多かったらしい。

もし、汚れることとか気にならないのであれば、確かに、小金儲けにいいかもしれない。

ちなみに費用は、ここだけの話、彼らのように申告せず、非合法でやると、大雑把に、ブタが500ユーロ強、畜殺用設備、備品、消耗品などが150ユーロ、作業代が250ユーロ、その他もろもろ、3人で3日の約20時間労働でざっと1000ユーロといったところ。(彼らの場合、友情やそれ以外の貸し借りで作業代とかも支払われているはずだから、もっと低めに抑えているだろうけど。)でも、これを合法的にやると、ここにあらゆる書類や印紙代、獣医による検査などややこしいことが加わって倍額ってなところらしい。

もっとも、彼らは自分たちの食べる分として、毎年2匹殺して、その他販売なんかは全然その気がないみたいだし、確かに手続きやコントロールも面倒だから、自己責任範囲で楽しむのがベターだね。(って、おこぼれにあずかる私がコメントできることじゃないナ)

今日用意したものは、3年後の2010年に食べるらしい。

楽しみ楽しみ。

今日の撮影分上映会では、義母もなつかしそうに見ていた。

とくに針でざくざく縫ったり、紐をかけたりする作業は主に彼女たちの夜の作業だったらしい。冬場は毎週4~5匹殺していたらしいから、きっとベテラン作業だったんだろうな。

12月31日(日)

とうとう2006年も今日で終わり。

今年はやはり特別な1年であった。

家に閉じ込められた暗い1年であった。

義母は「大晦日ですし、是非!」と誘っても、私たちと時を過ごすことを拒否し、いつものごとく早々に寝室に行ってしまったし、夫は今日はほとんど動かず、夕方からはぼーっとテレビを見ている。そして、私はたまっていた色物の手洗いを片付けてから、夕食までのこのひと時、コンピュータに向かっているわけだ。

クリスマスにトリノで縁があった人が亡くなったことを3日前に友人から知らされた。

友人と呼べるほど親しくさせてもらっていたわけではないが、イタリア語の学校で3年ほど毎週2回ほど顔を合わせていた縁もあって、私が学校に通わなくなってから疎遠にはなっていたが、私にとってはイタリアに滞在する日本人の大先輩として大きな影響を受けた人だっただけに、そんなことになっていたと全く知らずに、お葬式にもいけず、寂しいという気持ちより、なんとなく精神的にどんよりと落ち込まされた。

小説や映画でも、現実の場面でも、人が死ぬ場面は苦手だ。

私と全然関係のない人のことでも、心がぐっとつまって、涙が出てくる。

彼女の小さいほうの娘さんはまだ大学生で、彼女自身はあと数年は生きていたい、死にたくない、と言っていたらしい。死ぬのは怖い、とも言っていたらしい。

義母は毎日のように、死にたい、と言っている。

私たちとの生活は、どうやら苦痛でしかないらしい、悲しいけど。

彼女の希望通り、放っておいてあげたいところだけど、一連の医者めぐりにて、彼女の身元責任について、医者は夫にはっきりと「弁護士によくご相談ください」と言っていた以上、彼女を餓死あるいは急性アルコール中毒で死なせるわけにはいかないのだ。アルツハイマーの症状も日々進んでいるようで、数ヶ月前は半日前に起こった事は覚えていたのに、今では、時折息子のことさえわからなくなることもある。ただし今は、とんちんかんな話をしだしても、「しっかりして!今どこにいるの?」と言うと、ああ、と正気に戻ることが出来る率が高い。医者の前に出ると、その「正気」な状態になるため、付き添いが必要という認証ももらえず、彼女にアルコールを売るお店に人に「彼女は判断能力がないから、アルコールを売らないでください。」とも言えない。彼女は十分「まとも」であると思っているし、医学的に言ってもまだ一人で季節外れなものであれ洋服を着て、一人で買い物に行って、一人で排便を行い、めちゃくちゃであっても何かをひとりで食べる状態である以上、十分に「自立」しているし、であれば彼女自身で自分のことを保証してもらいたいところだが、退院時の病院のレターによると彼女の身元責任者は息子である夫ということになっている。つまり、義母は自立した人間として自分で好きなことをすることができるが、その結果は夫が責任を負うという状況で、非常に扱いにくい時期である。

でも、もうまともに料理もできないため、少なくとも昼食は無理強いして一緒に食べて、彼女が食べ終わるまで監視しているのがどうやら気に入らないらしい。

彼女の興味がもてるようなことを考えて、一緒にパスタを打ったり、ケーキを焼いたり、縫い物をしたり、いろいろ手段を尽くしているつもりだが、もはや、そのようなもの、いや何に対しても興味を失ったらしく、その時はなんとか気を引くことができるが、長続きしない。気分転換に外に引っ張り出して、車でドライヴなどをしても、窓の外を見ている目がうつろな時が多い。彼女の若い頃の音楽を聞かせても、「こんな音楽、どこがいいの?」と批判ばかり。そして、彼女の部屋へ早々に退散する。

私は、彼女が私たちへの遠慮から退散しているものとばかり思っていた。彼女自身の姑との生活が彼女をおそらく苦しめた経験から、やさしい彼女は私たちに気をつかっているのだと思っていた。でも、どうやら、そういう簡単なことではないらしい。

私たち自身は、義母の存在は邪魔ではないし、一緒に暮らしましょう、と意思表示を十分にしてきたつもりだったが、どうやら彼女はそれがいやならしい。

この1年間、毎日3回は一緒に何かをすることを誘うのだが、結果は散々。いつもそわそわと居心地悪そうにして、何か無茶苦茶ないい訳を言ってはすぐに私たちから離れたがるのには、さすがに意味があるのだろう。気が向いたときは「ありがとう」とは言っているけど。

毎日決まった時間に薬を飲ませ、無理やり食べさせ、彼女の買ってきたアルコールを取り上げる私が疎ましくもあるのだろう。「私のことをバカにしているんでしょう。」というよく口から出る台詞にも表れている。

何か彼女の思っているとおりにことが運ばないと、

「私はおばあちゃん(姑)と一緒に何十年も暮らしてきたけど、おばあちゃんがすることに口を出したことはないわ!そして、そのことを誇りに思います。」

と言って、私たちを責める。

年をとるとエゴイストになるのは重々承知しているが、毎度ながらこの台詞はやはり辛い。

夫は、この台詞を聞くと、非常に苛立ち、声のトーンが変わる。

そして、お互いにわーわーと言い合って、最終的には「もう勝手にしろ!」「そうさせていただくわ!」で終わる。で、夫は私に「お前ももう彼女を放っておくことだな!」と言うのだが、私の気持ち的にそれに従うことはできない。私としては、夫も病人で、体がいうことをきかないし、怒りっぽくなっているのを計算に入れて、彼女は自分が10分前に言ったことも覚えていないことも考慮して、自分の気持ちを抑えるよう努力しながら、いつものとおり、毎日薬を持って行き、食べさせ、アルコールを取り上げる生活を続けている。

外見的には、1年前の状態と比べると、彼女はよくなっているようで、近所の人たちは「若返ったじゃない?彼女になにをしたの?」などと言ってくれるが、アルツハイマーは容赦なく進む。

問題は、彼女が何を本当に求めているのか、わからないことだ。

夫は、彼女は私たちの注意をひきたくてああいうことをするのだ、と言うが、これ以上何ができるというのであろうか。

死にたい、と言っているが、本当に死にたいのかどうか、わかったもんじゃない、とも言う。これについては、私は、死にたいのは本心だが、死が怖いのだろう、と思う。

彼女が僕の家族を壊す、とも言う。確かに、夫との親密な時間というのは減少したし、精神的にも常に緊張していて、疲れているので、優しい気持ちになれないときもある。

夫は、自分の家族を(再び)失うようなことになりたくないので、家族を守ることを優先することにした、と宣言し、義母とのあれこれに振り回されないように彼女とのかかわり度をなるべく低い状態に保つ選択をした、と言い、私を喜ばせると共に、困惑の渦にも突き落とした。今の彼女の状態では一人にしておくと心配で仕方がないので、外にも出たとしても、薬の時間の前にはすぐに帰るし、ましてや旅行に出るなどとは夢のまた夢であるが、彼女を一時的に施設に預けるなどしてでも僕たちは旅行にいくぞ!と言っているのである。

彼女が素直に施設に行ってくれるとは思わないし、他人が家に入ってくるのは彼女が受け付けないし、親戚も頼りにできないし、彼女を家でひとり残して、旅行に出るのは、自分たちの親に対する義務を怠っているようで、行きたいのは山々だが、気が進まない。そんな私の様子を見て、「君もどちらかを選択しないと、身が持たないぞ!」と夫は言う。義母は確かに弱っているが、あの世代の人に多い、基本的に体が強いので、彼女中心の生活をしていると、なんだかんだいって、あと10年はケロリと生きている可能性は比較的高いかもしれない。夫は「僕は手足が自由に動かなくなるまで息抜きもできないのか?健康なうちに楽しめなくて、なんていう人生だ!」という。ごもっとも。私としては、こういう夫に感謝して、その夫についていっていいのだろう。まだ心の準備ができないながら、2006年が終わる。

9月15日(金)

2週間ほど前に、下の階に住んでいるモロッコ人のところへ、やっと滞在許可がおりた奥様がモロッコからやってきた。同じ屋根の下に暮らしていて、大家でもあるうちまで紹介しに来てくれないかなぁ、と期待していたが、やっぱり思っていたとおり、そのようなことはお構いなしのようで、私はまだ実際にあったことがないが、階段の上から、ちょうど夫婦で外出するときにちらりとみかけたのでは、頭の上からつま先まですっぽりと黒い布で覆われていた。いわゆる典型的なムスリムの格好だ。興味もあるし、女性同士仲良くもしたいものだが、彼女も異国の地に来て間もないことだし、もう少し機会を探って待ってみることにしよう。

面白いのは、彼女が家にいるようになってから、扉の鍵を閉めるようになったことだ。

こっちはいつも扉も開けっ放しで、同じ建物の中の家を信用して貸したのだから、鍵を閉めるのはもっと別のこと、「新婚だなぁ~」と思わず失笑した。もっとも、結婚して滞在許可が下りるまで約1年も離れていたのだから、わからないでもないが。それとも、これもいわゆるムスリムらしい、奥様を他人の目から隠したいという嫉妬心か。昼食を食べに帰ってくるときと、仕事が終わって帰ってくるとき、ちょうど、こっちも扉の近くにいる時間帯で、「カチャッ」という音が下の階から聞こえてくるたびに、思いあぐねてしまう。

彼らのことは不案内なのもあって、不可解なことも多い。

仲良くしたいと思うのだが、バリアーがあってなかなかよそ者は入れてもらえない。用事があって扉をたたいたこともあるが、開けてもらえないことが多い。トリノで知り合ったモロッコ人家族のお宅へおじゃましたときに、私は女だからいいけど、夫を連れてきたいといった瞬間に、その日はお父さんにも家にいてもらわないといけないから、日取りを調整しなきゃね、と言われてしまい、お邪魔はしたくなかったので、そのまま気が引けてしまった経験がある。家族以外の男性がいるときは、スカーフをかぶらなければいけないし、いろいろ制限があるんだろう。しかし、異国に着たばかりとはいえ、下の階には同郷の人たちがひっきりなしに行き来していて、きっと寂しいと思うことも、私がイタリアに来た当初のような孤独感もあんまり感じてないだろうな。できることなら、モロッコ料理なんか教えてもらいたいものだけど。

今朝、ラジオでフランスのシラク大統領がフランス人による全世界ネットワークの放送チャンネルを作ることにしたと言っていた。曰く、アメリカのCNNやアラブ世界のアルジャジールなどから発せられる「ウソばっかりの」情報がフランス人にシャワーのように浴びさせられるのに我慢がならない、ということらしい。少なくとも、フランス人には「まっとうな」情報が得られるようなソースがあるべきだ、という、いかにもフランス人らしい発言だった。もっとも、CNNを見ていたころは、その情報の偏り方に私でさえイライラしていたぐらいだから、政治家にとったら、大きな頭痛の種だったに違いない。ここは大いに歓迎したいシラク大統領の発表だった。

9月12日(火)

あ~あ、なんだかとっても落ち込んできた。

友人たちがどんどんおめでたや出産の報告をしてくるし、すでに母となっている人は朗らかに「おめでとう!」ってメッセージを発信しながら、先輩としてアドヴァイスしたり、仲間ができたってよろこんでいたり、そして、夏休みが終わって、日本から帰って来て、その報告をしてくれたり。もちろん、めでたいことはいいことだし、おしゃべりするためにお食事会を計画したり、楽しいことを次から次へと知らせてくれるのはいいけど、そういうことができない、というか、むずかしい私の立場からすると、素直に喜べなくて、どんより気分が滅入ってくる。MLは便利だが、こういう面ではやっかいなツールだ。

なんていうか、暗い時期を過ごしているんだろうなぁ、私。

カレンダーには義母と夫の病院行きや検査の予定ばかりがあり、外に出て気分転換したいような気もするけど、私の性格的に、こういう状況の家族をおいて、自分の楽しみに時間を割くというのはなんとなく気が進まない。友人たちの楽しそうな声を聞くと、うらやましく思い、自分も少しぐらい遊んでみたい、と思うが、同時に後ろめたいような気がして、素直になれない自分の性格がうらめしい。

それこそ、日本に帰って、息抜きもしてみたい。日本のデリケートな料理も食べたい。でも、夫と共にでは実家が受け入れてくれないし、夫と離れているのでは、例のごとく、家のことが気になるし、開けっぴろげに楽しめない。ホテル代だってバカにならないし、友人の家に恐縮しながら宿泊するのも気が重い。そういや、このユーロ高で、今回日本に帰った友人は「日本って物価安い!」って思ったらしい。そんな話を聞くと、思わず「本当かぁ~」と思ってしまうが、実際ユーロは強くなって、時代は変わっていくんだなぁ。

夫は自分の思うとおりに動かない体にいらつき、きつい薬のせいもあるのか、ちょっとしたことに怒りっぽくなった。義母がどんどん衰えていっているのが目に見えるのも気になるのだろう。

ほんと、息抜きが必要だ。

だが、息抜きをしたくても、義母のことなどが気になって、それを切り離すだけの勇気もない。

ああ、おいしい和食が食べたい。

8月30日(水)

義母の調子はまた飲み始めたのもあり、非常によくないが、昨日は何もかも振り切って、トリノに行った。トリノで下の階に住んでいたロベルトおじいちゃんのお見舞いである。

そして、その結果、今日も非常に滅入っている。

ああ、人間らしく死ぬことと、周りの人に迷惑をかけない老後の生活というのは、なんと難しいことであろうか!

おじいちゃんというよりも、おじさんという感じに近いかもしれない。年齢的には夫と亡き義父の間。よぼよぼと犬を連れて歩く姿は老人そのものだが、私と出くわすたびに、大げさに私の美をたたえ、中世の騎士のような格好をして私の手にキスをし、世界一周したときの話などを目を輝かせて話してくれたものだ。夫とは親しい友人のような付き合いで、頼りにもされていたし、週末には犬の散歩のお供をして一緒に丘の公園を登ったり、車で遠出をして、化石を掘りに行ったこともある。

私たちが去ってから、ロベルトはいろいろ病気をし、入院したり手術したりしたらしいが、ロベルトの姉が、彼の長年同居している愛人を無視して、世話を仕切れないという理由付けで施設に入れてしまったという連絡を親しくしていたその愛人から受けたわけだが、その彼女曰く、とんでもない施設に入れられて人間扱いされないようなところで、姉も一度も訪れないような状況で、生きる気力を失っている、ということだったので、今行かなければ、もしかしたらもう会えないかもしれないと思い、こちらの状況は目をつぶって行くことにした。

トリノについてすぐに愛人と、ロベルトを通じて丘の公園で知り合った友人をピックアップして、そのまま施設に直行。建物自体は、町から遠く離れたよくわからない場所にある、朽ちたアールデコ風の建物だが、彼がいる棟に行ってみてビックリ。施設というよりは質素な病院といった感じで、なんと寝たきりになっていない人は車椅子にベルトで縛り付けられていた。ざっと30人ぐらいの患者というか入居者がいる中、世話をしているのはみかけただけで2人。明らかに人手が行き渡るような状況でない。訪問客は私たち以外は皆無。娯楽室とでもいうのだろうか、ベッドが入っていない部屋には、テレビが1台、ぽつんと置かれているのみ。そこにも誰もいなかった。廊下に2人ほど男性がうつろな目をして車椅子で出ていた。私たちの姿を見て、このベルトを外してくれ、と訴えるのだが、看護士の方を見やると首を振っていた。ロベルトは部屋の中で車椅子につながれていた。愛人マファルダ曰く、前回来たときは下着なしで、バスローブ姿で車椅子につながれ、話をすることさえできなくなっていたと聞いていたが、今回は少なくともパジャマは着ていたが、私たちがすぐには誰かわからないようだ。少し混乱しながらも、車椅子から立ち上がろうともがくので、看護士に少なくともベルトは外してもらえないか、と頼むと、外してもらえた。きっともう何日も歩いていないんだろう。フラフラとつかみながら立ち上がった姿は骨と皮であった。何か言いたそうだが、それこそ声も何日も出していないに違いない。口をもぐもぐさせて絞り出てきた音は、私には意味不明であった。それでも、女性である私に対して、挨拶をしようと近寄り、自分の身の回りを整えようとでも思ったのか、ベッドの周りをふらつきながら行ったり来たりし、ベッドの枠を取ろうとするのだが、固定されていてどうすればいいのかわからない。彼のあまりに変わり果てた姿に涙がじわりと出てきた。まずは彼を歩かせなければ、と女二人が脇を抱えて、部屋を出た。体もひょろひょろとずいぶん軽い。マファルダが、続きの違う棟には、それなりのお金を支払って入居している人たちがいて、そちらはきれいな建物で雰囲気が違うというので、みんなで行ってみた。入り口のサロンまでしか私たちは入ることはできないが、大理石の床に座り心地のよさそうな椅子、ちゃんとガウンを羽織ったおじいさんが一人座っているのを見つけて、ロベルトは胸に手を当ててお辞儀をして挨拶した。そのほかには人っ子一人見かけないけど、たしかに環境は全然違うようだ。お金持ちだったロベルトだったら、何の問題もなく、もっといい環境のところに行けただろうに。そう思うと、彼の姉の非人間的な行為に無性に腹が立ってきた。だが、他人である私たち、20年以上一緒に住んでいた愛人でさえ、ロベルトを別の場所に移すことはできないのである。唯一の血族、そして、訳アリでロベルトの全財産を生前に引き継いだ姉のみ、彼の身元責任者として、書類にサインできるのである。ああ、むなしいものだ。

8月17日(木)

あ~あ。はっやいなぁ。

もう夏も半ばをとうに過ぎ、異常に暑かった7月の後は、異常に寒い8月。

その8月も半分以上過ぎちゃった。

この異常気象に、今年はハエが大量に発生したのか、いつものこの時期はそれほどでもないのに、窓を開けているだけで、ブンブンと家の中を飛び回り、いやらしいほどしつこく寄って集ってくる。

特に食事中に邪魔されるのが一番癪にさわるので、ハエたたきを手に握り締めて、隙を見つけては、1食中、平均8~9匹ぐらい、たたき殺している。

ああ、すみません、動物愛好家のみなさま。

でも、ほんとに今年のハエは「いやらしい」んです。

はい、はっきりいって、ガマンできません。

なんだかやっと最近、ちょっと余裕ができて、「リタイヤ」的雰囲気を少しずつ楽しみ始めたところ。

夫の症状は改善するどころか悪化する面もあり、強い薬に変えた影響もあるのか、手足の力が弱まり、あれほど力が強かった夫が瓶のふたさえ開けられなかったり、スプーンの柄を短く持たないと震えて中身がこぼれたり、何かにつかまっていないとまっすぐ立っていられなかったりするのを見ると、「そのうちよくなる」と思っていた楽観的見解も、このまま元に戻らなかったら・・・と、さすがに不安になる。救いは、本人が前向きなところでしょうかねぇ。

でも、自分のことだけでも精一杯なのもあって、その夫と義母は冷戦状態が続いている。

しばらく義母の調子もよかったのだが、元気になってくると、彼女の悪っ子な面が出てきて、私たちの目をかすめてまた飲み出したので、というか、他の(彼女にとって都合の悪い)事は記憶できなくても、お酒を買いに行くことだけはしっかり覚えているという、いわゆる子供っぽいやり方で、見事に私たちを見くびってくれるので、夫はすっかり頭にきて、義母の世話を完全放棄、完全無視を始めたわけだ。

そうなると、私としてはどっちにつくと聞かれると、当然夫につくわけだが、かといって、義母を完全に放っておくわけにもいかず、夫が義母の部屋に放棄した彼女の薬の山を拾い上げて、私が管理し、彼女がいやがろうが文句を言おうが時間通りに与える役目を買ってでた。食事も「あんたたちの食事の世話なんてもうしたくないわよ」とおっしゃっていたので、私たちは嬉々と自分たちの台所で食べることができるようになったんだが、そのまま放っておくと飢え死にするのは目に見えているので、「めずらしい料理に挑戦しましたの」とか「ちょっと多めに作ってしまったので」とか言い訳を作って、彼女の分のみを彼女の部屋に運んで、運び入れる前に、必ず「私たちと一緒に食べませんか?」とお誘いをしてから、彼女がNOと言うのを待って、「では、これを」と差し入れる生活に変えた。

なんというか、楽である。

つまり、私の立場としては、夫のように完全に切り捨ててしまうわけにはいかないので、中間の道を選んだわけだが、彼女が何をしているのか、何を買ってきたのか、何か物音が聞こえるたびに、ビクッとして飛んで行って、チェックしていたのをやめて、なるようになれ、と、まだ思い切れていないけど、思うようにしようとしはじめて、そして、夫が「出かけるぞ」というと、義母を置いて、夫について出かけて、義母のことを忘れるように心がけて、自分たちの時間を楽しむようになって、気がついたのは、やっぱり気が張っていたんだな、ということ。

なによりいいのは、夫と義母が言い争いをしないことかな。

お互い、精神衛生上、いいみたいで、プラス義母の記憶力のなさがそのことさえ忘れさせるみたいで、案外いい方法かも。私もオロオロしなくてすむし。

あと、私は血がつながっていないから、義母も遠慮があるし、夫が言うよりも私が言ったほうが言うことを聞いてくれやすいことかな。さらに、義母はきっと娘がほしかったんだろうな、と思ったりする。男はどうしても簡単に家を出て羽ばたいていく傾向があるので、女のほうが面倒も見てくれるし、話し相手になってくれるし、と思っているのが話の節々にでてくる。この母息子は、どこまで隔たっていくんだろうねぇ。

夫が「こんなにバカにされて、もう知らん。勝手にしろ!もう僕は一切タッチしないから、好きなようにしな」と捨て台詞を言って、すっぱり態度を変えることを決めたとき、私はどうしたらいいのだろう、と真剣に悩んだ。

夫がこの台詞を簡単にはいたとは思えないし、実際、このまま彼女の「遊び」に付き合っていると、夫は心臓発作か蜘蛛膜下出血でもおこす確立は結構な割合だったのではないかと思う。それほど、夫は心を痛めていたし、肉体的ダメージも受けていた。夫が、「このままではこっちがいかれてしまう」と察知してとった行動は、それでよかったんだと思う。(私のためにも。)ただし、今までは夫が正面立って義母とやりあっていたが、その盾を失い、また彼女に噛み付かれたら、私はやっていけるか、自信がなかった。でも、私にはまだ元気がある。とりあえず、彼女にもし何かあったときに、彼女に言い訳を与えないように、私にできる責任範囲のことをし、あとは彼女がやりたいように任せようと、とりあえず自分の保身を考え、行動した。自分ではなかなかうまく立ち回っているように思う。

つらいのは、そのようにして、うまくいったときのことを夫に報告しても、全く関心を示さないようになったことである。

「今、彼女がお墓参りに出た隙に、様子を見に行ったんだけど、私の持っていった昼食のうち、パスタは食べたみたい。」

「どうも買い物にいってきたみたいだけど、例のお酒パックは見当たらなかったわ」

とか、義母の様子を夫にも知ってもらいたくて報告するのだが、「僕は興味ない」で終わり。そこまでつれなくしなくてもいいのにねぇ。誰のために私は頑張っているのやら。

私が持っていった食事が翌日ゴミ箱に捨てられていたり、一番食べて欲しかったものが、食べもしないのに猫の食事になっていたりするのを見るのは、未だにグッと悲しくなるし、彼女のために管理して薬を時間通り、彼女のとこまでコップとともに持っていって、「こんなものは何にも役に立たないから、持ってこないで!」なんて怒鳴られると、誰のために何のために私は怒られなきゃいけないんだろう、なんて思うが、全般的には、以前より、少なくとも私たちの健康状態はよくなったように思う。

要は、割りきりである。

以前はそれこそ食事を口の中に持っていくまで、いろいろ言い張って、やりあっていたが、もうそれは彼女の自由。食事を届けてから、彼女がそれをどうするかは彼女に任せること。

もし、お酒を買ってきて飲みたいんだったら、飲めばいい。

こっちはもう十分に「飲むな」とその理由つきで言いもしたし、ブロックする行動も出た。これ以上のことはできないと、割り切ることだ。

いろいろ心配はまだするけど、案外思い切って、放り出すと、状況はそれほどで悪くもない。私たちも友人たちとの時間を楽しめるし、夫は以前よりリラックスしてきたようだ。

今日なんか、奇跡的に、義母を私たちと同じテーブルにつけることさえできたのだ!

来たくないという義母に負い目を感じさせないように、

「スーパーで買ってきた1パックの量が多すぎるんですよ。助けてくださいよ。」

「一緒のテーブルで食べるほうが、私も楽ですし。」

「階段を上がって、私たちのところに来るぐらいの犠牲は払ってくださいよぉ。」

と連発すると、彼女は自発的にやってきたのだ。

そして、自発的に、料理も取り皿に取ったし。

夫はなんとなくそっけなかったが、私としては久々に彼女に誰かと一緒に食べる状況を作り出すことができて、成功!と喜んでいるところである。

まあ、毎日はできない技だけど、たまには人間らしいこともするようにしないとね。

6月23日(金)

ほんとは、こんなところに愚痴をこぼしたりするべきではないのだが(まあ、うちの親は見ないだろうし)、誰かに話さないとなんとも表現が難しい悲しい渦の中に沈んでいってしまいそうなので、思わずキーボードをたたいている。大体、その誰かを私の友人知人の中から見つけ出すのも難しい。はっきり言って、向こうは大抵未経験の分野なので、こちらもあまり気持ちの高まりをぶつけにくいというのもある。

問題は、義母だ。

どうして飲むのだろうか。

飲むことによって、少しでも彼女の気持ちがよくなるのだろうか。

少なくとも私の目には、作らなくてもいい問題を自ら作り出す作用しかしていないように思えるが。

どうしたらいいのか、わからない。

いや、わかっているのは、何もできないということだ。

彼女は病気だ、うつ病だ、ということはわかっている。

記憶力がゼロであることもわかっている。

飲みさえしなければ、なんとか浮上する可能性はあるのだ。

その可能性にかけて、一緒に頑張っているところなのだ。

なのに、どうして飲んでしまうのだろう。

いくら病気だとわかっていても、

「なんてひどい子なんだ!おまえはこの家にいる資格なんかない!私にとって他人以下よ。どうしてここにいるの。出て行きなさい」

なんて言われると、泣きたくなってしまう。

私がどんな悪いことをしたというんだ。

ただ、彼女が記憶にない現実を受け止めるときに、そのショックの波をかぶるときに、そばにいて、彼女の悲しみを少しでもやわらげることができたら、と思っていただけなのだ。

2週間前にさかのぼる。

夫が2度目の入院から退院したばかりで、ひとりで確定申告のために税務署まで行けるような状況ではなかったため、車で同行した。

それまで、義母は比較的調子がよく、特に変わった様子もなかった。

お昼前に帰ってくると、階段の踊り場で、義母が意識朦朧としてベンチに倒れこんでいた。以前のヒステリーを起こしたときと、様子がちょっと違う。まともに反応しない。しばらくしてやっと私たちに気が付いたが、まともに立つことも出来ず、だが、私たちの腕を振り解くようにして、自分の部屋に行こうとしたが、3度倒れた。倒れたときに家具の角で頭も打った。私たちの言うことは全く聞こうとせず、ヒステリーを起こしているので、かかりつけの医者に電話したが、通じない。2ブロック先の赤十字事務所まで走っていったが、救急の医者もいない。救急隊員にとりあえず救急車を派遣してもらった。あわてて家に帰ってくると、義母は床に倒れこんでいた。夫は病み上がりで彼女を支えられないため、私がなんとか半身抱き起こしたが、これがまた重い。彼女自身はそんなに重くないはずなんだが、起き上がるのに非協力的な人一人を支えるのがこれほど大変だということは知らなかった。

救急隊員が到着すると、今度は病院に行くのを拒否しだし、ろれつが回らないながらも、しゃんとしているフリを一生懸命する。だが、半身立てることさえできない。隊員が説得を試みている間に、思いっきり吐き出した。とっさのことに床に広がったその汚物からは、安ワインの匂いがぷう~んと匂った。なんとか救急車にのせ、私は後始末をしてから入院の準備を念のためして、後を追った。

医者の診察、検査の結果を待っている最中、思いつく限りの悪態を夫につき、

「子供や老人、何か少しでも問題がある人の場合、死んでもおかしくない状態ですね。彼女は丈夫だからよかったものの。入院です」

と医者に宣告された。

思っていた通り、血中のアルコール指数が高すぎで、泣いてばかりいて、しかも、患者本人の申告が症状に一致しない、つまり状況を否定している彼女は極度のうつ状態と診断された。

ずっと商売をやっていた彼女は口先がうまいので、ウソをかくも見事に本当のように振る舞い、医者の問診にも、ウソばっかり言っている。もしかしたら、ウソを言っているのではなく、彼女の頭の中ではそうだと思っているのかもしれないが。そんな彼女がしっかり食べて、薬をきっちり服用するようにコントロールするため、パルマまで片道22キロ、1日2往復を1週間。彼女のあまりに頑なな「食べない」「食べない」に、こっちが「食べなさい」「食べなさい」と応じているのを同情してか、同室の人まで、「食べなきゃダメですよ」なんて言ってくれるような状況だった。夫が入院していた科と同じで、夫が退院した翌日にまた夫の姿を見た看護婦さんたちが驚いて、「あまりに居心地がいいので戻ってきたんでしょ」なんて冗談半分冷やかしていた。

退院する際に、医者は薬をきっちり飲んでいると、うつ病とそれに関連する諸々はきっと治るから、きっちり食べて、薬も時間通りに飲むようにコントロールしてください、ということで、それを励みに頑張っていたが、数日はまともに食べられず、食べたものはすべて吐くような、まるで拒食症のような状況だった。私の作る料理が口に合わないのか、彼女の好きなものを作るようにしていたが、どうもうまくいかない。

彼女には姉が一人、アルツハイマーにかかっていて、ちょうどその姉の1年後を義母は追っているような状況だが、その義理の伯母の相手に手を焼いている伯母の娘が、姉妹一緒ならば少しは伯母の調子もよくなるのでは、と義母を呼びに来るようになり、退院後しばらくのその日を境に少しずつ食べるようになった。

入院期間を含めるともう2週間近く飲んでいないし、昨日は食事の準備さえしようとしたし、あとは上昇するのみ、と期待していたところだった。

今日は午前中から少しおかしかった。

もしかして?と疑っていたが、ワインパックは発見できず、ちょっと外に連れ出して気分転換をしてもらえれば、とお買い物に誘い出し、このままなんとか波立たず今日も終えるかな、と穏やかに話し相手になっていたのだが、飲んだときに出るいつもの話題類が出始めて、誰かが盗んだとか、お金のこととか、こんな年寄りのことをバカにしているだろう、とか根も葉もないことがワインの匂いがプンプンする口から出てくるので、こちらとしては証拠をならべ、彼女が飲むのは問題を作るだけだからやめるように、と退院時に医者が書いた診断書を彼女に初めて見せた。

彼女は入院していたことなど記憶にないため、私たちが彼女を貶めようとでっち上げた書類だ、と事実を認めようとせず、いつものように飲んだことを否定し、逆にそんなことを口にするのは彼女に対して最大の屈辱を与えている、と攻めだし、その診断書を破り始めた。夫が義母と言い争いの末、その診断書を投げつけて部屋から去っていったときに、こうなることが予想できたので、つまり、その彼女がショックを受けるときに、そばにいて支えてあげようという気持ちで私はそこに残っていたのだが、診断書には薬の種類と服用時間なども書かれていることもあって、それを破り捨てられたのでは困るという思いで、彼女の手から無理やり剥ぎ取るはめになった。

それがきっかけで、前述の台詞を受けることになった。

「なんて乱暴者なんだ!悪い子!」

「こんなウソばっかり言って、私を貶めようとしているんでしょ」

「私のためにトリノからやってきたって?冗談はよしてよ。私の背にどっぷりもたれるつもりでやってきたんでしょ。食べさせてもらおうってね!」

「だれのおかげでこの家にいれると思ってるの。あなたなんか、私にとって何の意味もないのよ。出て行きなさい!」

思わず、そのまま言い返しそうになるが、そうすれば、彼女を傷つけるだけで、なにも前進しないとぐっと思いとどまり、さっと部屋から去った。

大体、私を部屋まで呼んだのは、彼女なのだ。話したいことがあるから、来なさい、と。

思わず涙が出てくるが、夕食の準備をしなくてはいけない。

夫が、ちょうど息子が犬の散歩から帰ってきたのを呼び止めて、義母の部屋まで招き、「当事者」以外の存在があるので、おとなしくしている義母が犬に呼びかけたりしている隙を付いて、夕食を机にセットし、視線がお皿から離れた瞬間に彼女のお皿に料理を盛り、今日もなんとか夕食を食べさせた。義母は犬や猫としか話さず、夫は息子と話し、私は黙って黙々と食べていたが、息子が去ってしまうと、さっと空気が再び冷たくなった。

明日の家の修理の準備に立ち回りながら、彼女の薬の時間が来たので、部屋に戻って来ると、どうやら、薬を持っていった夫と義母はなにやらぼそぼそと話している。だんだん声のヴォルテージが上がってくるので、外にももれてくるのだが、聞こえてくるのに限り、また私の悪口を言っているようだ。夫が必死で言い聞かせ、事実に訂正しているのだが、聞く耳を持たない。医者の印刷された診断書が、私が彼女を貶めるために手書きで作成した書類となり、それを彼女に見せびらかせるために、私が持ってきて目の前に広げた、とか何とか言っている。彼女が診断書を破り捨てたときに、夫は部屋から立ち去っていたので、またウソを並べ立てているのだろうか。

普段は夫が悪者にされているのだが、今日彼女の腕をつかんで書類を取り上げたことから、私まで悪者にされたようだ。明日から、誰が彼女をなだめる役目をはたすことができるんだろうか。そのうち、今日のことをすっかり記憶から無くしてくれるといいのだが。しかし、明日はきっとまたハードな日だろうな。隙を見て、ワインパック、ベッドの下に隠していたのを食後に発見して廃棄したが、明日は土曜日。店は開いているのだ。きっとまた買いに行くに違いない。

それにしても、私の立つ瀬がない。

病気なのだから、右から左に流して、気にしない、気にしない。

わかっているのだが、これが難しい。

ああ、またお腹が痛くなってきた。

飲みさえしなければ、なんとかなるものを。

そのなんとかなる、が彼女には必要ないどころか、なんとかならないでほしいらしい。

言い合いの末に頭に血が上った夫が「もう知らん。勝手にしろ!」と突き放すのだが、結局は親子。親には元気で長生きしてほしいのである。

「死にたい」「死にたい」とばかりくりかえす義母を見ていると、血のつながりがない私は、ほんと何が彼女にとって幸せなのか、彼女が哀れに思えて仕方がない。「元気」であれば、生きていくのもいいが、そうでないならば・・・最愛の伴侶を失い、80歳を超え、体のあちこちが痛み、生きる価値が見出せなく、死ぬことばかり望み、息子夫婦に自分は迷惑だとしか思えないような状況(そうではない、と言っているのだが)。どうしてあげるのが一番彼女にとっていいのか、私にはわからないし、くじけそうにもなる。

病気だから、うつ病さえ治れば、まだ穏やかな日々が送れるはず。

もしかしたら、新しい孫の顔さえ見れるかもしれない。(これがなかなか難しいのだが)

息子もいる。孫もいる。猫もいる。犬もいる。気に食わないが(?)一応それなりに世話をしてくれる嫁もいる。

なんとか前向きになってくれないものだろうか。

ひたすら我慢の日々である。

5月17日(水)

ADSLにやっとつながった!!!

4月7日(金)

昨日雰囲気が悪くなったのを引きずって、彼女の望むように1日ずっと放っておいたのが効いたのか、たまたま鬱の具合が軽かったのか、今日は飲みもせず、非常に穏やかであった。なんとなく元気がないが、春らしく光線も暖かくなり、気分的にも沈まずにすむようになってきているのかもしれない。

飲みさえしなければ、ぶつからずにまともに話せるのである。

とにかく、信頼関係が壊れていなかったようで、ほっと胸をなでおろした。

アルツハイマーなので、どうせ覚えていないから、適当に善意のウソをついて、「そうおっしゃっていたでしょう?」などとその気にさせるという方法もあるわよね、なんて昨日の友人は言っていたが、それは完全に「あっちの世界にいってしまった」人に対してのみ使える手で、義母のようにまともな時とそうでない時が混ざっている場合、ウソは信頼関係をつぶすからいけない。ただでさえ鬱が入っていて疑心暗鬼になっているのに、もめる原因をつくるのは避けなければいけない。

本当のところ、「行ってしまった」人の方が思いっきりそのように扱えるし、その本人も案外あっちの世界で結構幸せにやっているのではないか、などと想像する。義母の場合、あまりに私がやりすぎても、ボケが進行してしまうのでは、と、どのぐらい任せるか、手加減が難しい。完全に任せるには危なかっかしくて仕方がないし、髪の染料をトマトピューレと間違ったりするような状況だ。しかも、物の置き場所をひっきりなしに変えるので、記録力のなさもあって、物ひとつ取るのに、毎回探しまわらなければいけない。それを避けるためにもメジャーなものは私が管理している。つまり、何かをするたびに、彼女のところへ私が届けなければいけないわけだ。それが、結構面倒だったりもする。

子供相手だと上下関係があるから、命令もできるけど、義母との場合向こうが上の立場にあるのを下から注意したりしないといけないわけだから、なかなか難しい。

そして、彼女は私が彼女を世話しているのではなく、彼女は一人でなんでもしていて、何もわかっていない私に教えてあげる、と思っている節もあるので、(事実そういう面もあるし、それはありがたいことだが)、親戚などが来たときに、「いつもここに食べに来るのよ。食事の世話をいつまでもしないといけないから、疲れちゃうわ」などとも言っている。実際は彼女が食事の準備はもういやだと言ったのもあり、ほとんど私が行い、その結果、あまりに手持ち無沙汰でバツが悪い風な彼女に簡単なサラダを洗うことなどを丁重にお願いし、サラダや水きり器などを探し出して、彼女の手元に届けてから、彼女が私たちの領域に足を踏み入れたがらないので、料理を彼女の部屋まで運び、以前は後片付けもすべて私がやっていたが、それではいけないと、簡単なお皿数枚とコップ洗いだけお任せし、他の食器や調理器具は私の台所へ持っていって後片付けしていたのである。そうしないと調理器具も毎回探すハメにもなるからである。

これって、私にはまだ経験がないが、子供を育てる過程と似ているんじゃないだろうか。

母親になる前に、プレママ教育をさせてもらっているわけだ。

でも、考えてみれば、私の立場の方が強いのかもしれない。

義母は私と言い争うと私は基本的に困らないけど、彼女はさらに寂しい時間をすごすことになる。騒ぐだけ損だ、という風にもしわかってくれたなら、こちらとしてはやりやすくなってありがたいんだけど・・・。

私としては、言い争ったりせず、彼女の心配事を取り除き、かなえられることはかなえ、彼女の残りの時間をできるだけ快適なものにしてあげたいだけなのだ、ということはわかって欲しい。こう望むのは傲慢なのだろうか。

4月6日(木)

2日前、私たちが外回りの用事を済ませている間に義母がまた安ワインを飲みすぎて、フラフラしてまともに立てなくなり、被害妄想にもとりつかれてギャーギャーとわめき騒ぐヒステリーを起こし、大騒動の一幕があった。昨日はなんだかんだと用事を作ってなんとか安ワインを買いに行くのをブロックしたので比較的穏やかだったが、今朝はまだ飲んでいないはずなのに、またキャンキャンと騒ぎ出した。いつもはしっかり考えてから顔を出すようにしているのだが、今朝は具体的な戦略なしに朝の挨拶をしにいったのがいけなかったのかもしれない。あまりに理不尽な言いがかりを聞いているうちに、こっちがヒステリーを起こしたくなり、いつもは穏やかな方の私が大きな声を出して応対しているうちに、雰囲気がぐっと悪くなってしまった。私のミスだ。

病気だとわかっていても、何をしたらいいのかわからなくて、まともに取り合っていると、こちらが滅入ってくる。

同じような環境を知っていて相談できるような人もいない。

ただ、愚痴りたくても、幼い子供がいたり、仕事に忙しかったりする友人ばかりで、なかなか吐き出せる相手が見つからないのだが、今日はずっとご無沙汰だった友人に1年以上ぶりに電話をかけてみた。

1時間以上ドイツと電話してしまったが、やっと少しすっきりした。困ったときにすがるように電話をしてしまうのを温かく受け入れてくれるありがたい友人である。一人娘さんはロンドンの大学へ行ってしまったので、彼女が家に一人でいるタイミングが図りやすいというのも話しやすい理由のひとつだ。その彼女が言ってくれた台詞で一番心にしみこんだのは、

「ほんと子育てと一緒ね。でも、そちらの今の状況の方が複雑で大変そうだから、将来子育てなんて楽勝でできちゃうわよ。楽しくて楽しくて仕方がないってぐらいにね。」

その欲しい子供はなかなか出来ないのだが、そうやって勇気付けてくれる友人が少なくとも存在していて、私は非常に恵まれている。

私の祖母も未亡人だが、彼女がまだ比較的若いときのことだったので、その後の人生をイキイキと生きている。その他の人のケースも、聞いている限り立ち直るというか、逆により輝いて自分の人生を謳歌している未亡人は日本ではどうやら多いようだ。つまりは、その世代は特に、男性に押さえつけられていた人たちが多いのかもしれない。

この村にも未亡人がたくさんいらして、義母と一緒に歩いているとお互いによく声をかけあったりするので、知り合うことがあるんだが、いつまでも夫の死に堪えている人が比較的多い。もちろん、それを乗り越えた人は、ラテンの情熱でもって新しいパートナーを見つけて再び熱く生きていく人や、老人ホームというかその集会所みたいなところで集まって、カードゲームをしたり、ダンスパーティをしたり、料理をしたり、きっと日本の「解放」された未亡人たちのように生きているのは変わらない。でも、そのラテンの熱い情熱を掲げた伴侶が亡くなった後の亡失感は、もしかしたら日本のカップルとは少し別質のものなのかもしれないとも思う。

ほんと、義母を見ていると、哀れに思えて仕方がない。

3月21日(火)

夫の入院が思っていた以上に長い。

やっと点滴から昨日解放されたと喜んでいたが、昨晩はひどい痛みにまた眠れなかったらしい。完全に回復するのはまだまだだとしても、退院の目処がたてられるぐらい改善されるのはいつになることやら。

重病ではないが、家族に病人がいるのは悲しいものだ。

そして、寂しい。

出来ることであればずっと横にいて、そばにいたいのだが、そういう訳にもいかない。

ひとりで放っておくと、最近ちょっと上向き加減だった義母が、また食べないし、その上、またパックワインを見つけてしまった。すでに1パック空けられ、ゴミ箱に捨てられており、2パック目もほとんど空に近い状態だった。それで、いつものように隠すのを忘れていたんだろう。道理で義母のうつ状態が輪をかけて高まっていたわけだ。ほんと、このような状況になるたびに、こちらまでどよんと落ち込んでしまう。

なんとかタイミングよく義母を説得して、一緒にお見舞いにいけた日は、調子が比較的よい。実際に息子の顔を見て、その調子を確認し、その後家に帰って食事、というリズムも作りやすい。だが、毎日そうはいかない。

しっかり昼食を食べさせてから、ひとりで病院に行き、つのる寂しさを埋めるべくしゃべっているうちに少し遅くなってしまった。とは言ってもまだ夕食前の時間である。そこに息子から電話がかかってきた。義母が私の帰りが遅いので、夫の調子が悪くなって死に掛かっている、と心配しているとのこと。ベッドに横になったまま夫が電話に出ると、声の調子が違うと言い、夫が自分は元気だというのを信じようとしない。義母をなだめるために、ふりほどきがたい夫の手を離し、即行家に帰った。

夫がいないと、左官屋さんをはじめとする職人さんたちも動かない。

やはり、お金を払う主がいないと、女の私だけでは約束が反故されたり、軽く扱われがちだ。夫に報告するから、問題を説明してくれと言っても、なんだかごにょごにょごまかされるし、連絡さえとれなかったりする。

今日は夫の病院からのフォローがきいたので、外回りの用事もいくつか解決できた。帰り道に買い物をすませ、病院に顔を出し、昨晩準備した書類を夫に渡し、すでにサインしたものを引き取る。急ぎ足で帰ってくると前述のような義母の状況だ。泣いていやがる義母に半ば無理やり食べさせ、夕方の業者の人がやってくるまで、彼女が喜びそうな話題をひっぱりながら、彼女のいつもの話に付き合う。彼女の猫が発情期で、家に2日間帰って来ていないのが彼女を余計に落ち込ませている。ああ、うらめしや、猫め!私はお前のために、特別のえさパックを買ってきたというのに・・・。

さて、この夕方は懐かしい体験をした。

いわゆる汲み取り屋さんである。

私が小さい頃、水洗便所になる前、定期的に汲み取り屋さんがやってきて、汚水を吸い取っていっていたのを覚えている。だが、詳細ははっきりとは覚えていない。

今、うちの貸テナントのお手洗い増設の関係で、中庭の配水管を工事していたのだが、その過程で大きな排水溝を発見。それが中庭の悪臭の原因だったことがわかったので、そこの汚水を汲み取ってもらって、排水溝には溜めずに直接外の排水管にバイパスするようにする予定で、汲み取り屋さんに予約をとっていたのである。

やってきたのは大きなタンク車。見覚えがあるような形である。

直径40cmぐらいはあるだろうか、大きなパイプを直接排水溝に突っ込み、そこにホースで水を出して調節、洗浄しながら、掃除機の要領でどんどん吸い込まれていった。途中、大きな石まで吸い込んでしまったらしく、何回か作業を中断し、パイプを地面に打ちつけながら、パイプの接続部より、レンガの破片やら、丸くなった石やらを吐き出し、作業自体はほんの15分もかからなかったかもしれない。料金160ユーロ。

こういう汲み取り作業というのは、どのぐらいまだ需要があるのだろうか。水洗便所が普及している現在、想像できない。

うちの排水溝は、その昔家の外にあったお手洗いがあった場所にあり、その上に、水洗便所を設置し直していたが、法律の関係上、テナント外のお手洗いは認められないということになり、テナント内に作り直したので、それを最近打ち壊したところから出現した。昔の名残である。

なんだか、今度は日本の実家の排水溝がどうなったのか気になってきた。今度帰国した際に、見てみようっと。

3月17日(金)

私は子供がいないので、まだ母親の気持ちというのがよくわからない。

よく出来たほうの息子だと思う。ハンサムで、優しく、頭もよい。病院に見舞いに来たのを見たスタッフが、

「こんな息子さんがいらっしゃったんですか!もっと頻繁に来てくださいね。」

と色目を使うのに対して、夫は笑いながら、

「いやぁ~、これも家系の問題でねぇ。(笑)でも、もう結婚してますよ。」

「こんなに若いのに!(ため息)で、ご兄弟はいらっしゃいますか?」

なんて会話が行われていた。

嫁も思いやりがあるいい子のようだ。

だが、私たちのものを使われるとき、思わず「もうちょっと遠慮できないものか」などと思ってしまう。

なるべくガソリンを使わないとか、(田舎はガソリン代も高い!)

常時接続でないインターネットの接続は最小限にとか、とくに学習のためでなく遊びのためや時間つぶしでネットサーフィンをしているのを見ると、電話代にハラハラする。(イタリアは電話代が高いのだ!それに、この田舎にはまだADSLさえ開通されていない!!)

姉や友人への国際電話は多少不便だけど、安いコーリング・カードを使って欲しいなぁ、とか。

きっと、親にとったら子供に何かを与えるというのは喜びであって、ごくごく自然なことなのだと思う。

でも、私はそんな風には100%感じられない。

どこかでひっかかりを感じてしまう。

これも、私自身が自立していなくて、夫に頼っているからだろうな。

金持ちでもなく、自分自身余裕がないのに、その状況を息子も同感しているのだろうか、と不安になり、でも、そんなことは私の立場からは言いにくいから、父親である夫から言うべきことだし、何かと気を使うのである。

そして、その夫が家にいない。私は母親ではないが、夫の替わりに身内として若いカップルをサポートするのが筋だし、出来ることは出来る限り協力したいと思う。が、「私たちのもの」という境界線を敏感に感じすぎな私は狭い人間なんだろうか。

そんなことを友達と話していると、

「そんなの当たり前じゃない。あなたの実の子供じゃないんだから」

といわれてしまった。

それでいいのか。私の気にしすぎだったのね。

3月15日(水)

夫の入院によって、コンピュータの前に座るまとまった時間がとれるとは皮肉だ。

いろんなことが起こり、書くという行為を通して、是非よりよくそれらを消化したいという思いが募っていたが、時間ばかりが経っていた。今晩は少し気持ちの整理ができるかもしれない。

12月20日にトリノからパルマ郊外の田舎村に引越し、優雅なリタイヤ生活に入る前に片付けることが山とあり、相変わらずバタバタとしている。仕事量としては、会社員として1日コンピュータの前に座っていたときよりも数倍忙しくしているような実感があるが、それでいて無給なのだから世の中うまくいかないものだ。しかし、仕事の分配を曜日に縛られずに按排できるので、以前の「週末にすべてを片付ける」プレッシャーからは解放され、これぞリタイヤ生活の心地よさなのかもしれない。

この新しい生活で最も大きな課題は、やはり義母との生活だ。

81歳の義母は、あれほどラヴラヴであった義父の死後生きる気力を失い、うつ病とアルツハイマーのダブルパンチで、かつての村一番の美女も見る影がない。問題は、食べないことだ。私たちが毎週末里帰りしてコントロールしていた以外の時間はほとんど食べずに餓死あるいは衰弱死をねらっていたのか、骨と皮になって、寒い冬空の下、コートも羽織らずにフラフラと村を歩いていたのを数回近所の人にも目撃され、私たちが引越ししてくる直前に、ある人から市長へ義母の保護を訴える手紙が届いたらしい。おそらくその人は私たちが手遅れになる前に同居の準備をしていたことを知らなかったのもあったのだろうが、引越し早々、夫と義母の弟が市長に呼び出され、義母のかかりつけの医者も同席で、裁判沙汰にならぬように、ときつく言い渡されたらしい。それ以来、私は必死で彼女に食べさせ、生活のリズムもすべて彼女のものに合わせ、1ヵ月後にはなんとか最悪危険レベルを脱した。村のマドンナ的存在であった彼女を心配する声は絶えず、スーパーに買い物に行っても、「お義母さんの具合はどう?」とばかり聞かれ、冗談半分だが私はいつか殺人罪で訴えられるのではないか、と、でも半ば本気で「近所の目」の怖さを思い知った。懐に入ってしまえばいいところもたくさんある村の特徴でもあるんだが、たまたま彼女がひとりでいるときに訪ねてきた親戚などが「(ほら、また彼女をひとりにして・・・かわいそうじゃないか)」という気持ちが言葉の端々にも現れているようなところにも出くわしたりして、切なくなったときもある。

だが、その苦しかった1ヶ月は、彼女のコントロールという意味では都合のいい期間だった。彼女は弱りきっていたので、それほど強く出なくても比較的素直に言うことを聞いてくれたからだ。しかし、少し元気を取り戻すと、今度は再びアルコールを飲み始めた。週末帰りをしていたときにも気がついていたことだが、彼女が通った後の道を歩くだけでワインの匂いがプンプンするぐらい、がぶ飲みしているのだ。それでいて、彼女は飲んでいることがバレていないと思っているのだから始末が悪い。飲むなと言うと、飲んでいないと言い張り、アルコールが体に悪いことぐらいわかっているとも言う。敬虔なカトリック教徒なので、あからさまな自殺はできないが、命を縮めてなるべく早く義父のもとに行きたい、と思っているらしい。いいワインならまだしも、一番安いパックワインなので、その作用たるもの、悲惨である。目の周りは紫色にそまり、唇の色も悪く、頭はガンガン、お腹をこわし、ただでさえ5分前に言ったことを覚えていないのに、飲んだ後はもう言っていること支離滅裂。訳のわからない行動に出て、言動すべて攻撃的。それがすべて安ワインのがぶ飲みのせいだということがわかっているのかわかっていないのか、何を言ってもただ「死にたい」と繰り返す。そんなに苦しまなくても、時期が来れば人はみな死ぬし、今がその時期ではない、と言ってもわかろうとしない。幸か不幸か、足腰が丈夫なので、ひとりでお店に買いに出てしまう。見つけては中身を捨てるか、水で薄めるか、いろいろ試してみたが、今ではどこに隠しているのか、わからない。

なんだか、むなしくなって、私は1本切れてしまった。

こっちがおかしくなりそうな気になりながらも、必死で彼女の生活に合わせてきたつもりだったけど、もういいや。1食ぐらい抜かしても死にやしない。時間だって、私の腹時計に合わせてやる。私の好きなものを作るぞー。ひとりでいたいんなら、ひとりでいればいいや。などなど、100%義母中心だった生活から、自分たちの方へ軸を少し傾けた。私たちの健康のためだ。

悲しかったのは、彼女のために夫は定年退職の時期を早め、私は仕事を辞め、彼女の生活をサポートし、一緒に暮らすためにやってきたのに、彼女がそれに対して前向きな反応をしようとしなかったことである。このことは夫も非常に悲しみ、落ち込み、その挙句に言った台詞がショックだった。「このままでは彼女が僕たちを殺してしまう!」

これは、息子が母親に対して感じていることという事実に加えて、言葉にしてしまうとさらに必要以上にきつく聞こえてしまうが、夫の嘆きと現実。それに対する防御と決意。自分たちのスタンスを少し変更したことに対して、私の忍耐が足りなかったせいで、務めを果たしていないのでは、と後ろめたさや罪悪感を多少感じていたが、そんな私を夫は保護してくれているのを感じ、どうしようもない悲しみは消せないけど、ありがたく感謝した。

そして、義母の調子はいいときと悪いときの波が出てくるようになったが、私たちはただ坦々とできることをこなしていた。しかし、夫は家周りのことで、なるべく早く問題を解決しようとちょっと無理をしたのがたたって、どこかの神経がやられたみたいで、足腰の調子が悪くなり、あまりの痛さに眠れない日が2週以上続き、衰弱が激しかったので、救急病院に行ったが、最初に通された整形外科の治療では一向に改善されず、2週経って再び救急に行った結果、神経科に入院してさらに検査することになった。

でも、世の中悪いことばかりじゃないというか、夫の調子が悪くなってから、義母の悪っ子加減が軽減して、自分も何かしなくては、という気持ちになってくれたようだ。夫の様子を見に来るという言い訳もできたので、ひとりでいるところにお茶のお誘いをすると、部屋から出てくるようになったし、夫も家周りのことに体を動かすことが出来ず、外回りの管理業務もできないし、家にいる時間が多くなったので、自然と家の周りの時間の流れ方がゆっくりになるというか、やらなければいけない物事は滞りがちだけど、結果的に義母がのぞんでいるように、それらの物事に邪魔されない生活になるというか、毎朝、毎昼、夫の調子が悪いことをついつい忘れてしまっていて、毎回義母は夫のことに驚いて、心配をし始めるのだが、それが悪っ子になるブレーキをかけるというか、なんだか新しい傾向のハーモニーが生まれている。

なんだかんだいって、私と義母は嫁姑だし、どうやら義母は自身の嫁姑経験の苦しみから、私に対して遠慮があるようだ。私としては、もっと甘えてもらったほうが楽といえば楽な面も多いような気もするが、彼女の独立心の強さに「かわいくない」とは感じつつ、老人介護の感覚を感じずにいることができて、結果的には助けられているのかもしれない。

それでも、日々の生活では初めての経験に、やはり戸惑うことも多い。

まずは、それぞれの優先価値が違う。

私たちは、これからのためのよきをはかって、と、より快適な生活を目指して行動するが、彼女は、あと2日しか生きないんだからこれからのことなんかどうでもいい、今まで通り何も変える必要がない、というもの。

例えば、夫の新しい方のベストがたまたま彼女の手元にあって、床の艶出しにピッタリの雑巾代わりに使われたのを見つけて思わず絶句。(おそらく、一番手近にあったからだろうが。)私に言わせれば、まだまだこれから使える洋服がダメになってしまって、もったいないと思ってしまうが、彼女にとって見慣れないこのベストはただの布切れで、すでに擦り切れて色もあせたそろそろ雑巾行きの手ぬぐいは、使い慣れて、まだまだ使える手ぬぐいなのである。

また、老人になると、エゴイストになる。相手側に歩み寄ることができない。近所によく遊びに来る子供なんか観察していると、ほんとエゴイスト丸出しなんだが、これはまだ人間関係などを学習していないというのもある。そのエゴイストから大人になって多少丸くなって、またエゴイストに戻っていくのを見ると、ほんとよく言われるように、「子供になる」ようである。いやなものはいや。泣いてでも、自分の言い分を通そうとする。そして、決まり文句が「昔はよかった。私は夫のお母さんと何年も一緒に暮らしたが、仲たがいしたことはない。そして、私は彼女が思うようにさせていたわ。」

とどのつまり、「大人」の役割とは、我慢することなのかもしれない。

そして、一番大きな課題でもあるんだが、何が幸せかわからない。人によって、立場によって、時期によって、状況によって変わってくる。ある意味、死にたいのに死ねない丈夫な体というのもかわいそうだし、哀れも感じる。(映画のようにはうまくいかないものだ。)

子供として、親にはいつまでも元気で生きていて欲しいという願望を持つのも自然なこと。

こうして同じ屋根の下に暮らしていても、

「私には、この猫(義父が亡くなる前に飼いだしたオス猫)しかいない。」

だし、じゃあ、私たちは?と聞くと、

「私にはあなたのお父さんだけが人生。」

そして、安ワインをがぶ飲み。

これじゃ、子供としての立場もないし、まあ、私とは関係を深めるだけの時間をまだ経ていないのを差し引いたとしても、私たちの存在とは彼女にとって何なんだろう、と思ってしまう。少なくとも、私はこんな風な寂しい歳のとり方をしたくないな、と思う。彼女の年齢になって、彼女のようにラヴラヴだった伴侶を失い、「もうすべて終わった」と思うのも理解できる。でも、残された人たちのためにも、いや何よりも自分の苦しみを和らげるために、自分の人生を掲げた伴侶以外のものも見えて、状況を前向きにとらえることができるだけの能力は培っておきたいものだと思う。(おそらく、必要になる確率は高いだろうし。)

そんな状況にただでさえ混乱しているのに、特に夫の調子が悪くなってから、何を優先的にするべきなのかわからなくなった。

義母の世話か、夫の世話か、自分自身の疲労回復か、夫がやっていたことの替わりか。

必死でできることをやってきていて、自分のための時間というのがほとんどとれなくて、外に出るのは必要に迫られた買い物などのみ。家の修理や掃除、引越しの荷解きなど、動きやすく汚れてもかまわないような格好ばかりをしていて、女を捨てた状態だった。

ある日、用事をすませて帰ってきた私と道端でばったり会った夫に

「すごい格好・・・」

と言われてしまった。

見られるべき格好ではなかったのかもしれない。

私はそれどころではなく、どうでもよかったのだが、夫にとってみれば、やはりきれいな妻であってほしいのかもしれない。(少なくとも外に出るときは)

会社で働く用の仕事着はたくさん持っている。

汚れてもいいような服と部屋着と普段着。この境がなんだかまだしっくりこない。

待ったなしで、用事のために行動しないといけないときが多いし、どのような格好をしていればいいのか。

トリノの友人と話すと、もうちょっと普段着のオシャレ度を高めたらいい、とアドヴァイスをもらう。

小奇麗にしているのは余裕の印でもあるし、そんな余裕もない風に妻を追い立てているという風に見られては夫としては立つ瀬がないのかもしれない。

そこで、ほんのちょっとグレードを上げてみた。

肌の手入れもちょっと気遣い度をあげてみた。

洋服を変えるだけで、私自身の気持ちもすこしだけ浮上する。

今日、病院で久々に口説かれた。

ラテンの国、イタリアだけあって、きれいだねと言われたり、口笛を吹かれたりすることはよくある。外見を磨くことに熱心な国民性もあって、きれいなものにたいして、きれいと表現するのは対女性、対男性でもおおっぴろげに表現されて、夫の知り合いに紹介されたときなども、「まあ、若くてきれいな奥様!」なんて言われることはおべんちゃらも含めてきわめて日常的だ。だが、女性から言われたときよりも、男性から言われたときのほうが格段うれしいし、さらにそこに性的な視線があるかないかで、自分が女性として認められたかどうかの充実感が違う。

しばらく外に出ていなかったのと、少しだけ女度を取り戻したのもあって、なんとなくその「女」として認められたい気持ち(変な意味ではないが・・・)が鬱憤としてたまっていたのもあり、毎日の夫からの決まり文句では物足りなくなっていて、夫にもっと言って、もっと褒めてと迫っていた私を知っているので、口説かれたことを報告すると、夫はしたり顔で「それはよかった(笑)。だから、僕もそうだって言っているだろう。」と笑っていた。ささやかなるプチ・ハッピーだよね。

いろいろあった。

でも、回復期に入ってきているような風に感じる。

さあ、明日は何を着ていこうかな。

2月21日(火)

もう、何が優先なのか、全然わからなくなってきた。

やることが多すぎて、何をするべきなのか、わからない。

考えることもたくさんある。

こういうときは、何も考えずに、目の前にあることから順番にやっていけばいい、というのはわかっている。

わかっているが、あまりに未熟な私はいろんなことに振り回され、思わず今私はどこで何をしているのだろう、などと思ってしまう。

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