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2006年07月23日

佐藤フサエさんのオムレツ(が食べてみたい)

7月18日

午前中は、梅田の診療所で腹部エコー検査をする。その後芦屋に戻り、病院を受診。昼ご飯を食べてから研究室へ向かった。

昨日機械にかけておいたサンプルを電気泳動で確認すると、少し期待が持てる結果が出ていた。嬉しさよりも、首の皮一枚のところでまた少しだけ前に進めるという安堵感の方が大きい。

夕方、医局に届いた毎日新聞の夕刊で平尾さんの『身体観測』を読む。

昔、村上龍が言っていた。

「サッカーにおいて、すべてのゴールは奇跡である」。

相手の強固なディフェンスを破ってゴールを決めるには、ある種の偶然が必要なのだろう。その偶然を生むのが、ダイレクトパスであり、阿吽の呼吸であり、最終的には味方同士の信頼関係ということになる。

痺れるほど美しいワンゴールの影には50回の「無駄走り」がある。そのフォワードの「無駄走り」を支えるのは、たぶん、味方同士をつなぐ信頼なのだと思う。

それでは「信頼」とは一体何なのだろうか。
「信頼」とは身近でありながらどこか遠い言葉である。ふだんあまりこういうことを考えることはないのだが、これを機会にちょっとだけ頭をめぐらせてみた。

「信頼」と同じように大きな言葉に、「愛」がある。この言葉にもまた漠然としたイメージがつきまとうが、もともと何だか分からないのが「愛」だということも言えるだろう。

「愛」が今ひとつよく分からない一方で、「信頼」というのは、より具体的な状況で使用する言葉であると思われる。愛するのに理由はいらないが、信頼するのには理由が必要なのである。対象との関係が直接的なのが「愛」で、何らかの介在物が必要なのが「信頼」ということも言えるかもしれない。
意識化されているかということも飛び越えて、「愛する」という気持ちがまずそこにあるのが愛。でも、信頼は違う。

「私は、彼の全人格を信頼している」

こういうのは、非常に胡散くさい言葉である。聞いていて、つい「ほんまかいな」と思ってしまう。

「私は彼の血管縫合の技術を信頼している」とか、「私は彼のワインテイスティング能力を信頼している」といったように、対象が具体的なもののほうが、信頼という言葉とはよく馴染むと思う。

「アイツなら、このタイミングでパスをくれる」。

私にラグビーのことはまったくわからないけれど、この平尾さんの例には非常に強いリアリティーを感じる。

そこでは、チームメイトとの間に具体的で明確なイメージが共有されているように思う。お互いのイメージの重なり方が近ければ近いほど、信頼関係がより深いということになるのだろう。

ディフェンスラインを「すぽーん」と抜くような鮮やかなプレーが成功したときというのは、チームメイトとの間で視覚的にかなり鮮明な未来像が共有されているのじゃないだろうか。
信頼とは、複数の人間の間で共有された具体的な未来像を指すのだと思う。

パスのような基礎プレーから複雑なサインプレーに至るまで、チームメイトと共に明確な未来像を築き上げていくというのは本当に骨の折れる作業だろうけれど、それはとてもやりがいのあるもののように思える。改めてそう考えてみるとチームスポーツというのは、やはりよいものですね。

しかし、話はおそらくスポーツの世界にとどまらないのだろう。人と信頼関係を築くというのは、普通に生きていくうえでも大切なことである。

そして、他の人のことはわからないが、私の場合、生きていく上で一番信頼関係を築きたいのは自分自身とである。

自分に全幅の信頼をおくことなど到底できっこないが、もう少し信じてあげないと、これからどんどん歳を取っていくときにうまく立ち回れないんじゃないかというような、脅迫に近い気持ちを持つことがあるのである。

そこまで大袈裟に考えなくても、自分を他人として考えたり、自分を一つの組織(チーム)として想定することが、考え方として有効なんじゃないかと思うことがときどきある。

私はたかだか34年しか生きていないけど、それでも、寝ても覚めても自分が自分自身であることに飽き飽きすることがある。

そういうとき私は、自分の中の「佐藤社長」とか、「佐藤フサエおばさん」とか、「佐藤カステラくん」とかと話をすることにしている。これらの人たちと炬燵を囲んでいる気持ちになって、「チーム佐藤」の未来について相談するのである。

佐藤社長は、保守的な人間である。チーム佐藤の構成メンバーの中で、一番歳を食っており、もっとも信頼がおける人間であるが、少し堅苦しくて、人に厳しすぎる部分がある。

佐藤フサエおばさんは、日常生活を整えることを大切にしている愛すべき婦人だ。忙しいときはあまり会うことができないが、ふとした時に姿を現して、食後に皿を洗ったり、洗濯物を干したりする。

佐藤カステラくんは、現実感というものがまるで感じられない、得体の知れない若者である。歳もだいぶ若い。車を運転しながら、

「コーラを飲みながらおしっこしたら、世界と自分の体の中に一つの輪ができるよなあ」

というようなことを考えたりしている。
主な構成員はこの3人だが、私が知らない人間も含めて他にも数人のメンバーが存在すると思われる。
時に過激派も混じっているから注意しなければならないが、こういう人たちと時々話をしながら何とか日々の暮らしを整えていくというのが、今現在の私が取っている生活法なのである。


平尾さんは文章の最後を以下の一文で締めている。

「しかし、「個々の能力」が信頼が絡む合う場で輝くのだとすれば、育まれるのもまた「信頼の絡み合い」という場だろうと思う」。


自分の能力を高めたり、自分を引っ張りあげてくれたりするのは、(今ここで日記を書いている)自分ではなく、自分の内側と外側にいる仲間たちなのだろうと、この爽やかな文章を読んでひとり納得した次第である。


信頼は、愛があるからこそ育つものだろうけれど、もう少し踏み込んだ、個人的「愛情」ということについてまで考えると、話しに異なる面が見えてくるから面白い。

「信頼しているけど愛していない」

という状況は、仕事を含めた社会生活においてよくあるものだから特別になんとも思わないけれど、

「愛しているけど信頼していない」

というのには、何だか抜き差しならない感じがあるから不思議ですよね。


投稿者 uchida : 2006年07月23日 15:55

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