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2006年04月30日

結婚報告ならびに盛岡じゃあじゃあ麺事情

 4月29日

 神戸女学院大学の飯田祐子先生と4月27日に入籍しました。皆様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 
 合気道のお稽古と、甲南麻雀連盟で入籍の報告をさせていただきました。28日には大学でも、上司の先生方に報告いたしました。
 皆さんに祝福して頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。


 4月28日
ホテルでチェックインを済ませ、部屋に荷物を置いた。彼女は着替えをした。母との約束の時間までには一時間ほど余裕があった。そこで、私たちはじゃあじゃあ麺を食べに行くことにした。朝から研究室に行ったり、合気道に行ったりで、ご飯を食べ損ねていたのである。
 ホテルから10分ほどタクシーに乗り、県庁の前で下りる。大きな道路を渡って桜山神社の鳥居をくぐると、神社まで続く道の両脇に、小さな商店が並んでいる。酒屋、蕎麦屋、焼鳥屋、薬局、床屋などがある。じゃあじゃあ麺の店「白龍」は、神社に向かって右手、薬局のひとつ手前にある。白龍の斜め向かいには、「三平食堂」がある。ここの名物は麻婆ラーメンである。弟が好きで、よく通っていた。
 白龍に初めて来たのは中学一年の時だった。同級生の林に誘われて、確か、友だち同士3人だった。土曜の夜、英語の塾に行く前だったと思う。林は昔この辺りに住んでいて、家は神社の直ぐ向かいにある着物屋だった。今は、その着物屋はもう無くなっている。林は、東京の大学を出た後、盛岡に戻って銀行員になった。そしてこの春、10年以上勤めた銀行をやめて外資系の生命保険会社に転職した。
 白い暖簾をくぐり、茶色いアルミの引き戸を開けて店内に入る。店内は外の静けさからは想像もつかないほど多くの人でいっぱいだった。盛岡の人は静かなのだ。幸いカウンター席が二つだけ空いていたので、私たちはそこに座り、じゃあじゃあ麺の小盛を二つ頼んだ。メニューは、じゃあじゃあ麺(うどん風の麺に肉みそと胡瓜、ネギがのっている)、ろうすう麺(同様の麺の汁物)、水餃子、ビール、酒、これだけである。ほとんどの人は、じゃあじゃあ麺を食べる。混雑しているときはオーダーしづらいが、水餃子も美味しい。満席の店内は、誰一人として食べている人がいない。みんな麺が茹で上がるのを待っているのだ。太くてしっかりとした麺なので、茹で上がるのに10分以上かかる。麺の準備ができると、店の人が手早く盛りつけをして、一斉にじゃあじゃあ麺が配られる。以前は40代から60代のおばさん達数人が店を切り盛りしていたのだが、ここ数年は、若い男の子数人が、タオルを頭に巻き、ネイビーブルーのTシャツにエプロンという「現代ラーメン屋風スタイル」で、店を手伝っている。先代から店を引き継いだ娘さん(といっても、もう60代だろう)だけが、昔と変わらない姿でカウンターの中に立っている。
 この店は、戦後間もなくの頃に、中国からの帰還兵だった先代が始めたのが最初だったと聞いている。林は、物覚えがつくかつかないかの頃からこのじゃあじゃあ麺を食べていて、マダム(先代の娘のこと)とも親密な関係にある。林に聞いたところによると、先代は、店で最後の時を迎えたそうだ。頑固者として知られていた先代は、ある日厨房の中で突然倒れた。カウンター席でそれを見ていた客が、「あっ、おやじが倒れた!」と叫び、それから間もなく亡くなったという。この元祖がいたからこそ、今、隆盛を極めている白龍があるわけである。
 昔は「じゃあじゃあ麺」といえばイコールこの白龍のことを指していたのだが、最近は、「盛岡じゃあじゃあ麺」として、おそらくこの白龍とは何も関係の無いかたちで、いろいろな場所に店ができているようだ。書くときは「じゃあじゃあ麺」と書くが、盛岡の人はほとんど「じゃじゃめん」というふうにこれを呼ぶ。もっと縮めて、「じゃじゃ」という人もいる。いまでこそ盛岡名物の一つとして、地元の人はほとんど知らない人がいないまでになったこの「じゃじゃ麺」であるが、以前はそれほど有名なものではなかった。実際、盛岡生まれ盛岡育ちで、しかもこの店がある東大通り商店街からもそれ程遠くない所で育った母は、私が中学生になって初めてこの白龍に来るまで、その存在を知らなかった。土産物として「盛岡じゃあじゃあ麺」を売り出すようになってから、急激に認知度が高まったものと思われる。
 麺が茹で上がるのを待ちながら、テレビの水泳日本選手権を何となく見ていた。そういえば、湾岸戦争が開戦したニュースを初めて見たのもこの店のテレビだった。暗闇の中をパトリオットミサイルが飛び交い、父ブッシュが演説をしていた。店の壁には、「焼き餃子始めました」「お子様じゃあじゃあ麺始めました(じゃあじゃあ麺とおもちゃ付き)」という張り紙が貼ってある。入り口には、いつの間にか行列ができていた。
 マダムの息子が、大鍋から一本の麺をつまみ出して、口に入れる。カウンターに座る客全員がその姿を注視している。息子は頷きもせず、おもむろにざるを鍋につっこんで、一皿一皿に麺をのせ始めた。頭タオル巻きの若者が、複雑なオーダー順を全て憶えている。

「真ん中テーブルさん、普通2、大盛り1、小盛1。つぎ、奥テーブルさん、普通3、小盛1。こちらのカウンター普通1、小1です」

 息子はその順番通りに、皿に麺をのせていく。麺の上に、マダムが、肉みそ、胡瓜、ネギ、をのせる。その上から白い粉を小さいスプーンでごく少量振りかける(おそらく味の素だと思うが、高校生の頃、僕たちはこの粉末を「ヤク」と呼んでいた)。他のエプロン姿の若者達が、皿の脇に刻み生姜と紅生姜をのせ、店内の客達にじゃあじゃあめんが一斉に配られる。
 しばらくして、私たちのところにも小盛が二皿運ばれてきた。たっぷりの酢と少々のラー油を振りかける。彼女の皿にも同じようにかける。私の皿は、少しだけおろしニンニクを肉みその上にのせる。そして、よくかき混ぜて食べる。酢が強めに効いているのが私の好みだ。麺を食べ終えると、皿の上に生卵を割り、かき混ぜる。混ぜ終えたら、「お願いします」と言って、皿をカウンターの上にだす。すると、マダムが熱々の麺のゆで汁を皿に入れてくれる。肉みそと、ネギを入れて、さっとかき混ぜ、返してくれる。「ちーたん」という食後のスープである。少々の塩と、胡椒をふりかけて食べる。
 スープ入りの皿を返してくれるとき、マダムに
 「レンゲいりますか」と聞かれた。
 マダムは、ジーンズにジャンパー姿の客に、「レンゲいりますか」とは聞かない。少しだけ整った身なりをしていたから、マダムは私たちを観光客だと思ったようだ。
 先に、ちーたんを飲み終わった私は彼女が食べ終わるのを待ち、持ち帰りの麺と肉みそを4人前買って店を出た。二人とも額にうっすらと汗をかいている。外は薄暗いが、まだ明るさは残っていた。鳥居の方に向かって歩き、県庁の向かい側で、タクシーが来るのを待った。 
 タクシーに乗り、盛岡地裁と岩手銀行ビルの間を北に向かう。裁判所前の石割桜は、まだ咲いていない。実家はここから車で5分くらいのところにある。実家と言っても、そこは私が生まれ育った家ではない。4年前に、両親が二人の終の棲家として建てた二人だけの家だ。私が住んでいた家は、ここからもう少し北に行ったところにある。その家には、この春から弟が一人で住んでいる。弟は、一般病院での2年間の初期臨床研修を終えて、4月から大学の皮膚科に入局した。
 寺町通りといわれる道を北に向かって走り、東顕寺の向かい側で車を降りる。麺販売専門の蕎麦屋の横の路地を西に入ると、父と母が住む家がある。家の向かいにも光照寺という寺がある。インターホンを押すと母が出てきた。母は、可愛い割烹着風のエプロンをしていた。青のギンガムチェックに模様が少し入っている。私には母の着るものを恥ずかしがっている余裕はなかった。

 「こんにちは。元気ですか。こちらが飯田祐子さんです」

 「初めまして。佐藤雅子です」

 母は、おどけるように少しかしこまって言った。

 「初めまして、飯田祐子といいます」

 祐子さんがそう答えた。「いいます」のところが少し緊張ぎみだった。私はちょっとだけ恐縮した。

 「会議が思ったよりも長引いてね、さっき帰ってきたばかりなの。いま、夕ご飯の準備始めたばかりだから、少しかかるけど、いいでしょ」

 母が言った。事務的に会話をすることで、初対面の気詰まりな感じを紛らわそうとしているのだろうと思った。こういうところは親子でとても似ていると思う。

 「全く問題ないよ。いまじゃじゃ麺食べてきたの。じゃ、あがります」

 「どうぞ。ちらかってるけど」

 コートを脱いで、家に上がった。家の中には母しかいなかった。父は約束があり、少し前に出掛けたところだった。9時頃には帰って来るという。居間には電灯がついていなかった。母は台所だけに明かりをつけて、母と私たち3人の夕食の準備をしてくれていた。 居間の明かりをつけて、ソファーに座った。母は台所に戻った。私は何となく落ち着かず、直ぐに立ち上がり、ダイニングテーブルのそばにある小さい仏壇に線香をあげた。ソファーに戻ると、母がお茶を持ってきてくれた。お茶を飲みながらテレビをつけると、関西の若いお笑い芸人が、富山にホタルイカを食べに行く番組をやっていた。ホタルイカの醤油漬けに合う醤油を探すために、3人のお笑い芸人が、醤油醸造所を尋ねていた。木の樽についた蛇口をひねると、醤油が出てくる。それを聞き酒用のぐい飲みに取り、小指を醤油につけて嘗めている。「この醤油甘い」「ほんまに甘い」と、芸人達は大袈裟に感嘆している。
 
 「こちらで、関西弁をきくとちょっと不思議な感じね」

 祐子さんが言った。テレビを見たり、知り合いに電話をしているうちに、30分ほどで夕食の準備ができた。食事を運び、ワインを開けて、私たちは食事を始めた。

投稿者 uchida : 2006年04月30日 19:27

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