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2006年02月02日
ヴァン・ヘイレン、ぼくに力を貸してくれ
この日は出張がなかったので、大学で一日過ごした。11時20分頃に大学に着き、すぐに細胞の培養液の交換をした。細胞のダメージは思ったほどではないようだったので、そのまま培養を続けた。S先生と、ヒトES細胞のデータ改ざん事件について感想を述べ合った。夕方、実験室から廊下を挟んで向かい側の医局に行くと、教授が秘書のMさんと相談事をしていた。教授はMさんに弔電を頼んでいた。僕が医局に入ったときにはすでに話の途中だったので、誰が亡くなったのかまでは分からなかった。テーブルに座って紅茶を飲みながらビスケットを食べていると、話を終えたMさんが、僕が座っているテーブルのところに来た。
「どなたか亡くなったんですか」
「東京のM先生です」
M先生は、I助教授の師匠にあたる人だった。I助教授は僕が前に所属していた医局の先生である。
「急だったんですかね」
「いやそうでもなかったみたいですよ。佐藤先生、ご存知の方なんですか?」
「そういうわけではないんですが、わりと有名な先生ですよね」
僕は心の中よりも少し突き放したような返事をした。M先生に対して失礼な気もしたが、M先生と僕の間に、改めて人に説明するほどの関係があるわけでもないように思った。
直接の知り合いでは勿論なかったが、僕は一度だけM先生の講演を聞いたことがあった。それはI助教授が企画したM先生の講演を聴く会だった。M先生が長年研究テーマとしておられた、赤血球の酵素異常に関する話だった。
「みんなに勉強してもらおうと思って」
I先生はこう言っていたが、I先生が気遣っている相手は医局員ではなくて、M先生だった。これは、老いていく師に対する思いやりから企画された講演会だった。内容もそういう内容だった。勉強にはなったが、それは歴史の勉強に近いものだった。講演を引き受けたM先生もまた、それを十分に承知しているようだった。M先生は、すべて分かっている上で、自らの話すべき事を話していた。
講演は、整然としていながら、何処にも滞るところのない流れるようなものだった。小さな話のまとまりが心地よく関連付けられ、気負いなく、適切なテンポで進められた。講演を聴きながら、この先生は一体今までに何回くらい人前で講演や講義をしたのだろうかと思った。
講演の後、近くから見るM先生は穏やかな老紳士で、随分優しそうだった。「優しそうな先生ですね」とI先生に言うと、I先生は目を閉じて、首をぶるぶると横に振った。そして、昔のM先生は本当に怖かったという話をした。怖くて、学者特有の粘着性が強いんだとI先生は言った。その話をするI先生もまた、僕に言わせるとその粘着性をきちんと受け継いでいる人だった。
M先生は、時々夫人と連れ立って学会場に姿を見せることがあった。横浜、大阪、金沢、倉敷、その後いろいろな場所でM先生の姿を拝見した。しかし、今になって考えてみると、ここ数年は学会場でM先生の姿を見ることは無くなっていた。もしかしたら、何か病を患われていたのかもしれない。
M先生は、医者の業界雑誌で、新年と初夏に特集される随筆特集に毎回寄稿されていた。僕は訃報に接するつい数日前に、2006年の新年号に載っていたM先生の短い随筆を読んだばかりだった。結果として最後になってしまったM先生の随筆のタイトルは『人生ってなんだろう』だった。題を目にしたときは、M先生のイメージからして、随分柔らかいタイトルだなと感じた。開放的というか、双方向的というか、「開けっぴろげ」なんじゃないかとまで思ったくらいだった。内容も少し不思議だった。『人生ってなんだろう』と、考えるM先生の姿は何処にもかかれておらず、そこにはただ、穏やかに流れる老研究者の日常が綴られていた。随筆は、M先生が代表編集をした教科書の改訂版が、多くの人の協力で漸く出版にこぎつけたことに対する感謝の言葉で締められていた。
『人生ってなんだろう』
M先生は、今回の随筆が最後になると分かっていて、この文章を書いたのだろうか。M先生の問いかけは、問いかけ自体が答えになっているような気もするし、はたまた本当に「人生ってなんだろう」と考えているようにも見える。
僕も「人生ってなんだろう」と考えることがある。そして、断片的に何かを納得した気持ちになることもある。しかし、僕の納得は、いつもどこかへ向かう納得だ。「思い込み」と言ったほうが近いかもしれない。
M先生は、何かを納得していたのだろうか。でも、あったかもしれないM先生の納得は、何処へも持っていけない納得だ。何処へも向かう必要がないときに、人は納得なんてするのだろうか。せっかく納得したとしても、それはすりガラスの上に書いた習字のように、いくら上手に書いてもすぐに消えてしまうではないか。
その数日後、新聞の訃報欄にM先生の記事が載っていた。死因は「肺炎」と書いてあった。
出張に行ったり、研究室で実験をしているうちに平日が終わった。そして週末が来た。その週末は、一週間後に控えた引越しの準備のため、部屋の中のいらないものを片っ端からゴミ袋に詰め込む作業をしていた。いるものといらないものの中間に位置するものはできるだけ捨てることにした。それは、日曜日の夜のことだった。僕は、夜更けにヴァン・ヘイレンのCDを聞きながら心を鬼にして作業をすすめていた。結婚式の引き出物として貰った一度も使っていないタオルをごみにすることは、ヴァン・ヘイレンの力を借りないと僕には不可能だった。洋服も、必要最低限もの以外はできるだけ捨てることにした。捨てる洋服の中には、ほとんど着ていないものもあった。ごみの取りまとめを進めているうちに、作業内容はどんどんエスカレートしていった。「不要物品」のラインは、「必要物品」との境界をますます侵食し、90リットル入りの透明なポリ袋が、ゴミでいくつもいっぱいになった。ゴミ袋を作りながら、僕はいつの間にか五輪真弓の『合鍵』を口ずさんでいた。このあまりにも非道徳的な作業をやり遂げるには、ヴァン・ヘイレンだけでは力不足だった。僕は何度も繰り返し『合鍵』を歌った。ときどき合間に、『恋人よ』も挟んだ。いい加減、五輪真弓に飽きてきたところで一度手を休め、冷蔵庫の中に一本だけ残っていた缶ビールを開けた。古新聞を眺めながら、ビールを三分の一くらい飲んだ。新聞には、グレッグ・マダックスの特集記事が載っていた。
記事を読み終えて、僕はまたゴミ袋作りに戻った。何を歌うか迷ってから、仕方なく『くちなしの花』を歌い始めた。歌う前はあまり気乗りしなかったが、歌い始めるとすぐに気分が乗り出した。
「いまでは指輪もまわるほど やせてやつれたおまえの噂」
ここまで歌って、さあいよいよと口の形を「く」にしたところで玄関のチャイムが鳴った。
頬杖していた腕を横から外されたような気分でインターフォンの受話器を取ると、モニターに見慣れない人間が立っていた。
最初見たときは、それが大人なのか子供なのか分からなかった。背が低く、頭の真ん中が縦方向に盛り上がっている。髪の毛がない。そして、額の中央に「にく」と書いてある。
モニター越しに見る姿のあまりの不思議さに、僕は言葉をかけられずにいた。受話器を置くこともできなかった。受話器を置いて、もう一度チャイムが鳴るのが怖かったのだ。僕はどうすることもできずにモニターの前に立ち尽くしていた。
5秒ほど無言の時が流れた。そしてそれから、モニターの前の生き物が口を開いた。
「佐藤さん、こんばんは。僕はミートくんです」
日曜日の夜中に訪れた客は、ミートくんだった。
投稿者 uchida : 2006年02月02日 10:34
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