« ステイプルと郵便切手と美しい新妻について亀が教えてくれたこと | メイン | 病棟の日々 »
2005年06月29日
鳥啼き、亀の目に涙
6月18日(土)
喫茶店の表には「純喫茶 白馬」と書いた看板が出ていた。玄関のドアを開けると、カランカランと鐘の音がした。薄暗い店内は思っていた以上に広くて、五つのテーブル席とL字型のカウンター席があった。テーブル席は縦に並んでいて、玄関に近いほうの二つだけ硬い椅子がおいてあり、奥三つには臙脂色のソファーが並べてあった。先客は一人だけで、60台くらいのネクタイ姿のおじさんが一番奥のソファーに座ってナポリタンを食べている。亀と僕は、いちばん玄関寄りのソファー席に座ることにした。亀がソファーに座れるのかどうかちょっと心配だったが、カウンターの止まり木によじ登るのは、ソファーに座るよりも難しそうに思った。どうやってソファーに座るのだろうと黙ってみていると、
「早く上にあげろよ」と亀が言った。
「『あげろ』って、ソファーの上に君を持ち上げるという意味?」
「そんなのあたりまえだろう」
少し怒ったような声だった。仕方がないので、僕は亀の甲羅の両端を持ち上げて、ソファーの上に置いた。亀の甲羅というものは、あなたが想像するよりもおそらくずっと柔らかい。
向かい合わせで席に着くと、鐘の音を聞いた店のおばさんが、水を入れたコップとおしぼりを持って注文を取りに来た。おばさんもまた、亀に驚く様子は無かった。ただ、おばさんは僕と亀の様子をみると、テーブルに水を置いた後で店の奥に戻り、見たことも無いような長いストローを亀の前に置いた。僕はカフェオレを頼み、亀はレモンスカッシュを頼んだ。こんなに小さい体で炭酸飲料を飲んだら、全身が痺れてしまわないのだろうか。
おしぼりで手を拭いて、紙袋から長いストローをとりだした。そして、片端を亀の前に置かれた水の中に入れて、もう一方の端はテーブルの縁まで伸ばしてあげた。ストローには所々に節がついていて、形を自在に変えられるようになっていた。
亀は亀っぽい仕草でゆっくりうなずいた後で(今思えば、あれは僕に対する謝意の表れだった)、水を一口飲んだ。そして、勝手に話しを始めた。
「小学生の頃にね、家に知らない女が乗り込んできたことがあるんだ」
「日曜日の昼飯が終わったくらいの時間でね、親父は居間でテレビを見ていて、お袋は台所で洗い物をしていた。俺と妹はマンガを読んでいた。そうしたらさ、知らない女が突然家に来たんだ。何となく嫌な雰囲気だなあと思っていたら、お袋が俺と妹のところに来て『二階に上がってなさい』って言うんだ。二階でマンガを読もうにも、下の様子が気になって仕方がないからさ、妹と二人で階段の上の小さな踊り場から、下の会話に聞き耳を立てていたんだ。最初のうちは静かに話をしていたようで、何を話しているのかまったく分からなかった。でも、だんだん声が大きくなってきてね、そのうちに、女が一方的に何かをまくしたてる声が聞こえ始めた。そして、ときどき間が空くんだ。間は間だから、誰の声も聞こえない。でも、その間は、お袋が女に何かを質問しているんだろうと思った」
店のおばさんが、カフェオレとレモンスカッシュを運んできた。銀色のお盆にのっかったレモンスカッシュは、運動会のリレーで使うバトンのような円筒形のグラスに入っていた。細かい炭酸の粒が、グラスの内壁や底から液面に向かってぐらぐらと上昇していた。
亀は昔は人間だったのだろうか。
「親父さんはどうしてたの」
レモンスカッシュに、長いストローを入れながら聞いた。
「親父はおそらくずっと黙ったままだったと思う」
亀はそういってから、ストローでレモンスカッシュを一口飲んだ。亀の小さい体に炭酸が駆け巡り、体が一瞬固った。両方の目を瞑り、そして目を開けた。両方の目は潤んでいた。砂浜のアカウミガメは産卵で涙を流すが、港をうろつくミドリガメはレモンスカッシュを飲んで泣く。
「小一時間程話が続いた後で、女が帰りそうな気配になった。女を見送るためにお袋だけが玄関に出てきた。見送った後で、お袋が二階に上がってきそうだったから、俺と妹はあわてて子供部屋に戻って、マンガを読むふりをした。すぐに階段を上がる足音がして、お袋が子供部屋の襖を開けた。俺と妹は、不自然に大人しくマンガを読んでいた。お袋は特別普段と変わらない様子に見えた。お袋は部屋の中に入ってきて俺と妹の前に座った。そして、俺に向かって『お父さんと将棋指して上げなさい』と言った」
店の奥のほうから煙草のにおいが漂ってきた。おじさんがナポリタンを食べ終えたのだろう。おじさんが食べていたナポリタンは、オレンジ色のスパゲッティーの中に玉ねぎと角切りのハムがたっぷりと混じり、鮮やかな緑色の輪切りピーマンが上に散らしてあった。
「お袋に『将棋を指せ』なんて言われたのは初めてだった。俺は言われるとおりに将棋板を持って親父のところに行き、将棋に誘った。今と同じような夏が始まりそうな季節で、親父は白い半そでの肌着と、ステテコ姿だった。親父は体が小さく痩せていて、少し禿げていた。決していい男ではないが、子供の俺から見てもどこか可愛らしいところがあった。二人の間に将棋板を置いて、俺は全速力で駒を並べ始めた。親父は駒を並べるのが早くて、俺はそれまで親父より先に駒を並べ終えたことが無かった。駒を並べ終えると親父は、毎回決まって『先に並べ終えたほうが勝つと決まっているんだ』と言った。悔しいことに、実際俺は一度も親父に将棋で勝ったことが無かった。だから、俺は親父に勝つために、最大限のスピードで将棋の駒を並べ始めた。
駒をできるだけ速く並べ終えようと思ったら、相手が駒を並べるスピードを気にしていてはいけない。とにかく自分が駒を並べることに集中するのだ。俺は自分にそう言い聞かせて、王様、桂馬、香車、金、銀、飛車、角と順調に並べていった。そして、あとは歩を5、6個並べれば終わりというところで、俺は初めて親父の駒の並べ具合を見た。親父はいつもだったらとっくに並べ終えているはずなのに、今日はまだ半分も並べ終えていなかった。不思議に思って親父の様子を見ると、親父はうつむいて泣いていた。少し驚いたが、これ以上のチャンスは無いと思ったので、俺はとりあえず、残りの自分の歩を急いで置き終えた。親父はその後、気を取り直した様子で駒を並べ終え、それから俺たちは将棋を指した。どっちが勝ったかは覚えていない。覚えていないということは、おそらく俺が負けたんだろうと思う」
亀の前のレモンスカッシュはいつの間にか無くなっていた。
「仕事があるからそろそろ行かないと行けないんだ」
「仕事は何をしているんだよ」
「医者だよ。今日は病院のミーティングがあるんだ。ミーティングは鼻毛にパーマがかかるくらい長いんだ」
「面白いのか」
「仕事だからね」
「そうか。今日は俺がご馳走するよ」
そういって、亀はソファーから飛び降りた。木の床に着地すると、「ペタン」という音が店内に響いた。亀は勘定を払わずにそのまま店を出て行ってしまった。店のおばさんの方を見ると、おばさんはナポリタンのおじさんと話をしていたが、僕の視線に気づいて、こちらに向かって小さく微笑んだ。そしてまた会話に戻った。
外に出ると陽はまだ高かった。時計を見ると、午後4時を少し回ったくらいだった。亀は交差点のほうへ向かって歩いていった。僕は、地下鉄に乗って大学に戻った。電車の窓からは大阪ドームが見えて、貧乏くさく銀色に光っていた。
投稿者 uchida : 2005年06月29日 09:57
コメント
コメントしてください
サイン・インを確認しました、 さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)
(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)