ウッキーの浮き憂き日録 2004年版

 

2004年3月22日(月)

あーあ、雨だよ雨。

一気に寒くなったよ、なっちまったよ、また。

1日遅れで天気が崩れた、のかな。

いったいぜんたい誰のせいだ!・・・とは思わないでください。関係者各位。

 

2004年3月21日(日)

「ドリフの停電」と聞いて、その場面を瞬時に思い出せる人は日本中にどのくらいの数がいるだろうか。

1980年代に小学生か中学生として過ごした人々つまり西暦にして1970年代生まれの人口の半分くらいは、その情報をたしかな現実として取り込んでいるはずだ。1960年代生まれのいくらかのひとびとも、ごっそりこの記憶をお持ちのことだろう。要するに現在の20代30代40代の前半のひとびとのいくらかが、この記憶を持っている人間の数にあてはまることになる。いわゆる「ドリフ世代」にはまるひともいるのかな。

先に挙げた「半分くらい」というのは別の「半分くらい」という値があるからこそ出てきた言葉であり、後者の「半分くらい」は、同じ頃他局を見ていたという事実を物語る。代表的なのは「ひょうきん族」である。

週明けの月曜日になると学校に通うこどもたちの話題は、全国どこに住んでいてもきっとこのどちらかの話題で盛り上がり、二分しながらもそのギャグを早速使っていた、あるいはそれを見聞きしていた、ひとつくらいはそんな思い出があるはずだ。(テレビ放送が映る環境にあるという前提が必要だが)。

しかしなかには、ニュースを見るとか別の局を見ていたというこどもがいたであろうし、テレビなんて見ずに寝ていたり本を読んでいたりしたこどももいるだろう。そういうひとたちが大きくなって、のちに思い出を語るとき、都合よく思い出話から姿を消え去り、別の話に組み込まれるか組み込むかしている。これもまた見方を変えれば事実だろう。内田先生の喩えを借りれば、ちょうど60年代後半には日本中の誰もがビートルズを聴いていたと主張する20世紀後半から21世紀初頭に生きる団塊の世代とそれに続く世代(1950年代後半生まれ−しかしほんとうに流行に敏感な人は聴いていただろうし、ほんとうにレコードをもっていただろうけど−)が2004年の段階で出現してくることにすこし似ている気がする。別に調査したわけではないので実際のところは知らないが、80年代の初めに学校教育を受けていた世代の誰もが、「ひょうきん族」を見るか「ドリフ」を見るかしていたわけでは決してないと思う。

ところで、ドリスターズといえば、ビートルズ来日公演の際の前座に起用されたことでも知られるが、そのはじまりは単なるギャグ・バンドではなくれっきとした音楽バンドだった。とはいえ、どうして彼らが数あるバンドの中から選ばれたのだろう。謎である。来日した彼らの対応か通訳か何かの役には、若大将の加山雄三におはちがまわってきたらしいことは、作られた若さと親の七光りと容易に想像がつくが。

来日したビートルズの姿をひと目見ようと、彼らが降り立った空港には数々の日本の芸能人が殺到したと言われる。普段ブラウン管にしか映らない日本の芸能人や憧れのスターが空港に同時間に出現したのである。同時間に空港に来た一般人は、一瞬にしてすべての憧れのスターと対面できたことになろう。しかし、たとえそうであったとしても、ビートルズを眼の前にしては日本の芸能人もいささか霞んで見えたことだろう。そういうもんだ。

さてと、それから数十年後。

日本で「ドリフの停電」をリアルタイムで見たワタシはじつはここ最近、なぜかはわからぬが何かに導かれ、食い入るように『踊る大捜査線』を見ていた。本放送では一度も見たことがなく、興味もなく、スペシャル番組があったことさえ何も知らなかった。さすがに映画化されたことは知っていた。そしてちょうどテレビ放送全11話を見終わったとき、訃報を知った。

いかりや長介というひとがいた。

「長さん」の名で知られるそのひとを最後に認識したのは、コメディアンとしてではなく、俳優としての彼だった。

「大捜査線」を見ながら、なぜかその顔が忘れられなかった。何かを訴えていた。訴えを聴くために見たのだろうか。

あまり縁のない芸能人の死なのに、いやに哀しくなった。ショックだった。

笑いの世界がまたひとつ幕が閉じられる。

合掌。

 

2004年3月20日(土)すべては、「考えるな、感じる」の姿勢である。

三軸自在修正法の講習会に行く。

普段からたいへんお世話になっている三宅先生のご高配により、芦屋市民センターにて開催されるこの会に参加させていただく。全身の悦びともに深く深く感謝する。

セミナーには、発案者の池上六朗先生が講師として登場され、今回は光岡英稔先生と内田先生がゲストというかたちで対談するというものであったらしい。

池上先生の三軸修正法のご説明は身に沁みておもしろかった。

それらはさまざまにひろがりを持ちながらも自由があり、自由があるからこその正しさがある。

午前中の2時間で、実際に池上先生のお話をお伺いするうち、「これはなんとおもしろいものだ」と思えて来た。なにを聞いても興味の尽きるところがなく、三軸そのものが、とても「感じのいいもの」だと思える。

素人なので、前後左右何もよくわからずそこに座り、一心に身体だけを説明の声に向けていたので、何かを述べるのもおこがましいことであるが、それでもなお池上先生のご説明や術を拝見していて感じたことのいくらかを記せば、これがおもしろうそうだということ、これができそうだと勝手にそう思えてきたこと、やってみたいということなどであった。ワタシにとって、かなり魅力的な世界であることはたしかだ。三軸修正法を本格的に学んでみたい。

そのためには、まずは、自分でいろいろやってみることが必要だろうなと思う。いろいろ感じながら。

光岡先生の意拳の挙式から、「正しい」からだの使い方の「正しさ」を見出す感覚をどうすれば行き着くのかあるいは「それが正しい」と感じられる感覚はどこからやってくるのだろうかと考えた。(考えてはいけないがことばとしてそう記す)。

要は「考えるのではなく感じろ」であるとしても、「ああそうなのか」ということすら考えないうちに「感じる」、それが必要なのである。(こんな風に思考の順路すら辿ることなく感じるのだろうか)。

ともあれ、なんであれ、感じることが必要である。

講習会を受けて、すっかり身体の調子がよくなると、今度は頭の調子がよくなってくる。(ほんまかいなという意見が聞こえてきそうだが大丈夫、問題ない)。

つまり、本来の姿が出てくるってことか?(あれがか!?どんな姿や!)

考えるのでなく、感じること。

それは、これまで合気道の稽古をとおして聞いてきたことにそっくりであるとも気がついた。ワタシなんぞが言わなくても誰にでもわかることだろうけれど。自分のために記せばこうなる。今はね。あらゆるものはあらゆる世界に通じる世界なのかなあ。

とても充実した一日だった。気持ちのよい一日だった。

三宅先生、お声をかけていただきまして、ほんとうにありがとうございました。とても充実した時間を過ごすことができたのは、先生のおかげです。心から感謝いたします。

池上先生にお会いしできたことは、ワタシにとって何よりの幸運です。身体がよくなるというのはすごくうれしいことです。身体がそれとわかる前に喜んでいます。興奮状態を抑えるのに精一杯です。ありがとうございます。

光岡先生のにこやかさには心が安らぎます。挙式(というのでしょうか?)がんばらずに取り組んでみます。

そして内田先生、また、いろいろ、ありがとうございます。まあ、いろいろ感じてみます。ワタシは生きたいです。

 

2004年3月19日(金)

一部では仕事がはかどり、そのまた一部では仕事が滞る。

果たしてそれは、いい日なのか、悪い日なのか。

 

2004年3月18日(木)

そうなのだ、きょうは木曜日である。

めずらしく午前中に時間の取れる日である。

とはいえ、きのうの卒業式の見送りその他で、身体の一部が神経かいつもあまりつかわない部分が疲労してしまい、おまけに朝から晩まで、ずっとしゃべってばかりいたので喉の辺りがへんてこりんである。

しかし電話は楽しかった。電話が楽しいものだと初めて思った。

明るい未来でありますように。

 

2004年3月17日(水)卒業式

合気道部の卒業生のお見送りに行く。

合気道を始めたワタシにとって、最初に後輩になったひとつ下の学年のひとたちも、本日めでたく大学を卒業された。

そう、じつは合気道部的暦では、「ひとつ」しか変わらなかった学年なのである。まあ、それだけに、関わることが多くありました。

みなさんどうぞお元気で。そしてまたのお稽古で。

 

2004年3月16日(火)阪急電車に乗ると、そこは烏丸だった。

暖かな春の日差しのなか、相当に眠い眼をこすりながら京都文化博物館へと出向く。

行ってすぐに感じたのだが、なんだか奇妙な気分になった。

やっぱりそうだ。

これは見たことがある。

記憶を辿れば、なんとそれは1年半前の夏ごろ、神戸に来たものにすこし手を加えて原画を増やしただけの催しだったのである。

おおう、ひどいね。

なんというやり方だ。

図録もそのまま同じものを売り出すなんてさ。

などと思ってしまった。

行くまで気づかないほうも悪いと言えば悪いかも知れぬが、新聞社も知らぬ顔して、何度も提供しないでいただきたいもんだ。

ということで、企画展を部分的には同じものをまた観て、すこしだけ新しい発見をして帰ってきた。

1970年の大阪万博のとき、「ロボット館」という建物か企画があったらしいが、そのとき並べられた「未来のロボット」をまた見てきた。

いまの身体ではまだ生まれていないときなのに、妙な懐かしさと導かれ方があるため、相当この万博にご縁があるのかなって、なんて思いながら。

よい天気だったので、きょうは錦商店街を歩いて錦天満宮にお参りしてきた。

かの有名な「錦・高倉屋」で漬物を買った。(にゃは。行ってきましたよ!)

 

2004年3月15日(月)

初めてNGKに行った。笑いはなかなか奥が深い。

 

2004年3月14日(日)

なんだったかな、「日曜日」として過ごした久しぶりの休日。

 

2004年3月13日(土)

夕方非常に眠くなってきたので、いつもより早く眠った。

 

2004年3月12日(金)

金曜日だった。

 

2004年3月11日(木)

重いのは、ただ単に太っただけでしょうか?

それとも…うーん。

ま、わかるときにはわかることでしょう。

 

2004年3月10日(水)

散髪する。

いま切ってもらっている店は元町にある。

西宮に住んでいる身にとっては三宮も梅田も移動距離だけにしてみれば、ほぼ同じくらいである。どちらに行くのかは、そのときの気分次第といったところである。(大概は三宮つまり神戸に向かうが)。

しかし、たまには、梅田に出られる予定でもあればなあと思う。と思っていた矢先、梅田店がオープンすることを知らされる。

おおぅ!驚き。

いま切ってくれているひとには何の不満もないので、これで担当者が梅田勤務にでも替わってくれれば言うことないのに、などとさらに都合のいいことを思う。

 

2004年3月9日(火)

モーニングコールの時間より幾分早く覚める。

いつものとおり、旅の始まる朝は風呂に入る。

まだ眠っていそうなマスイ氏をそのまま、静かに部屋を出る。

朝7時を過ぎてすぐだというのに、風呂にはもう何人かいる。これが、ご年配の方なら早起き朝風呂であることも容易に想像されそうなものだが、どうもそうではないらしい。若いひとがいる。あまりに風呂場を片付けない若い人たちが…。と言っても、ワタシよりいくらか上であることはたしかだ。どうなっているのだろう。

部屋に戻ると、旅館のスタッフが布団を上げに来てくれた。

朝食には湯豆腐が出る。うまい。

食事を終えると、どちらからともなく「コーヒーが飲みたいね」と意見が一致し、予定より早くチェックアウトを済ませて、隣のスタバへと出向く。

鴨川が見える。とても澄んだ空が見える。とても心地のよい朝だ。まどろみそうになるくらいに。

こんな静かでおもしろくて深みのある場所にカンヅメされたら、相当はかどるだろうなあと思った。いっそのことカンヅメされてもいい。ただし1ヵ月単位くらいで移動したいけれど。

ゆるりとしてから、知恩院へ。

風情のある寺だ。

徳川家が城として建てた部分があるらしく石段が積み上げてある箇所がある。今回は行っていないが、そこいらは二条城と同じつくりになっているのだそうだ。道理で寺臭くないはずである。七不思議のひとつ「鶯張りの廊下」にしても、城のつくりの現われだろう。どれだけガンガン歩いても、「きゅっ、きゅっ」と音がする。

「この廊下が‘老化’することはないのか」と思い、つい口からその言葉が出そうになったが留めた。旅の途中でこの手のことばかり口にしていると、ときどき哀しい目で見つめられ、疲れさせることになるからである。それでなくとも同行者は、病みあがりで体調が万全でなかったのだから悪化させるようなことは言えない。

バスでJR京都駅へ行く。小腹が空いたので昼食を兼ねて間食。

徒歩で東本願寺と西本願寺へ。

しかし、まさかそこが修復中とは誰が知っていただろう。(ごめんなさい。フジモトさん。もちこれを読まれていたらごめんなさい。ワタシはきちんとお話を伺っていなかったわけではないのです…しかし、そんな大きな修復とは思ってなかったのです。うううっ(涙))。

ともあれ、どうあれ、後の祭り。

東本願寺では、先々に予定されている御影堂の修復のため、現在阿弥陀堂に移された鑑真像を阿弥陀堂にて拝顔するのみ。

それでも静かに座って、静かに過ごすと、なんとも言えない時間が過ぎる気がした。

まだ大幅な修復はなされていない東本願寺ではあるが、「関係者以外立ち入り禁止」の部分が多く、ガラス戸の向こうを見つめて、しょんぼりと出てくる。しょんぼり。

徒歩で隣の(はずの)西本願寺へ。

地図上はとても近そうに見えたので歩いたのだがこれが結構遠かった。

京都の網目を歩いているという気は充分してきたが、思ったより長かった。隣り合わせのイメージが甘かったのかも知れぬ。

さらに甘いイメージが哀しい事実が眼の前に飛び込んでくる。

七条通りを歩いていたら頃から、寺であるはずの場所にとんでもなく巨大な頑丈な鉄の屋根と柱で囲まれた建物が見えるのである。しかもその側面には「御影堂大修復中」の文字。もうそのときの哀しみと言ったらない。

なんでも「平成の大修復」とかで大々的な工事をしているのだそうである。ここにきてようやく思い出した。そうだった。親鸞上人の800回忌にあわせて修復されているのであった。(しかし800回忌というのはすごい回数ですね。現世の人で800回忌までしていただける人って、そうそうはいなさそうですね)。(内田注:ほんとは750回忌なんだそうです。本願寺出版社の藤本さんから訂正が入りました)

めげずに修復していないところや歩けるところ(阿弥陀堂など)を拝観・参拝して寺をあとにする。

東本願寺には、それこそ映画の『鳥』に出演しているかのような気分にすぐさまなれるほどの数のハトがおり、当然のように寺のあちこちを飛びまわっていたが、西本願寺には数羽しかいなかったので安心した。

そこを出て、今度はさらにバスで壬生寺へ。

「都来てひとつくらいは新撰組」(字余り)ということで壬生寺に行く。(京都のことはよく知らないが新撰組は好きである)。

壬生寺の境内に入り参拝。

寺中の壬生塚にて近藤勇の墓前で手を合わせる。

「ようやく会えましたね」と祈りながら。ほかの墓前にも手を合わせる。

もと来た道を歩いて八木邸へ。

非常によくしゃべる観光ガイドの説明を突如やってきたバスツアーの観光客総勢40名と最初から座っていた観光客らしい人々(つまり老若男女)と共に聞き、新撰組について抱いていた謎がいくつか解ける。

なるほど。そういうことだったのか。

新撰組が今でも人気があるのはその主たる活動期が短かったこと、背景となる時代もまた揺れ動いていたこと、彼らが単なる武士階級ばかりで成り立っていたのではなかったことがあるが、活躍する人々が若かったこと、加えていまでもその集団に謎めくことが多く、解釈の余地も変更の可能性も知られざる事実も多分にあるからだろうと、そんなことを思った。

二人して満足げな気分に浸りながら、また京都駅へと戻っていく。(史実はどうあれ、いちおう毎週観ていてよかったと思う)。

きっと疲れたのだろう、バスの座席に座った途端、下を向いて眠り始めたマスイ氏がいる。隣のワタシは、さきほどの西本願寺に来たとき、どうしても気にかかった風景があったので、それを調べることにして、地図を広げてみた。

あった。あった。やっぱりそうだ。あの場所だ。あのコンビニである。

実際にバスがその角に来たとき遠く西側に通じる通りを眺める。

角の名は、「七条堀川」。

忘れもしない。ふたつ前の夏の日のことだ。

内田先生、コバヤシ先生の「大人のためのナントカカントカ」(名称失念、『ミーツ』主催か提供の行事だった)でやって来た京都。諸事情により帰れなくなりリーガロイヤルホテルに宿泊させていただいたのである。(コバヤシ先生のご高配である)。

その翌日、うだるような暑さのなか、ワタシはその角にあるコンビニまで走った。ホテルのドアマンに教えられた「一番近いコンビニ」は土地を知らぬものにとっては果てしなく遠いことなど知らずに。

京都とはなんと平坦な道なのだろう。なんと熱い道路なのだろう、と繰り返し流れる汗を拭きながら、気温30度にも近いアスファルトのヨコの歩道を走った。あのときの暑さと汗はいまでも忘れない。

以前の記憶と現在の自分から、この気になる映像のからくりの意味がわかった途端、周辺地図が一気に頭に入ってきた。

なるほど、こういうことだったのか。

やっぱりどこであれ、自分の足で歩き、自分の手で地図を広げて歩かなければならない。そうでなければ、何も頭に入らない。地図が地図となるまでに。

都のたびを終える頃、ワタシはそんなことに気がついた。

 

 

2004年3月8日(月)

予定通りの12時半に、マスイさんが誘いに来てくれた。きょうからすこし旅行なのである。恒例の。

手っ取り早く昼食をとり、梅田経由で京都に出向く。(「梅田に行くと座れる」と言う基本的なことを実践する)。一同、河原町を目指す。着いたのは二時半もまわった頃。

まずは京都の街並みを歩く。

じつはワタクシ、京都という場所はJR京都駅以外ほとんど行ったことがないところなのである。「そんなばかな!」と言われそうだが仕方ない。これは紛れもない事実だ。

あと記憶しているのは、小学校5年生のときの遠足で嵐山周辺に1回、何かのついでに家族で行った天橋立に1回、大学院の講義関連で嵯峨野周辺見学に1回、『ミーツ』の主催されていた大人とか何とかの会で1回、学会で1回というくらい、とまあ同じ近畿圏に長く住んでいながら、じつに乏しい京都経験なのである。「近くて遠い京都哉」なのである。

当然、通りの名前も筋も位置関係も何もわからない。(同行者マスイ氏の名誉のために言っておけば、氏は何度も出かけているようである)。

鴨川にかかる三条大橋を渡り、三条通りを歩く。途中「花見小路通」という名の美しそうな通りがあるので方向転換して南に向かった。そのまま通りに沿って歩くと建仁寺がある。

「建仁寺だ!」と、予定通りの偶然の発見(でもないが)に喜ぶが、本坊に入ろうとしたところ、かなりの工事中で、どうも風情に欠けるため、すぐさま今回は見過ごすことにした。

もと来た道を戻って、今度は四条通りから祇園へ。

「ほほう、ここいらがね…」と別に置屋さんとかそういうものを見学することなく、歩く。歩くだけでも喜んでいるのはワタシかもしれない。が、とにかく歩いた。

八坂神社の入口だけを見て、東大路通りを南へ南へ。ようやく、きょう一番のメインである六波羅蜜寺に着いた。

教科書などで知られる空也上人立像、薬師如来坐像、運慶坐像などを拝顔して戻ってきた。

おみくじがあったので、引いてみる。大吉なり。幸先がよい。

さて、清水寺へ。

どこなのかは知らぬが、あまりガラのよくなさそうな雰囲気をかもし出す修学旅行生(関東弁を話していた)の集団に巻き込まれることないよう体よく坂をのぼり、清水の舞台にたどり着く。

旅行生集団は決まりの集合写真を撮ったり、だらだらと土産物を見たり、誰かにちょっかいをかけたりしながらなので、何かとたいへんなのだ。

いつも思うことだが、この手の生徒に関東弁でスゴミをきかされても関西弁に比べて、どこか迫力に欠ける気がする。(別にスゴンデほしいわけではまったくないが)。

さてと、ゆるゆると辿り着いた清水寺のなかにあった大黒出世にお参りし、かの有名な舞台に立ってみた。

「あれ?この景色、どこかで見たことがある」

そう思って、記憶を辿ってみる。『東京物語』だ。

すぐさま、「ねえねえ、小津安二郎の映画に、ここが使われてなかった?ほら京都に旅行するとかなんとかで、『おじさま〜』って、原節子が呼んでいたような気がする…」と同行者マスイ氏に尋ねてみたが、「そうやったかなあ〜。うーん、覚えがない」とのこと。(それにしてもジジクサイ奴だなあと思われたかもしれない。先方は、見たのかどうかもわからない、とのことなのに)。(内田注:それは『晩春』。「おじさまー」と呼んでいるのは原節子じゃなくて桂木洋子)

でも、たしかこの場面だったと思うんだけどなあ。帰ったら確認してみよう。

三年坂、二年坂を降り、法観寺の塔を遠くから眺めて、東大路通りへ。休むことなくいっきにたくさん歩いたために疲れたので、タクシーで宿へと向かうことにした。

さすがにタクシーの運転手さんも観光客相手の会話には手馴れたものだ。

聞けば、いま公営放送で月曜9時15分から放送している『恋する京都』のロケ地がここいら各地にあるらしく、それが毎回どういうふうに使われているのかを見るのが楽しみにされているのだそうだ。もちろんお客さんとの会話のネタ仕込みのためにもそうしているらしい。

「ぜひ見てみてくださいよ、おもしろいから」と、その気さくなおじさんはたいそうご機嫌そうにことばをかけて、旅館近くの通りで私たちをおろしてくれた。

嫌いな俳優が出ているわけでは決してないし、嫌いな話しでもなさそうだなのだ。しかし、残念ながらいまのワタシには、それよりも『プライド』を見ることのほうが大事なのだ。…なんて間違っても言えなかった。

 

2004年3月7日(日)また雪が降り続く。

1年ぶりくらいにレンタルビデオ屋に行く。

訳あって藤木直人版の『高校教師』最終話を借り、1年ぶりに最終回の最後の最後の部分を見る。

ようやく手に取ったビデオから、気になっていたことが解決し、いささかこころのひっかかりは消えたけれど(じつは本放送のとき留守にしていたか何かで録画予約していたのだが、最終回特有の番組延長があり、最後の最後の部分を録画しそこねたのである。以後、どうなったのかわからぬままときを過ごし、ビデオ化されたら借りに行こうと思ったままになってしまっていたのである)、前に見たときほどの心の盛り上がりも、勝手にハマることもなかったせいか、何の感動もしなかった。やっぱりドラマにも旬というものがある。

いまワタシの旬は、なんであろうあのドラマである。

 

2004年3月6日(土)

ざ・稽古。以上。

 

2004年3月5日(金)

うっかり読み忘れていた『ROOKIES』24巻(森田まさのり・集英社ジャンプコミックス)を手に取った。

発売は昨年11月になっている。たまたま読みそびれていた。それが最終巻だとはまったく知らずに慌しく数ヶ月を過ごしていた。

過ぎ去った数ヶ月を憂いながら、当然のように涙を流しながら読んだ。

出てくるキャラクターたちも多くが泣いているのだ。きっとそれに誘われたのだろう。

「しくしく」というよりも「わんわん」(犬ではない)か「おいおい」に近い泣き声であったと思われる。

最終巻ということは、もうこれ以上このマンガの続きを楽しみにすることができないのね、と思うと、また哀しくなった。

この数時間前にはテレビで『夏目雅子スペシャル』をやっていて、うっかりそんな番組を見てしまったもんだから(密かに夏目雅子好き)、そこで、いっちょ身体が泣きモードに入っていたんだと思うんだど、おいら。んだもんで、涙がしくしく流れてきて、涙腺がちゅるりっと緩んでいたんだべさ。

さらにその前の週には、『七色いんこ』を読んで涙していたのだから、結局今週は涙腺が緩む頃だったんだろう。

ああ、ふにゃらふにゃふにゃ、ふにゃふにゃら。

 

2004年3月4日(木)

「珍しいことをすると雨が降る」なんて言いますが、きょうの西宮市の夕方は、それどころではなく、雪が降りました。白だとわかるそれが降り、おまけに風が吹き荒れたのです。

一瞬の出来事でしたので、お気づきにならなかった方もおられるでしょう。しかし、現に降ったのです。干してある洗濯物でもあれば、それを気にしてもいいくらいのものでした。

もう3月になり、さくらの開花予測がなされる時期だというのに、ここいら平地で雪が降るのは、なんとも不思議なものでした。

いつもなら、このような風景を見ても、「あれ、こんな時期に雪だ…」と思うだけで済むのですが、きょうばかりはそう思わず、代わりに「たぶん、それはワタシのせいです」と、心からそう思いました。

そうです。

やっぱり、本日、昼間の行いは、「珍しいこと」だったようです。振り返りながら、強くそう思いました。

さらに、珍しいことをしすぎると、雨では追いつかず、どうやら雪が降るということを学びました。

お天気の神様もどこかにおられるようですね。

 

2004年3月3日(水)

「顔」がずーっと気になっている。

もくもくと気になっている。

まだうまくよくわからない。わからにゃーから、ここにもうまく書けない。にゃあ。

 

2004年3月2日(火)

ぽっかりといちにち空いたので、早起きして、家中片付けまくる。

なぜ空いたのかといえば、きょうは、大学が一般後期入試で、「学生は大学に入っちゃならぬ」の日であるからだ。

そこで、掃除の日とし、年末に手を抜いたこともり、年度末大掃除の日としたのである。

思い切って、すこし棚の置き方などを変えてみたが、しかし、まだまだ途中である。結果的には、大掃除第一弾となった。

今週中には片付けてしまおう。

あとは、本棚の整理ってところだが、これが簡単そうで、難しい。

 

2004年3月1日(月)

3月になる。

カレンダーをめくって、新しい月を迎える。

先月のことは、ざっくり忘れて、さあ、出発だ。

新しい月は、新しい出来事があるんだろう。

わくわくしてきて、今日のことをいろいろ思い返しながら布団に入ると、早々と眠ってしまった。

 

2004年2月29日(日)

二日酔いではないが、ぼーっとしながら、いつものお昼、山下達郎の声を聴く。

この方は、相変わらず、ラジオでは相当によくしゃべる人である。(ラジオのDJをやっていて黙っているのもおかしいが)。

それとはまったく関係ないことだが、四年に一度の今日という日が「日曜日」になるのは、次は2032年だそうである。(別に彼がそう言っていたわけではない)。

ワタシは、そのとき何をしているだろう。

 

2004年2月28日(土)

今月はあしたまで。

宴会は12時まで。

おいしいうなぎは浜松まで。はいほー。

 

2004年2月27日(金)

 

『オール読物』を買って、今年の直木賞受賞作品の一部を読んだ。

江國香織のいくつかの短編と、京極夏彦の1篇。

感想は、「どちらも文章がきれい」。とてもきれい。

苦もなく、つまりもなく読める。いいなあ。こういうの。

小説を読んでいて何が楽しいかって、時間を忘れられるような没頭なり集中ができることだと思う。

(あと何ページ?)なんて思いながら、終わりを気にしながら読むのはちょっと辛い。

江國さんのは、これまでいくらか読んだことがあったけれど、京極さんのはこれが初めてだ。

とはいえ、「京極夏彦」という人は、じつは相当に好きな人物である。

でも、作品はこれまで一度も読んだことがなかった。作品と作者は別であるなどと勝手な理由をつけていたが、要するに、読まなかった理由は、怖いのが苦手だからである。

だって、見るからに「妖怪、妖怪」しているんだから。

でも、思ったほど怖くなかった。妖怪が溶解も熔解もしなくてよかった。(やれやれ)。

ところで、これらは、先日読んだ今年の芥川賞受賞作品とは、まるで毛色が違うなあ。

でも、あれはあれでおもしろかったし、読み応えがあったとは思う。

ちょっと格好つけて言えば、自身の高校時代を思い出すようなところがあった。

ああ、いま思えば、なんか、あんな感じだったかなあと、身の置き所のないぐちゃぐちゃした内心っていうんですか?そういうのを思い出した。

この手の感情をできるだけきっちり丁寧に言葉にしているようにしていること、そういう術を持っている人(つまりは文章力があるのでしょう)はいいなあと思った。

あ、もちろん、『蹴りたい背中』のほうの話ですけどね。

 

2004年2月26日(木)京橋はきっといいとこなんだろう。

 

所用で京橋に出かける。

この駅は、何度も通過しているが、降り立ったのはこれが初めてである。

車窓からは、関西で有名な「グランシャトー」が見えた。

駅は何度も通過しているのだから、これまでだって見ることはもちろんできたし、見てもいたかもしれない。しかし、実際、「おおこれが」と意識して見たのもまた、これが初めてである。車窓からの景色は一瞬で流れるものだからだ。

さて、京橋というところには寝屋川があり、よみうりテレビがあり、松下電器があり、パナソニックがあり、ほかにも企業があった。おおっと、忘れちゃいけない。われらがKDDIもある。とまあ、いわゆるオフィス街である。

昼ごろ、そこいらをふらふら歩いていると、どことなく「アメリカ臭さ」を感じた。

いや、アメリカの街でした匂いがここにもある、というほうがより正確だろう。

見た目の「それっぽさ」としての「臭さ」ではなく、ほんとうに嗅覚による「匂い」。

ビルの並び方というのか、道の作り方というのか、あるいは飲食店の集客のされ方というのか、そこここに、アメリカの現代の「匂い」を感じた。

とにかく街あるいはその場全体が、きれいな「アメリカ臭さ」で占めつくされているように思えてならなかったのだ。

単に建物の素材のせいかもしれないが、なんだか知ったような知らないような場所だった。

ここは日本のはずなのに。

休憩時間のおいちゃんとくうに会う。

仕事をするということの意味がまた、一段と大きなことに感じた。

 

2004年2月25日(水)

空回り。

 

2004年2月24日(火)

映画を見に行こうかと思っていたが、結局のところその気になれなくて止めた。

それよりも、うっとおしく伸びた髪を、すこしでも切ることにした。

出かけた三宮で、クボさんに会う。

ワタシの進行方向からやって来て、向こうから声をかけられた。

つまり、これからワタシが行くであろう方向から歩いてきたということになる。

ところでワタシは、こんなふうに道端で会うと、強烈なご縁を感じる。

それは、知らないもの同士であれば何でもないまますれ違うだけなのに、まさに「袖触れ合う」ように道で顔を合わすからである。すれ違うようなかたちで会うから、余計に強く感じるのである。

あるいは、この瞬間に向こうとこっちが、同じ場所に同じ時間にいなければ成立しない関係があるのだ、と妙な偶然に感激してしまうことでもある。(ワタシがです)。

もちろんほかの場所で偶然会うことだって、ご縁といえばそうなるだろう。しかし、どうも予定されていないような場所で、自らの意思なり何なりで歩いているようなところで会うと、「瞬間」の度合いがより色濃くなる気がする。勝手にそんなふうに解釈してしまう。

あ、そうだ。

その人と初めて会った場所ではない場所で会うとご縁を感じる、というのでどうだろう。

この場合なら、初めて会った「学校」ではないところで会ったから、ということになる。

ふむふむ。

そんな日は、そういうことが続くもんで、清荒神駅で、ばったりハダさんに会う。ほんとに「ばったり」という感じだ。

ばったり。

やっぱり、なんだかんだ言ったって、この方もご縁のある人らしい。

その時間その場所が同じってことがうれしい。

大きく手を振りながら、そんなことを思った。

 

2004年2月23日(月)

晴れたり止んだり曇ったり。おかしな空。

 

2004年2月22日(日)フフフ

春はまだ完全には来てなかったみたいだ。

夕方から雨が降り、風が吹き、稲光がした。

ピカッと表が光ったかと思うと、数秒後には思いっきり大きな音で雷が鳴る。

雷ってのは、あまりうれしい音ではない。

 

2004年2月21日(土)

ぽかぽか陽気の2月。だけど気温は4月下旬。

なんだかそれはそれで、どうもなあ。

肌で感じる気温だけは、もう春になったみたいだ。

 

2004年2月20日(金)

とくにこれという特別な感情も心情も抱かず、それでもしかし、悪くないと思える日だった。

 

2004年2月19日(木)雨水

だんだんと春が近づく頃。

「気持ちよく晴れた日の午後3時40分頃の陽だまり」というのがワタシは好きだ。

それよりすこし前の3時半ではまだ暑すぎて好きにはなれないどころか、嫌いだ。身体がだるくなるし、眠気を誘うからである。

その時間以降の4時前になるとまた、途端に好きではなくなる。これはさっきの「嫌い」よりは少し好意的な感情だ。なんとか受け入れ可能な時間。

日の暮れがさらに早い冬の真っ只中の時期だと、慌てて日暮れの準備をしているふうで、なんとも落ち着かない春が近づく頃だからこそ手に入れられる、あるいは出会える時間だ。

夕暮れに入る前のちょっとした瞬間、この時間にふらっと空を見上げながら歩くことができるとき、ワタシは心が躍る。

それは、日が暮れるすこし前でありながらも、日がまだ残っているそのちょうど分岐点であり、交差点であり、同時着地点に出会えたことに全身が震えるような喜びを感じるからだ。

日差しは暖かく、柔らかく、それでいて邪魔しない。瞬間的な美しさがあり、それは何ものにも変えがたい。

「分岐点」と呼ばれるところの中身は、じつは何ひとつはっきりしないもので、何かと何か(別にふたつでもなくていいけど)が、あまりに分類もできない状態で、ごちゃまぜになり、整合性も何もないくらいにぐちゃぐちゃに混ざり合っているような気がする。

しかし、なぜ、こんなことを思うのだろう。

 

2004年2月18日(水)

 ♪水曜日はウェンスデー 

(続きを書きたかったが、以下、歌詞忘却したので、後日思い出したら記すことにする)。

 

2004年2月17日(火)

勝手に命名「真ん中誕生日」の日のお祝い。

ということで、内田先生にお肉をごちそうになる。(イワモト氏と共に)。

場所は、かの有名な神戸牛を非常においしくいただけるステーキハウスKOKUBU。

とろけるような舌触り、忘れることのできない感触、そしてなにより、タイミングもばっちりうまいガーリックライス!

すごくおいしかったです。ごちそうさまでした。

 

2004年2月16日(月)

とある自動車会社のCMには、「Tヨタが作ったオウシュウシャ」というナレーションが入る。

「オウシュウシャ」は「欧州車」なんだろうけれど、それを聞くワタシの頭は勝手に「押収車」と変換してしまう。

とあるドラマを見ていると、必ず提供しているあのCMである。(ドラマとは何の因果関係はない。念のため)。

 

2004年2月15日(日)

中華三昧の日!うまいんだな、これがっ。

 

2004年2月14日(土)

バレンタインデーだ。春一番が吹いた。びゅーん、ごごごごごご。

 

2004年2月13日(金)

「どん底」の「底」がどこにあるのかなんて、一体誰がわかるだろう。

 

2004年2月12日(木)

稽古中、足が「ばっこーん」となりました。

ほんとに「ばっこーん」という感じがして、それ以外言いようがありません。

「ばっこーん」。

おー、いてててて。どうしたのかなあ。

 

2004年2月11日(水)

内田先生の引っ越しの日。芦屋市から芦屋市へ。

なんだかおもしろい引っ越しだ。

朝から出かけて、夜の宴会まで、ずっとお邪魔していた。

いろんな顔ぶれがあって、楽しかった。どこかですこし疲れたけれど、それでもまた、多方面に勉強になった。

それにしても、引っ越しというのは、その作業全般を含めて、なんと「学ぶ」ことが多いものだろう。

いや、その気になれば、何であれ、「学ぶ」ものに溢れているんだろうな。

こういう場を提供してくださいました内田先生、どうもありがとうございます。感謝します。また頃合を見て、「引っ越し」してくださいね。

 

2004年2月10日(火)

誕生日パーティのため、大阪に出る。

そのついで、大阪にしかない店で買い物をする。

まずはヨドバシカメラ。ようやくウィルス対策ソフトを購入。

こういうソフトを買うことに抵抗がなくもないが、以前パソコンがウィルスに犯され、ひどい目にあった経験があるので、以来、予防策としてウィルス対策ソフトをインストールすることにしている。幸か不幸か何度か救われたこともある。しかし、これで万事安全というものではない。「ないよりはまし」というところだろう。まあ、厄除けか、お守りみたいなものだ。

とは言いつつも、やっぱり買わなければならないのは心苦しい。金銭的な面というよりもむしろ、それをインストールするための時間を使わなければならないこと、ウィルスが来ない場合であれ、来る場合であれ、誰の何のために、それをしているのか結局わからなくなることが、ときにあるからだ。

もちろんパソコンが壊れて一番困るのはワタシなので、自分自身のためにそうしていることに違いない。けれど、不特定多数の人間を傷つけることへの対策としてその行動(この場合ならウィルス対策)をしなければならないことに、大いに疑問を抱くのである。次元は違うのだろうけれど、無差別テロや大量虐殺のための予防策みたいなものだと思う。そういう暗い未来への対策ってというのは、なんだか苦しい。

こうなったら、いっそのことMACにしようかとも思うこともあるが、XPならウィンドウズの画面はまったく嫌いではないし、いまはまだこのマシンと仲良く暮らしたいと思っている。何度も助けられたし。

ヨドバシカメラの階をてくてくと変えて、今度は近々必要な電気製品を物色。

うっかりすると、店が違うというだけの理由で、モノによっては数万円の違いが発生する。どこで買うかはまだ考え中。

次はロフトに行って、歯ブラシの替えを買う。三宮にも行ったのだが、そこにはなかった。そんなとき、やっぱりここは大阪、日本第二の都市なのだと、流通の活性化を思う。

これで、気になっていたものは買った。

あとは、JR大阪駅の御堂筋口から中央口付近の近くに出て、最近できたらしい通称「mido」をぶらぶら探索。黒を貴重としたカフェは早くも賑わっている。

白を基調とするJR駅構内のデザインのなかで、黒は、当然のように異彩を放つ色となる。

よって、その一角だけが異空間を生み出す。

しかし、見慣れるとそうでもなくなるのだろうか。視覚はどれくらい新鮮さを保てるものなのだろうか。そんなことを考える。

隅には、本屋もあった。

賑わい方も客層も、そしておそらく店頭に並ぶ本や種類も、阪急の本屋とは違う。

雑誌の並べ方ひとつでも、袋の使い方ひとつでも、どこか違いを感じる。

記念に一冊、『文藝春秋』を買ってみた。

 

2004年2月9日(月)

いろんな疲れがどっと出たのか、朝起きたすぐから、うまく頭が働かない。

昨夜は、いつもより幾分早い寝つきだったので、単なる睡眠の取りすぎかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。疲れていることには変わりなく、ぼんやりする頭であることには違いなかった。これでは何もできない。

仕方がないので、いちにち静かに休む。そうでもしないと、壊れそうだった。

どこにも行かず、部屋からも出ず、ただただ静かに休む。全身を弛緩させる必要あった。

そうしながら、ふと小学生6年生のときのことを思い出した。

何もすることができず、休むことでしか時間を過ごせなかったあの日のことを。

いまでもそうだが、これまでもわりと健康体にできているので、めったなことで体調を崩すことがない。その分、たまの微熱が身体に大きく響く。したがって、体調を崩した記憶の方が結局鮮明に覚えていることになる。

十五年前のあの日もまた平日で、朝から体調がよくなかった。

しかし、学校を休むのはどうも気がひけた。「誕生日だから休むのもなんだな」と思ったからである。

ワタシという人間は基本的には、学校はできるだけ休みたくないというポリシーのもとに生きていた。

かといって、小学校という組織になじんでいたわけではない。どちらかといえば、なじんでいなかったように思う。

中学高校大学と進学しても、それは同じことだ。組織にはなじめないのだが、なぜか、一度も「サボる」という発想のもとで学校を休みはしなかった。

休んだのは、病欠や登校停止の病因(インフルエンザや風疹など)にかかったとき、忌引き等の理由のうえである。

こうなったのには、訳があるだろう。思春期ってものにでも問題があるんだろう。めいびー。ま、別に今は今があるので、過去の話はとくに触れない。

とにかく、すこしくらい体調が悪くとも、ちょっとくらいは平気だと思い、学校に行った。

何とか辿り着き、その日は無事に過ごしたが、無理が祟ったのか、翌日どっと発熱した。

かなり高熱だったように思う。とくに前日に騒いでいたわけでも何でもない。学校に行ったことで身体が余計に悪くなったんだろう。当然、翌日は学校を休んだ。

休んだ日は、病院に行くのすら憚られるくらいの状態で、朝から頭は何も考えられなくなり、目の前がぐるぐるしていた。

結局、その日は病院に行ったのか、市販の薬を飲んだのか、そこいらのところはいまではもう記憶にない。ただ、横になって、ずっと眠っていたことだけは覚えている。

小学生にとって、平日に休むというのは結構新鮮なことだ。いつもの違う時間が流れ、いつもと違うリズムがやってくるからである。

しかし、熱が出て寝てばかりいるので、何も楽しいことはない。休むといったって、ほんとうにからだがどうにかしているのだし、「熱がある」、「寝る」のふたつしか、ほかにすることがないからのである。

もうすこし意識がはっきりしていたなら、本を読むとかテレビを見るなど、何かしようもあったんだろうけども、何をするにも意識が遠退いて、ついていけなかった。

眠っては覚め、覚めてはまた眠るを繰り返していると、起きだす時間がいったい世間では何時頃なのか、ついにはわからなくなってくる。そして病人は、いつもと違う時間世界へとさらにさらに深く入っていく。

身体は汗をかき、体力は消耗する。しかし、さらなる体力を作るエネルギーをうまく吸収できない。普段ほどモノが食べられなくなるからだ。寝るのにも、食べるのにも、熱を出すのにもエネルギーが必要だ。

何度目かの目覚めのあと、ようやく布団から抜け出した。目の前には、すっかり夜になった世界があった。それでも、すこしは現実世界に戻ってきたように思った。まだどことなくボーっとしていたけれど。

何気なく目の前にあった夕刊が眼に入った。

ぼんやり1面を眺めると、手塚治虫の訃報の記事。

また熱が出てきた。

 

 

2004年2月8日(日)「にやっ」と笑う元気が欲しい。

年に一度の誕生日。また今年も節目となる朝が来た。

そんなきょうは、生まれて初めて「着物」に袖をとおす。

着てみてわかったのは、ワタシの身体は、かなりの割合で「着物体型」にできていたことである。

着物体型とは、ここで個人的に感じる代表的なものを勝手に上げれば、「寸胴、なで肩、胸なし(あるいは腹がでている)」といったところである。

ほかにもいくつか、身体に日本人的体型の箇所があるようにも思うが、ここでは、これをいちおうの表記としておこう。

思わぬ発見があったので、これからは機会を見つけて、着物で過ごそうかと思う。

自分で言うのもなんだが、洋服よりも似合うかもしれないからだ。ひとますは、ちゃんとひとりで着られるようになろう。さらにできれば、袴で過ごしたいですね。

初めての着物を着て、これまた生まれて初めて、「新年会」に出る。

謡は『橋弁慶』、初仕舞は『紅葉狩』。

「草紙洗小町」「邯鄲」「葛城」「羽衣」では地謡に出させていただく。

謡では、下川先生から、「これから、まだまだ大きな声がでる。がんばりなさい」と過分なお言葉をいただく。

お声をかけていただき、学生の分際のワタシを、ここまでお導き頂いた内田先生に深く感謝。

 

2004年2月7日(土)

「本日はお日柄も良く…」というようなフレーズが、何かめでたいことがあるときに使うことばなら、ワタシにとってきょうは、これとは正反対の「本日はお日柄が悪く…」がぴったりな日であった。

何が原因か、とっさにはわからないけれども、どうもふにゃふにゃして、ぐずぐずしていて、何かと「お日柄が悪い」のである。よって、気持ちの上でもどこか釈然としない。

ことがうまく運ばないとき、あるいは何をやっても前に進まないとき、それこそ何が悪いのかの原因追求に時間をかけたり、考えこんだりするのではなく、あまり無理せず、試したりせず、静かに見過ごすのもひとつの手だろう。あるいは、事と次第によっては日を改める。ということで、とにかく静かに過ごしてみる。

 

2004年2月6日(金)

さむいっ!

 

2004年2月5日(木)

稽古に行く。久しぶりである。

2週間ぶりくらいかな。それで、久しぶりと感じられるのは幸せだと思う。ああ幸せだ。

とても好きな時間だ。好きな人がたくさんいるのだ。

終わったあと、いくつかプレゼントを頂いた。

「何かを頂く時期」というのもまた、集中するのかしら。ともあれ、どうもありがとうございます。おいしく頂きます。

外は満月。

何かとうれしい夜なのである。

 

2004年2月4日(水)

寒い夜は哲学に限る。

冷たい風は眼に沁みる。

理解を超えたことばはいつか身に沁みる。…ことがあるだろうか。あればいいのにと、先のことはわからんが、そうは思う。

 

2004年2月3日(火)節分

毎度、「拙文」、お読みいただき深謝。

豆をまいて、寿司を食べた。いわしを食べた。年中行事だ。はいほー。

寿司は、何の謂れもない、「手巻き寿司」である。料理を作る母に言わせれば、それは、「手抜き寿司」だそうだ。

 

2004年2月2日(月)

友人が泊まりに来る。

明日から、NPO支援のインターンシップだか何だか、詳しくはよく知らぬが、サンフランシスコに行くらしい。集合が翌朝早くの伊丹空港らしく、先月末で宿を引き払った彼女にとって、その時間に空港まで出てくるのが、難しい状態だったからというのが理由である。(実家は北陸辺り、親戚は兵庫の奥の方だというのだから、まあこれは仕方ないとしようか)。

夕食をご一緒したついで、久しぶりに話しでもしようかと思ったが、明朝の出発時間が早かったので、「ま、気をつけて行ってきてね」と思うだけにした。(だって、出かける友人を前にして、ワタシだけ、寝ているわけにはいかない。たとえ二度寝してもだ。じつは、睡眠不足には相当弱いのである)。

 

2004年2月1日(日)

二月だぜ、ベイベー。

 

2004年1月31日(土)

香取慎吾くんの誕生日。じつは、おない年なのだ。

 

2004年1月30日(金)

エステに行ってみる。

じつは、こういうものは、生涯で一度もご縁がないかと思っていたが、なんだかどんなものかしらと、前からそれ相応の興味はあった。それというのも、「如何にして‘美’を売るのか?」とか、「どれくらいリラックスできるものなのか?」とか、「そんなに需要があるのだろうか?」とか、「効果はあるのだろうか?」などの疑問が、ときどき、ふつふつと沸き出てくるからである。疑問は書き出すときりがないので、この辺にとどめるが、ともあれ、ついに今月、「お年玉キャンペーン」なるものを利用して、てくてくと出かけてみたのである。

「出かける」といっても、全身シェイプアップとか全身脱毛とか美顔がどーのこーの、というような名古屋弁でいうところの「でれりゃ〜えりゃ〜」ものに手を出せるような立派な立場ではない。よって、選んだのは、ひっそりとキャンペーン中の体験コース。ま、つまりは、顔をきっちり洗ってもらいに行ったわけだ。

ところが、この、単に「顔を洗う」という動作に行き着くまでが長い。これには、驚きを通り越して疲れた。

登録カードやらアンケートを記すまでは、まだ理解できる。しかし、ドアの開いた個室に通された以後、アンケートに沿った質問やら調査やらが、やたらと長いのである。

アドバイザーのような人の支持に従って、部屋にとおされる。「どのコースになさいますか?」(それは予めこちらから伝えてあったのだが、再度確認するという作業がまず彼女たちの仕事のようである)の質問に始まり、ワタシの肌をカメラで撮って、モニタに映し、お肌の確認作業へと入る。

アドバイザー氏は、「お客様の肌は、どれこれどういう感じです」の具合のことを言ってから、「これほどひどくはありませんが」と付け加えつつ、悪い肌のサンプル写真をいろいろと見せてくれる。

このときは、「悪い見本」になることを仕事とするひとも、この広い世の中にいるのだと、改めて感じる瞬間である。そして、ワタシのお肌が、どこかで悪い見本にでもならないかしら?と思う瞬間である。

その後、ワタシ自身の肌のキメについて、粗さやら、角質の話し、将来的にしわの原因になるものまで、まあ、それはそれで丁寧に教えてくれる。

(そんなことをいうアンタの肌はどうなの?)と思い、ちらっとアドバイザー氏の肌を見ると、顔面塗りたくった「肌色」をしている。いや、深い意味はありませんが、ところどころに凹凸がある、そんな肌。どことなく話していることの信憑性に欠ける気がしてくる肌である。

そのようなこちらの勝手放題な思いなどは、表にまったく見せず、話は手順を追って流れていく。

そして!お約束その1.

「今回でしたら、このプランに千円プラスされますと、もう1コース選べますが、いかがですか?」といった意味合いのことを言う。(「ほら来た!」と腹の中で叫んでしまう)。

そう言うが早いか、「もうひとつコースを選べるとしたら、どれにいたしますか?」との質問。「まあ、顔でしょうねえ」と、ここは曖昧に答えておく。

規定の体験コース料金を納めて、次の段階へ。ここまでの所要時間約45分。ぜいぜい。

ここまで話を聞きながら、エステというのは、まず、イラチというか、せわしないひと、その日に時間のない人には、まったくできない代物であるように感じた。ワタシもその類だが、行ってしまったものは仕方ない。きょうは、たまたま休みで、それなりの余裕があったので、ある程度は覚悟していたことである。

着替えて、ようやくクリーニングルームのような部屋に入る。一瞬、歯医者さん診察台にある椅子のように見え、「ううっ」と驚きそうになった。大概の人はそうだと思うが、歯医者という場所には、余りよい思い出を持たない。

ここの椅子には、タオルがぐるぐるとくるんである。きれいにくるんである。それに、座ってみると、思ったほど座り心地も悪くない。まあ、そりゃそうだろうな。ひとによっちゃあ、そこに二時間ほども横になるってんだから。

そして、洗顔。「フェイスコース」(「美顔なんとか」がほんとうの名称らしい)の開始である。

はじめに使用前の写真撮影。

一通りの工程を終えると、最後に使用後の写真撮影。

その間には、一般に心地よいとされる音楽が流れている。

どうもどこかで聴いたことのある色恋の歌ばかりである。いわゆる♪ワタシはアナタに恋をして云々〜♪といった感じのものだ。

客の音楽への興味関心について、先方は、一定の見方しかお持ちでないような気がした。あるいは、エステティシャンの趣味か?それは、客がマッサージやら何やらをしてもらっている間、彼女たちもその音を同じように耳にするからである。しかし、すべてのところに出かけたわけではないので、単に店の方針だろうかなどとも思う。

写真を撮られた側は、(なるほど。こうすることで、終わったあと、「きれいになりましたね、あとはこの辺がどうだこうだ…」と言うのだろうな)と思いながら横になっていた。

実際、終えた後の説明が、「あとはこの辺りお肌がどうのこうの…」というものだったときは、笑いそうになるのをぐっと我慢した。

そのまま、お約束その2.

使用前使用後の写真を見せて、いかに変化したかを知らせてくれるアドバイザー氏。そして、出てきたことば。

「今回の体験コースにはないのですが、ほんとうはここでお伝えするものじゃないのでんですけど、本来ならこれに○△万円足していただくと、通常のコースになります。今回はその半分の◇○万円で、ご提供しています。期間は1ヶ月に3回使っていただいても結構ですし、3ヶ月にわたって使っていただいてもいいですし…。(中略)ほかのエステのお店とかでしたら、ここまでのコースはないんです。ほかのエステのコースなどはご存知ですか?こちらには、お客様のひとりひとりのお肌に合った細かいコースがあるんですよ。いかがですか?これからのためにも・・・うんぬんかんぬん」

とまあ、だいたいはこのようなことを言っている。説明を聞きながら、腹の中ではまた、(来た来た来た来た!)とワタシは、内心喜んでしまった。

しかし、せっかく一生懸命説明されているのを、「いらん」と、そう無碍に断るのも悪いので、「いやあ、そこまでは余裕がないですから、いらないです」と、ここははっきり断っておく。

残念だったね。「お客様のお肌に合った細かいコース設定」よりも先に、お客様の身の丈に合ったコースを勧めるべきだったね。

さて、今回、初めて行って感じたこと。

ひとつは、ここは、悪いところではないが、はっきり行って、手間がかかる。時間がかかる。美容とは、実に手間隙のかかるという点である。自らで美容と何かをするにしてもそうなのだから、誰かにそれをしてもらうのなら、なおさらかもかもしれないが。

でもこれが、どこかの国のマッサージか何かだったら、こんなふうには、時間がどうのとは、思わないんだけどなあ。

もうひとつは、ほかの場所はどうか知らないが、肌なり何なり、「悪いところ」を誇張して見せておいて、改善策を「ぜひ、わが社の製品で」と言うような売り方はどうもなー、という点である。こういうのは肌よりも心に悪い。まあ、互いの利害が一致すれば、それもいいってもんだろうが。

ま、何はともあれ、おもしろい「体験コース」でありました。

おもしろかったので、また来週に行ってみる。

あ、いやー、言い忘れましたが、ついつい、乗ってしまったんですよね、追加コースに。「記念、記念」となどと、思いながら。

だけど、何の記念?

うーん、それが問題だ。

 

2004年1月29日(木)余興では 怪我をさせては いけません

ドラマの撮影の合間、余興でエキストラに怪我を負わせたキムタク。そんなことをしては、まったく余興になりません。余興本来の意味が消し去られます。

新聞は、「診療代は局側がもつ」というような信じられないような、おバカなことを書かないでください。診療代は、怪我をさせた張本人「キムタクん」、君が払え。(たとえ、それをあとから「領収書」で落としたとしてもだ!)いや、払うべきだ。

だって、前歯だよ、前歯!しばらくは、おもてにもでられず、人相変わっちまうんだぜ!それに、君が出てる仕事の手伝いやってたんだぜ!

 

2004年1月28日(水)

なんとなく、おめでとう。

 

2004年1月27日(火)

きょうで講義が終わるのよ。きょうで後期が終わるのよ。

 

2004年1月26日(月)

「横のものを縦にもしない」とは、不精の例えである。すなわち、面倒くさがって何にもしない状態をいう。

「ヨコのものをタテにする」とは、一般に「横文字を縦文字にする」と言い換えである。いわゆる翻訳はこのことで、世の中には、この作業が好きな人がたくさんいる。これを職とされている方もおられる。

ところで、この日録を、ワタシは横書きの日本語で書いている。英文でも仏文でも伊文でもないのに、である。和文を横に書いているのだ。ワタシは、自ら抱く日本語の思いや感覚を、日本語のままに表記している。英文や仏文や伊文に置いてから、日本語に写すという作業を特別していない。(ほかでもあまりしていないが)。

じつは、ワタシはべつのところで、縦書きの日本語で、いくらかぶつくさ書いている。それを書くときのワタシと、ここに記すときのワタシというのは、なんだろうと思うことがある。というのも、書きながら、頭の、身体のどこかに、僅かながらのズレがあるからだ。

しかし、どちらもワタシである。よって、「どっちの部分が本当の自分なの?」と思春期真っ只中の高校生のような疑問を抱くことはさすがにない。それでも、なんだか感触が違う。

おそらく、同じ日本語でも、縦書きと横書きといった「文字表記の仕方」が何らかの解釈や違った思考を生み出しているのだろう。けれど、どちらも「同じ日本語」で書いているに、なぜだろうと思う。

本を読んでいるときは、日本語で書かれたものは、やっぱり、縦書きの方が断然読みやすい。雑誌だって何だって、専門書だって、マンガだって、そうだ。このごろは、日本の著者のものでも、横書きが増えているが、やっぱり文字が上から下に書かれたものが読みやすい。個人的な感触だろうけれど、翻訳ものを読むときですら、同じことを感じる。「日本語」と言う仕組みの中に置き換えられるときはいつも、縦書きがいいのだ。そう感じるのは、生まれてからこれまでに眼にしてきた数が、圧倒的にヨコよりもタテに書かれた文字を読むほうが多かったからだろうか?しかし、それだけの理由だろうか。

これが、インターネットという手段を借りれば、どうだろう。話は、またすこし変わってくるようである。

というのも、どうも、このツールをとおすと、紙媒体をとおすのと違って、文字が横書きでも何ら違和感がないからである。違和感を覚えないのは、ホームページにおける表記のされ方が、誰がルールを取り決めたわけでもないのに、最初から横文字が標準化されたかのように記されているからかもしれない。当たり前だから不思議にも思わないのである。それは、生まれたときから当たり前のように眼にしているものは、その状態が普通で自然で当然なのだから、わざわざ疑問を抱かないのが常であるのと同じ理由で。ゆえに、インターネットの画面に現れた文字が横書きであっても、とくに問題にはならないということか。(良し悪しはべつにして)。

そうだ。映画の画面だってそうだ。

トーキーの頃か、それくらい昔なら、黒い画面の中央に、ぽつんとタテに白いセリフが並んで見えた。(たぶん)。でも、いまは、ほとんどが画面の下側に日本語が出ている。特殊な事情を除いては、日本語いつも画面の下側に横書きである。

ということは、画像媒体と紙媒体は、与える文字の印象も違うということになる。

論文とか作文とか手紙なんかを書いていて、横書きが不便だとは思ったことは一度もない。

何か、どこか特化された権力か効力でもあるのかもしれない。あるいは人間の視覚の判断に深く関わるものなんだろうな。画像ってものは。

 

1月25日(日)

子羊って、おいしいのよ。

 

2004年1月24日(土)

稽古をする。

四方八方前後上下左右へと、身体を変幻自在に動かせるようになるには、これを「動かす」ことより先に、この身体をもっとよく知らなければならないなあ。ああ、近くて遠い自らの身体かな。

稽古のあと、大阪に出る。

土曜の昼に夕方に、賑わう街を歩くなんて、久々だ。今年に入ってから急に欲しくなって、ずっと探していた「オレンジ色のセーター」にようやくめぐり合えた。よい収穫。

 

2004年1月23日(金)

風の冷たさがまだ残る。何かにとりつかれたかのように、

 

2004年1月22日(木)

朝から昼から夜から風が吹き荒れ、雪が舞った。

寒いのを通り越して、冷たく、そして痛い。歩くのもままならない。

こんな日は、眼の部分だけ開いた「どろぼう」のように見えるあの毛糸の帽子が、本気で欲しい。だいたい紺色でどこかに赤を使っている、あの帽子のことだ。

 

2004年1月21日(水)

巷ではいま、「トリビアの泉」という番組の本がえらく売れているようですが、それを見て、いつも思うことがあります。その本が何十万部も何百万部も売れたら、そこに書いている知識というか情報は、トリビアでも何でもない、ただの情報になりはしませんでしょうか?

共有人数の少なさがものをいう知識のことを「トリビア」と呼ぶのだとしたら、余計にそう思います。本が売れるに連れて、そのトリビア度は下がることになりはしませんか。まあ、売れても売れなくても、べつにどっちでもいいですが。

きょうのカルチャーセンターは、身体の記憶の話し。

段々おもしろくなってくる。回を重ねるたびの面白さ、というよりむしろ毎回違う面白さが、ちゃんと現れてくるのであーる。身体にも運動性があってしかるべきだ。

 

2004年1月20日(火)

大学院の講義が最終日だったきょう、学内では、もうひとつ別の研究報告会のようなものがあった。とりあえず、どちらに行こうか迷った挙句、結局こちらを選んだ。

まあ、もともとの講義に出席したので、表面的には何ら問題はない。変化したのは一瞬のワタシの内面である。

そうしたのには訳があって、一年間一度も欠席することなく出てきて、最後に休むのもなんだと思ったからだ。「有終の美」ということばあるように。(いま、変換したら「憂愁伸び」になった。憂いが長続きしているようで、おもしろいことばである。いつまでも伸び伸び)。

さて、本日の講義これまでの「総括」。ということで、一年間、「日本の再生」をテーマに掲げて議論され続けてきた、構造的に気質的に果てまた機能的に耐久年数が余命幾許もないような日本社会の事物や機関、現象、物事、感覚に関連して、本日、内田先生が出されたお題は、「文化資本が生み出している階層化について今後の日本はどうなっていくのか(どう対応していくのか)」である。

先生の仮説として、このままでは社会は二極分化し、階層化されてしまうというもの。この懸念に対し、本日の教室は、闊達な意見交換の場となる。

文化資本に関わって社会全体が二極分化していくとなると、「教育の二教文化」「二極分化が財力に関わるとき心情」「文化資本における知識はいかに活用するか、なされるか」「エリートであることの意識」「文化資本が生み出す閉鎖的な世界と開放的な世界」「教養と教養主義」「身体技法・身体語法・マナー」といったものもまた問題になる。これらが今日の講義で次々に展開されるテーマとなった。

「話す」ということが、とっさにしづらい(これは致命的なことである)。かといって、静かに黙っているのもまた、辛いことである。

きょうは考えるところがあり、それを発言できぬままだったので、少し書いてみようと思う。

まず、文化資本とは、生まれ持った家庭環境によるところが大きいと思う。生まれ持ったものなので、選ぶことはできない。それに生まれてきた環境を簡単には変えることもできない。しかし、これでは宿命論である。

物心着く頃までには、文化資本を自らの手で求めることは難しい。例えば、生後半年の段階で、「バレエが習いたい」とは誰も言えない。それはバレエを知らないからであり、意思を伝えることばを持たないからである。

それでも小学校に入学する頃になれば、多くの場合、自ずと社会というものの一端に触れるようになるので、そこから自らの選択の幅が増えることがある。

ところで、「文化資本」とは、本日の内田先生の定義によれば、「本を読むこと、音楽を聴くこと、海外旅行をすること、友達と遊ぶこと、おいしい料理を食べること」などである。そして、これらは教養というものに通じ、ある事物に関して、どのような造詣があるか関心があるか、そしてどのような話しにつながりを持たせることができるか、それにより人は教養を有効に活用できるのだという。先生はそれをして、「何かと何かをまっすぐな線でつなげること」とおっしゃった。

ふむふむ、なるほど。そうだろう。

「教養を使うこと」ができるというのはまた、先生の言われるように、「コミュニケーション」の手段がひとつ増えるのだから。ほんとうにそうだと思う。

誰かの何かの話について、「あ、それはあれね?」と言えれば、誰だって続きの話が楽しくなる。段々と話が膨らんでいく。知らない人とも話ができるようになる。

もともと何も知らない人であれば、「それって何?」から始まる。それを説明してもらって話は終わる。なかには、説明してもらうことすら機会を得ずに終わってしまうこともあるだろう。それは悲しいし、話す相手を限定してしまう。(逆もまたありうる)。

そもそも、こういう次元で二極分化が起こることについて、先生は、「このままではいけないのではねーか」という話をされたのである。

諺に対抗するつもりはないが、「聞く」ことは恥であるとは思わない。聞くことで、世界が開かれ、知らなかったことを知るようになり、さらに探求することも、ときには可能であるからだ。しかし、それにも節度が必要である。何でもかんでも「知らない、知らない」で済ますのは、単なるバカである。

関連して、身体技法が教養のあり方に反映すると言う話を聴いた。

これもそうかもしれない。

「もうこれ以上考えられない」という場合、ひとは、身心に「つまり」を感じるように思う。自分では感じていないようでも、何かの壁にぶち当たっているように思う。

「つまり」とか「要するに」ということばは、物事をかいつまんで説明し、まとめるうえでは重要なことばであるだろう。しかし、ほんとうに詰まってはいけない。「ここまでは、こういうことね」という確認のためのことばでなければならない。そうでなければ、ほんとうに身体が「詰まる」だけで、ほかの人との話がまるで続かない。きゅうきゅうしてくるのだから。苦しい。

さて、話が逸れてきた。これでは単なる確認作業だ。

ワタシが言いたかったのは、なんだったかな。

とにかく、文化資本ってものは、昨日今日で培われるものではなくて、生まれたときからすぐさま育つものだ。だからこそ、まさに、それを導いてくれるような人との出会い方が大事だと思う。こどもには、大人が必要だと思う。大人だと宣言できる大人が。

いつの頃からか、大人がこどもになった。大人が平気でこどもの遊びをするようになった。こどもはいつも、こどものままだ。それが仕事だからだ。しかし、こどもであることよりも、大人である方が、特権が多いだろう。その意味は、大人になったものにしかわからない。だから、それになれないこどもは、いつまでたってもこどものままだ。年をとっても何をしていても。

さらに話が逸れてきたが、もうひとつ気になったこと。

二極分化について、これはいったいどの世代についての危機感として受け止められているものだろうか、ということが講義中、気になった。

ここに、10代のものから上は60代のものまでいるなかで、それを「同世代」とくくることは現実的に難しい。誰にとっての二極分化であるのか、あるいは、どの世代や世界において二極分化が始まるのか。果てまた、世代でくくるものではなく、起こるものなのか。

ときに、二極分化を語る「私たち」とは、その中に含まれるのは誰なんだろう?

決まった所得のある人だろうか、これから日本をしょってたつと思われるひとだろうか、大学生だろうか、若者と触れる時間の多い人だろうか、日本を背負っていると感じている人だろうか。しかし、このどれもが主観的なものだ。主観的な判断によるものだ。ことに関わる、関わらないが決められるのなら、主観だけで決められるのなら、そんなに問題化しないはずだ。

話の結論は、おいそれを出るはずのもではなく、よくわからんので、ここまで。

さて、この一年講義に出てみて痛切に感じたことは、哀しいかな、自分がいかに社会と繋がっていないかということであった。これをして、社会と知らないとも言うのかもしれない。発言できなかったのは、このことの象徴でもあったかもしれない。

だから余計に、大学にいるままにして、いろんな人と合う時間が持てたことは、刺激になり、学ぶことばかりだった。知らないことばかりだったから、勉強しよう。

感謝を込めて、みなさま、どうもありがとうございました。

 

2004年1月19日(月)

大学では試験を受けているとき、大概は呼名して出席を確認される。たとえ、それまで一度も出席をとらなかった先生であっても、このときばかりは名前を呼ぶか、主席表を配るかして、とにかく「その人物」がいるのかどうかを確認される。大教室で即座には計り知れない人数がいるときなどは、出席簿がまわって来て自分のところに確認印をつけることもある。

今日は試験がひとつあった。その先生は開講時期に数回、突発的に出席カードによって出席を取り、その数回を「重視する」という、何とも嫌な感じのする出席の取り方をされる。

別に趣味嗜好の問題かもしれませんが、学生の側にしてみれば、基本的には毎回取るのか取らないのかはっきりしてもらいたい。

声を出して呼ぶのが面倒なら、紙に書いて出しますし、取らないにしても、感想カードを書くとか、意見を述べるものを出すとか、それなりの方法があるのに、と思う。ぼんやりと1コマ聞いてばかりはつまらない。笑うことも、怒ることもできず、身体が窮屈なのだ。それで講義がおもしろければ問題ないが、そうじゃないから問題がある。(傾向として、講義中に「笑い」も「怒り」も何も感じさせないような、そして、何かを書くことさえ赦されないような先生の講義は、つまらないことが多い)。

ところで、今日の試験の先生は、初めて声に出して出席を取られた。その呼び方に、ワタシは驚いた。なぜ驚いたかというと、名前がすべて、呼び捨てだったからである。

これまで、大学内でいろんな試験を受けてきたけれど、名前を呼ぶのに、呼び捨てだったことは一度もなかった。些細なことかもしれないけれど、試験のときに呼び捨てというのは、新鮮というよりむしろどこかいやな気がした。

 

2004年1月18日(日)

「きょうは、門戸厄神祭らしいね」。

「ああ、そうみたいだよ。表は賑やかだね」。

「あれ?あれは何の音?水笛かな?懐かしい」。

「ん?どれどれ?」

「ほら、耳を澄ましてごらんよ。『ぴよぴよぴよ』って、一生懸命、笛を吹いてるこどもたちの、楽しそうな音が聞こえてくるよ」。

「そうかい、じゃあ、ひとつ買ってみよう!」

「……え?君に売ってくれるかな」。

 

2004年1月17日(土)

阪神淡路大震災が起きた日から、9年が経った。

これまでの年月は復興にあてられ、いくつかのものは元のようになり、いくつかのものは、その傷跡を見つめるようになった。

見た目には多くのモノが元に戻ったし、元のかたちそのままとは行かずとも、以前よりも利用がしやすい形で蘇ったものもある。使い勝手を考えると、「このほうがいいな」というようなことも多くあるだろう。震災復興事業の一環で、一気にかたをつけてしまった感じもないではないが。

それでも、日々を生きる市民にとって、有意義なことであれば、さほど問題はなかろう。

例えば、阪急岡本駅に特急が停車するとかといったことは、震災前まではなかったが、それはそれでよいと思う。

あれから9年。

「生きることを止めること」は、選択の一つかもしれない。だが、「生きることをし続けること」といった選択もある。どちらがいいとも悪いとも判断できることではない。そのような立場があることに、私は、いまさらながら気づいた。

震災が残した人と街とものと傷跡とつながりと体験のそれらすべてを、決して忘れてはならない。話すことが記憶にとどめるのならそれもいい。歌うことでも、語ることでも、書くことでも、記すことでも、何でもいいと思う。

大事なのは、それを風化させてしまわないことだ。

一年のいくらかでもいいから、この日のことを思い出す時間が誰しもにあることだ。

誰のせいでもないことだから、誰もが思い感じたその日のことを、考えねばならないと思うから。

本日付の朝日新聞の論調としては、震災で傷ついたその痛みに「慣れる」といったふうなことが書かれてある。

しかし、そうではないと思う。

もちろん、「いなくなった誰か」や「失ってしまったもの」への区切りは必要であるし、それがない状態に「慣れ」なければ、この現実界に残っているものは、先へは進めないだろう。しかし、そうではないと思う。必要なのは、そして、すべきなのは、「慣れること」ではなく、「忘れないこと」だ。単純だけど。

それは、「明日は我が身」というような次元の問題だからではない。

予測のつかない事態への警告として、誰もの身に関わるものとして然るべき状況だと思うからである。忘れないことが必要なのだ。地震というものは、震災と呼ばれるものは。

これ以上には、未だここのところはうまく説明できない。

それでも、誰の問題としても捉えなければならないからこそ、考えなければならないのである。防災も耐震も関わりも人との繋がりも。

「被災者となった経験」という意味において、実際のところ、私は震災の直接の被害は受けていない。すべては間接的なものだ。それでも痛さが伴う。もちろん、私の感じる痛みなど、たいしたものではないだろう。それでも神戸の復興が、ワタシが神戸に出てくるようになった年月とちょうど重なるとき、見てきた季節や場所に痛さを感じずにはいられないのだ。

この痛みもまた、忘れてはならない。

痛みを共感するのでも、分かち合うのでもない。「痛みがある」という事実を確認しなければならない。

たとえ、もう二度とそのような痛みをほかの誰かが経験しないようにと、願うことでしか、日々を過ごすことができないのだとしても。

きょうから、震災10年目の日々を迎える。

 

2004年1月16日(金)

いやあ、日本も、兵庫県も、寒くなりました。

学内のちょっとした移動にも、上着はかかせません。普段から温かいのに慣れていると、少しの気温差にも過敏になりますね。

ほんとうのことを言えば、上着は、講義時間もそのまま着ていたいくらいです。しかし、まあ、それも何やら、いただけない気がするので、とりあえず止めています。いまのところは。というのも、上着を着たまま受講するというのは、帽子を被ったまま受講したり、ご飯を食べたりするのとあまり変わらない感覚があるからなんですけどね。

もちろん文化的背景が違えば、帽子を被っていようが、上着を着ていようが、何の問題も発生しないのでしょうね。(礼儀正しいか、そうでないかなどというのは、あくまで文化的なものですから)。しかし、まあ、やっぱり脱ぐものだと思います。基本的には、ここ日本では。

そういうものだと思いますね。

こんなふうに言ってしまう理由のほどは、なんでしょう?

そういうものだからです。そう決まってるんですね。

「決まってる」というのは「決める」ということ、すなわち自身の判断基準ではなく、互いの判断基準なのですね。たぶん。だから、わりとすぐに変わることもあるんでしょうけれど、ひとりでは変えられませんね。あくまで、他人との合意が必要ではないかと思います。

ところで、これくらいの寒さで、とやかく言っていると、(このところの神戸は、最高7度、最低が2度から3度くらいの気温です)ミネソタのヤベサンに叱られそうですね。

ミネソタには、いつか遊びに行かせてもらいたいとは思っていますが、朝から「ドラゴンの炎」を噴出したいとは、いまのところ、とくに希望していませんので、お伺いするのは、できるなら温かい頃がいいですね。というよりも、実際、温かい頃ってあるのでしょうか?どうも寒い印象があります。日本ほどの湿気は、ないんでしょうけれど。

まあ、とにかくお元気で。ではまた。

 

2004年1月15日(木)

噂の「日向夏」(ひゅうがなつ)をいただく。

これは、宮崎県は日向の地で有名な柑橘類の一種である。院生のひとりが宮崎県出身であり、最近、親御さんから贈られてきたのをわけていただいた。ほかの柑橘類同様、冬頃のいまが旬の果物らしい。

表面は見た目に鮮やかな黄色をしていて、緑色した葉がきちんとついている。葉っぱが大きいのも特徴だろう。この食べ物には、対比の美しさがある。

表の皮を手で剥いて食べるのではなく、包丁でぐるぐると回しながら、りんごのように剥いて食べるのが基本らしい。柔らかく出来ていて、いわゆる「薄皮」と呼ばれる部分を果実と一緒に食べるというのもまた基本らしい。

出てきた果実もまた鮮やかな黄色をしている。きれいである。

「お砂糖をまぶしてもいい」ということだったが、まずはそのままの味で頂いた。

ちょっぴり酸味が効いていて、ほどよい冬の味がする。

いい頃加減の酸っぱさだ。

そうそうこの日向夏について、もうひとつ重要なことがある。それは発音は「ひゅうがなつ」である。

アクセントは、「ひゅうが」をのべたんと抑揚をつけずに言い放ち、「な」の部分を上げて、「つ」でまたもとの音に下げる。これが宮崎弁の「ひゅうがなつ」の基本らしい。間違っても、「うがな」の部分の音を上げてはいけない。

記念撮影

 

2004年1月14日(水)

きょうだったかねえ、ナガミツくん?そうだったらおめでとう。

じつは、周囲の勧めもあって、ことしは、友人知人先輩後輩、同輩、先生、師匠、親類縁者などなど、誕生日をまとめてみていることにした。いったいどれくらい記憶しているのか、ある意味、挑戦でもある。(何の?)まあ、一年の表にしてみれば、何らかの傾向があるかもしれない。ないかもしれない。

とぴうことで、この度、確認作業のため、「誕生日を自己申告」していただければ、たいへんたすかります。ただし、これまでにご面識のある方に限ります。「○◇さんのおとうさん」とか「○△くんのおばちゃん」とかいうのまで含めていると、きりがありませんから。

ご意見ご要望はこちらまで。 fwkd5556@mb.infoweb.ne.jp

夜、空を見ながら、つい踊ってしまう。

真っ黒な空に手を伸ばすと、届きそうだった。

ららら、ダンスステップ。

 

2004年1月13日(火)

日本でも「鳥インフルエンザ」とかいう病気が発生した。鳥のインフルエンザらしい。

この場合の「鳥」は、鶏、アヒル、カモ、七面鳥などを指すそうで、この度は、鶏にインフルエンザのウィルスが検出されたとのこと。

報告によれば、この年末から年始にかけて、山口県の採卵養鶏場で約6000羽の鶏が死んだそうである。インフルエンザとわかるウィルスが検出されたのち、県はすぐさま鶏と「念のため」卵の回収を行った。

人間がそれを食べてどうにかなったというような感染報告は、これまでのところ出ていないが、県としては、安全確保のためと病原体の拡散を避けて、卵の出荷停止を促している。

ワタシは、このウィルス発生について、最初に聞いたのがラジオだった。

しかし、このようなウィルスについて、これまで一度も聞いたことがなかったので、一瞬耳を疑った。「ええっ?何それ?」と。

静かに聴いていくと、どうやらほんとうに、鳥が病気にかかっているらしいことがわかった。(単に、こちらが無知なだけかもしれないが)。

話によれば、ウィルスが発症したのは、1925(大正14)年。以来、実に79年ぶりの発生だそうである。なるほど、それまでも、どこかで話題にのぼるような話でもなかったなあ。

ともあれ、山口県での発生を受けて、当県を始め、全国各地の鶏卵業者が大きな打撃を受けている。

なるほど打撃を受けるのは、当然と言えば当然のことである。

それまで「資本」として市場に売り出していたモノに欠陥があるとの理由で、突如モノが回収されたのだから、回収されたものはもう「資本」にはならない。回収された分の売り上げは、なきものとなるからだ。

とはいえ、回収され、何十万個という卵は捨てられていく現実を目の当たりにするのは、やはり耐え難い。それは、卵が普段から身近にある食べ物だからだろうか。

「卵が冷蔵庫にないと安心しない」というひとがいるが、実は、ワタシもそのひとりである。卵はわりと身近にある食べ物なのだ。

もちろん回収も廃棄も、人体への害を恐れてのことだろう。

「感染しない」と言われても、予防線として、回収や廃棄といった行動に出るのは、判断としてはそう大きくは間違っていないだろう。

しかし、なんとも言えない感覚だけが残る。

ウィルス発生が、別に誰のせいでもないだけに、余計になんとも言えず、苦しい。

さて、この一連の流れを受けて、京都だったかどこかの養鶏場業者が、半年前の卵を冷凍させて出荷していたと言う事実が明るみに出た。画面には、弁明する代表者の悲痛な顔が浮かぶ。

「だって、せっかくつくった食べ物を粗末にするのはもったいない・・・」。

代表者の訴えはこういうものだった。

事実はそうかもしれない。そうかもしれないが、それとは別に、半年前の卵を売っていること自体には、まるで賛成できない。

もしかしたら、それを食べているひとがいて、病原菌とはまた別に卵から病気になったり、身体をこわしたりしたら、どうするというのだ。

「せっかくつくった食べ物」ならば、それがきちんと「おいしい」と伝わる時期にいただきたいものである。まして、卵なんて、見るからにナマモノなのだから、いくら高度な科学技術が発達したとしても、あまり保存はきかないはずだ。冷凍卵というのは食べたことがないが、想像するにまずそうである。とくに食べたいとも思わない。冷凍は、みかんあたりがちょうどいい。

 

2004年1月12日(月)街並みに ちらほら見える振袖に 成人たちの香りかな

 

きっとみんな、各地で開かれる成人式に真面目に参加してきたひとたちなのだろうなあ。

しかし、「きれいだなあ」と深く思える着物は、ことしもまた出会えなかった。残念である。

それにしても、振袖の上にかける、あの「ふわふわした白っぽいの」が未だ廃れていないとは。

あれは、バブル時代の流行りかとばかり思っていたので、いまでも現存していることを知って驚いた。

そろそろ消えていったような気がしていたが、そうではなかったらしい。ふむふむ。

ところで、ワタシは、自身の成人式には着物も着ず、どこに出かけなかった。「行きたくなかったから」である。よって、その「ふわふわ」をつけた経験もない。

 

行きたくなかった理由は、面倒くさかったからである。別にわざわざ会いたいと思える地元のひともいなかった。(ま、要するに、その場所に、相当なじみが薄かったのですね)。

しかし、それ以上に根源的な理由は、あの避けがたい「女の子!」をアピールするような着物に、身体が耐えられなかったからである。

着物を着ること自体は、とくにいやではないが、ワタシにとって、振袖というのもまた、いわゆるジェンダーを強く押し出されたものと感じられたのだ。20歳になる前のワタシには、それを着て歩くことは、どうも憚られたのである。(早生まれゆえ、学年ごとに開かれる成人式ではまだ19歳で、いまよりさらに若輩者であった)。

さらに言えば、猿芝居でもしているかのように思えて我慢ならなかった。

着物でなくても、正装して、自分でどこかで写真を撮るくらいはしてもいいかなと思った。

幸いにして、着物を着せることを無理強いするような両親ではなかったので、それをいいことに、ワタシは着物の代わりにその年の春休み、ひとつきほど旅行した。

 

2004年1月11日(日)

二日酔いはどこにもないのだけれど、久しぶりのお泊まりだったせいか、どうも睡眠時間が足らなかったみたいである。

うちに帰ると急な睡魔に襲われる。

よって、着くなり、ばたんきゅーである。

来週からは、テストやらレポートやらの嵐に巻き込まれるというのに、体力が肝心だというのに、これでいいのだろうか。

しかし、体力勝負こそなれば、いまからきちんと眠っておくことも必要だと言い聞かせて昼寝。これで身体は、たっぷり休まった。

休まりついでに、夜は『新撰組!』を見る。

近藤勇演じるは、香取慎吾くん。

いいぞ!これからが楽しみである。

番組の最後、黒船の大砲に恐れをなした近藤勇と土方歳三(山本耕史くん…彼もいいね)の二人が抱きつくシーン(それもふんどし一枚)があった。二人とも、現代っ子のもやしっ子ではなかったので、安心した。身の丈も同じくらいで、やたらと大きい人たちである。

ああ、この番組は、エネルギッシュだ!

 

2004年1月10日(土)

午後から合気道の稽古をしたあと、鏡開きがある。

いつものように1品を持ち寄って参加した。きょうはまた、たくさんの種類の料理と日本酒とワインが並べられる。人も多い。とてもいいことだ。

しかし、今日のメインはこれではなく、なんと言っても「ダンス」である。

ダンスダンスダンス。

と言えば、村上春樹の名著だが…ではなくて、今回は、ダンスステップのこと。

とはいえ、そのステップが始まったのは、夜も更けた頃である。よって、参加者の誰もが遭遇した出来事ではないのである。得てしておもしろさとは、あとからじんわりやって来る、そういうものである。

しっかし、相当におもしろかったなあ。

70年代から80年代のビートでステップを踏む。

「これができないと合気道はできないよ」と内田先生は言われる。

いきなり講習会と自主研修会と審査会があり、「ダンス2段」を頂く。ふふふ。

こんなことを書く今も、足はひとりステップを踏む。これほどまでに、踊るのがおもしろいとはね。

気づいたら、きっとどこかで踊ってる。

もう足が止まらない。

 

2004年1月9日(金)

アセンブリーアワーの時間に、高島先生の最終講義がある。

高島先生はこの3月で退官されるため、きょうが、公に開かれる最後の講義となっていた。

時間の始まるすこし前、そろそろと講堂に出向き、これまでの先生の社会的学問的な歴史と人生とご活躍の一端を拝聴した。とても興味深く、お聞きしているだけで、エネルギーが出てきそうな人生である。

お話によれば、どうやら先生は「文学」の方でもあったらしい。ご専門が「社会学」なので、ワタシはあまり関われる分野がないなあと、実はこれまでずっとそう思っていたのだが、ほんとうはそうではなかったらしい。きっかけは、いくらでも転がっていたのかもしれない。ちょっと惜しいことをした。下村湖人の『次郎物語』が、先生の探求人生の出発点であられるようなことだったから。

この物語(ここで併記するのもおこがましいが)は、中学生だったワタシもまた、興味を持った覚えがある。きっかけはなんだったか、どこかの国語プリントか何かで読んで、おもしろいと感じたので手にとった、そんなことだったと思う。長いので、読破とまではいかなかったが、きょうの機会に、改めてその名を聞いて、何か懐かしく思い出すものがあった。こりゃあ来月に読もうと思う。

高島先生との直接的な出会いというものがあるとすれば、それもまた、最近そして今日も思い出したことがある。実は、過去に、ワタシは先生にお気遣いいただいた経験があるのだ。

先生の講義は、学部のとき、リレー形式のものを何か受講したような気もするが、記憶のほどが曖昧である。毎年開講されているような「○△社会学」というのは受講したことがないのは確かである。まあ、要するに、学部生の頃は、ほとんど先生の講義に出たことがない。

あれは、大学院生になったばかりの春のことである。当時、日本文化学専攻に所属していたワタシは、隣の社会学専攻の講義にも単位登録できると知り、「せっかく大学院に来たのだから、いろいろなものに触れたい」とよくある春先の意気込みで、「社会学」に関する予備知識も準備も何も持たないまま、先生の授業に登録した。

第一回目の講義に顔を出すと、真の「社会学専攻」のひとたちがずらっと顔を揃えている。別にそれにひるむわけではなかった。初めて見る方も多かったので、それはそれで刺激的なものとなりそうに感じた。

初回の講義は、学生側の自己紹介と講義の今後について説明だった。もちろんシラバスには講義内容が書かれてあり、それを読んで登録したのだが、実際に説明をうかがっているうち、どうもこれはワタシには向かないぞ、あまり積極的に関われそうにないな、と気がしてきた。とはいえ、物事を知らないのは当然である。これからだってどういうふうに思いや考えが変わっていくのかも誰にもわからないと考えてもみた。だが、どうにも興味関心が沸いてこない。そういうふうに感じるものに対して、果たしてこれから毎週、顔を出すことができるだろうか?と思った。ときには、自分に何かを言い聞かせるようにして。あるいは、そうなってしまうことは、本題について考えること自体もまた疎かになるのではないか。実際、それはそれで身体によくないし、辛いことだなあと思い改め、結局その場で登録変更することに決めた。(その年、講義で扱われたのは「アレント」だった。おかげで、いまでも「アレント」の名を見ると、平均的な不安が蘇る。平均的な不安?「不安」に平均も何もあるものか)。

先生にしてみれば、わざわざほかの専攻学生がやって来て、説明の話だけ聞いて止めて行くという姿は、いささか不審な者だと映っただろう。大教室の講義ならいざ知らず、ゼミ形式講義で、誰が誰とわかる教室から自己紹介までしてから、ワタシは去ったのだから。

おまけに当時は登録変更する場合、担当教員の印鑑が求められた。それをもらいに行くということはつまり、止める理由を止めるための場を用意してくださった当人の前で説明するということである。どういう理由で印鑑をもらったのか、それもまた今ではほとんど覚えていないが、とにかくこういうことがあって、ワタシは却って完全に、先生に名前と顔を認識されてしまうことになったのである。

そんなことがあった数週間後、初夏になる前の頃だったと思う。どういう偶然が重なったのか、ワタシは通学路で高島先生とお会いし、帰路、何度か並んで駅まで歩くことがあった。

最初お会いしたときに先生は、「私はねえ、フルハシさんに悪いことをしたと思っているのですよ」とおっしゃった。それを聞いたワタシは驚いた。まったく想像すらしない言葉をかけられたことに恐縮した。申し訳なさでいっぱいになった。「勝手にやって来て勝手に去って行った」のはワタシであり、先生には何の問題もなかったからである。何か返答をしようにもうまい言葉が見つからなかった。何か言ったところで、「止めた」事実に変わりないからだ。返答に窮する瞬間だった。

歩きながら、「社会学」や先生のことについて、少しだけお話いただいた。通学路には限りがあるので、そう長くはならなかったし、質問をする時間もそのときはなかったけれど、このような時間をありがたく思った。

また、それから後には、大学時代の友人や院の先輩やら友人が、なぜかみな揃って高島ゼミだったこともあり、先生との、ぽつぽつとではあるが、お話させていただくようなご縁はいただいていたのである。

いまでもやっぱり「社会学」はよくわかっていない。しかし、絶対的な嫌悪感を抱くものではまったくないし、嫌いじゃない。それは、このような先生との出会いがあったからかもしれない。物事の出会い方はとても大事であるのだと、そんなことを教わった先生のひとりであるように、いま思う。

 

2004年1月8日(木)

腕立て伏せをすると、少々身が重く感じる。やっぱり太ったのかしら。

太るのって限界があるんだろうか、ないんだろうか。

 

2004年1月7日(水)

2004年の講義が始まった。

大学に行く朝は、「おめでとうございます、本年もよろしくお願いいたします」の挨拶から始まる。普段は、頻繁には顔を合わさないひととも、今日はうまい具合に大学各所で会うことができた。おかげで、今日のワタシが「おめでとうございます」のコトバを伝えた相手は、全部で20人くらい。年賀状を出していようがいまいが、それは関係ない。本来は年賀状ではなく、こっちが主であったことを思えば、なおさら会って挨拶をするほうがいい。新年の挨拶は、先々も大事にしたいものである。というわけで、

新年あけましておめでとうございます

本年もご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます

2004初春

 

2004年1月6日(火

今頃、「マトリックスレボリューションズ」を見る。

出先の三宮の映画館では、今日が1000円だったので、すかさず飛び込んだ。

見てみて、はっきりした。あれは製作者がかなりの割合で、日本のアニメを見て育っているはずである。とくに「ガンダムもの」とその系列のもの、「天空の城ラピュタ」と「風の谷のナウシカ」は繰り返し見ていると断言してもよさそうだ。

「ミフネ船長」なんて名があることからしても、日本が好きな人が作ったんだろうな。

物語の中盤、機械都市だかどこかで戦う二人組の女の子が登場する。彼女たちの出番について、最初はその必然性がいまひとつはっきりしなかったが、見ていくうちに意味が通った。

「二人組の女の子」のうち、一方は髪を短く刈り込み、だぶだぶの戦闘用と思しきズボンをはき、ランニング姿でよく鍛えたような腕を見せている。もう一方は、髪は長く(ドレッドぽかったかしらん)、それなりに袖のある服を見ているが、戦争中のことなので全体に地味である。前者は「男の子」、後者は「女の子」に見える服装をしている。彼女たちの会話を聞かなければ、「二人組の女の子」だとはわからないはずだ。(前者はとくに「チャラ」と呼ばれていた)。

その二人組が、爆弾のある限り、バズーカ砲のようなもので攻撃してくる機械を撃ち捲くる。髪の短い方が銃を抱え、髪の長い方が弾を込める。

ストーリーとどう関連があるのかわからぬまま、なんでわざわざ、こんな二人を登場させるのだろうと気になった。が、疑問は一瞬にして解けた。彼女たちは「パズー」と「シータ」なのだとすれば。

「天空の城ラピュタ」を思い出せば、それはすぐにわかる。

ムスカ率いる黒眼鏡たちと競合した閣下一味に捕まったドーラおばさんが、救助されつつ再会したパズーに託したのは、この手のバズーカ砲だった。それもまた、一発ごとに弾を込めなければならないタイプの物である。撃てば弾を詰め込むのだ。マトリックスにおける「チャラ」もまた似たような銃を用いている。違うのは、砲弾の入口が横に二つ並んでいるため、二発いっぺんに撃つことが可能だということである。

ネオのラストシーンはもう、「ナウシカ」でしかない。戦争の場となった都市の人々の姿も同様である。見るほどにそうである。

見終わったあと、なんとなく、日本のアニメの影響を再編集してくれたものを見たような気がした。ここまでやると見事なもんだが、それならば、「マトリックス」は、二作目をもう少し時間を延ばして終わっておいた方がよかった気がする。なんとなく。

 

2004年1月5日(月)

新春特別公演「舞初メ、謡初メ、笑初メ。」を観賞。

狂言は、そこそこおもしろかったけれど、トークで茂山逸平くんの軽快なしゃべりが聞けた以外は、全体にもひとつの出来栄えである。

はじめに、茂山家本家にて1月4日に行われる舞初が再現に近いかたちで、この日に行われる。『舞初式』である。茂山家のみなさんがそれぞれ、小舞をされるわけだが、どうも動きがてんでばらばらに見える。「三人」が組になって舞うものがあったが、それなどは相当にズレテいる。もちろん舞自体は、おそらく西洋式な動きを多用するものではなかろうから、あまりに息ぴったり揃うというのも奇妙な気もする。が、あれでいいのだろうか?という疑問が残る。二人以上で舞う場合、その動きってのは、もすこし揃えるところがあってもよろしかろう。個性発揮ばかりが能じゃない、などと素人は感じてしまうのである。ぶつぶつ。

狂言は『察化』と『首引』。

この部での配役を知ったとき、これは機会を間違えたかなと思ったが、予想に反して案外よかった。期待はしないほうが喜びが大きいなと思う。

『首引』での逸平君は今回、面を被る役柄だったので、あまり、お顔がちゃんと見られなかった。けれど、まあ、身体の動きをよく見られたから、それでいいと思うことにしよう。(今年はまた、どこかで別のものを観たいもんだ)。

 

2004年1月4日(日)

下宿に戻ってきた。やっぱりこちらのほうが、向こうのうちよりも、どこか気持ちが落ち着く。今回は、いつになく長く帰省していたこともあるだろうけれど。

そういえば、きょう、日曜の昼間にやっている「アタック25」とかいう番組を見ていて驚いたことがある。「見ていて」と言っても、実際は、来ている母方の祖母が見ていたのを、横目でちらっと眺める程度のことだったんだが。予測もしない登場だけに、驚いた。

なんでもこの日は、「新春恒例の新人女子アナ大会」だったらしい。(なんとも差別的な大会だ)。「恒例」と言われたところで、毎年それを見ていない者にとっては、ただのテレビ局的事情が全面に押し出された番組にしか映らないが。

で、驚いたこととは、テレビ朝日系列の地方の放送局からの新人女子アナのひとりとして、ワタシの小学校時代の同級生がいたことである。(この日は「ふたり一組」で出場者になることがルールとして加えられていた)。

「とみたかさん」といったその人は、何度か遊びに来たり、行ったりしたこともある。

名字そのものは、さほど珍しくなかろうが、使う「漢字」がわりと珍しかったので、たぶんその人で間違いないと思う。あとは双子のひとりだったので、名前からしても間違いないと思う。(本名だったし)。学校も演劇系統に進んでいったので、推測だけからしてもおそらく当人だろう。印象的な目鼻立ち、(眼がくりっとしていて、わりとはっきりしたきれいな顔立ちだった)は、いまも大きくは変わっていなかったし。

見たのは偶然だったが、懐かしくなって、ついつい最後まで見てしまった。

 

2004年1月3日(土)

正月の三日目の朝もまた、雑煮を食べる。

こんどこそはと、餅は2個にする。するとまた餅が元旦のときのものと同じになっている。

え、これは、いったいどういうことなのだ〜!誰かのいたずらか?果てまたマジックか!(あとから聞けば、もらった餅を先に食べようと思ったというだけの、ただ単に、母の気分的な理由だったらしい)。

ともあれ、三日目にしてようやく普通の分量に近づく。そのころには、ぷくぷく。

午後は、赤穂にある大石神社に初詣に行く。(実家から車で約1時間のところ)。

鳥居に行くまでの短い通路には、ずらっと四十七人の石像が建立されている。等身大ではないと思うが、等身大かもしれない。全体にちびっこが多いなあと思う。(ワタシもその時代に生まれたかった)。とはいえ、江戸時代のことだから、等身大かもしれない。子孫とされる方々が寄贈されたらしい。名のあるひとの子孫に生まれるのも、大変だ。「石像建てて」と言われて、「いやだよ」と簡単には言えないだろう。

ところで、この神社は、今年「赤穂浪士討ち入り満300年」と掲げていた。たしか昨年は、「赤穂浪士討ち入り300年」とあったように思う。「数え」と「満」と「生誕」やなんかで、結局毎年お祝いがあるみたいだ。ま、めでたいことである。でも、来年はどうするんだろう。「戸籍上」とでも言うんだろうか。

おみくじを引いた。今年は「中吉」。

内容としては、日頃の努力を重ね、じっくり待つことが大切ということである。全般において、そういうことらしい。

なんだか、このところのワタシの様子を神様に見られていたかのようで、ちょっとドキッとする。

信じて精進することにした。そう決めた途端、するっと身体から毒気が引いたような気がした。軽くなったような気がした。何となく爽やか。

 

2004年1月2日(金)

正月二日目の朝もまた、お雑煮を食べる。

さすがに昨日は餅を食べすぎたと反省し、本日は3個に減らす。

しかし、よく見ると、昨日と形が変わっている。いつの間にか「丸餅」になっているのである。そのため、数を減らしたところで、分量的にはあまり変わっていないような気がしてくる。

 

2004年1月1日(祝)元旦

元旦の朝は、お雑煮を食べる。

いつになく晴れ渡る空がきれいである。こんな空は数年ぶりのことのような気がする。年の初めの日は、近畿圏は大概天気が悪かった印象があるからだ。雨は降らずとも、せいぜいが曇り空。それなのに今年は晴れた。世界のどこにおいてもまた、このような空であれば、いいのだが。

「おめでとうございます」の声を言うが早いか、およそ一年ぶりの雑煮を食べる。雑煮を食べる自らの箸がいつもよりピッチが早い。それに気づいた頃、とうに6個の餅をたいらげていた自分にさらに驚く。(うちでは今年、だいたい3センチ×4センチくらいの大きさの四角い餅が用意されていた)。

いくらなんでも食べすぎでしょう!しかしまあ、元気なのもいいでしょう!

久しぶりに食べたのは、「天気がいいから調子がいいのだ」のせいにして、パクパク食べてしまう。こんなに餅を食べたのは、小学生以来である。あの頃は、食べていた餅がもうひとまわりほど大きかった。だいたい5センチ×5センチくらいで、餅のなかに米粒が残ったような餅であった。(一般には「やじ」と呼ぶらしい。大きさは、祖父が好きに切っていたらしい。「もうすこし小さくしてくれないかなあ」と、意気込んで包丁を持つ祖父に、「やじ」を飛ばすこともできなかった幼き頃もまた同時に思い出す)。数は3つくらいだったんだろうか。そういうことにしておこう。

昼過ぎから父方の祖母宅に行き、年始の挨拶と新年会。

「エプロン持参でここでも働くワタシ」というのは、これまでに考えられない展開。

ただ、じっと座っているのが、いやだったからだけど。

 

 

 

 

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